往診
其の晩、月に一度の往診に来た実方辰顕医師は、老いても端然とした容姿をしていた。
仕事終わりに来てくれたのだろう。
早佐は、珍しくも美しい、辰顕の、其の、黒と金と白が混ざって生えた髪を、ジッと見た。
顕彦と似た髪だが、未だ、黒い部分が多く、艶々としている。
往診は、辰顕の養子の賢顕と、此の辰顕が、代わる代わる来るのだ。
養子だとは言っても、容姿の端正さは似ている。
顔が似ている、というわけではないのだが、分家から養子を取ったと言うだけあって、流石身内、という感じがする。
そして辰顕は、なんと、岐顕そっくりなのだ。
遺伝とは不思議だ、と、早佐は思う。
四年前までは、治の曽祖父の坂元栄医師や、治の父親の坂元紀医師も来ていてくれたのだが、観光バスで旅行中の事故死、という事で、治を残して、一族郎党亡くなってしまってからは、里には実方家の医師しか居ない。
栄は治と似ていたが、ハッキリ言うと、栄の方が治より五センチは背が高く、老いてはいても、更に正統派の美形、という感じがしたものだ。
紀の方も容姿が整っていたが、何方かと言えば紀の母親の夕に似ており、少し中性に寄った整い方をしていた。
どの顔が特別好きだった、という事は無いが、医師の彼等は優しかったので、令一は彼等の葬式に行かせてくれなかったが、亡くなった時は早佐も随分泣いたものだ。
彼等は賢く、外の空気を知らせてくれる存在だった。
其処は姉の理佐と似ていた。
「向き付けに申しますけれど。体調は宜しいのですわ。診て頂いても、自分の何かが変わるとは思えません。其れより、御茶にでも御付き合い頂けません事?」
自分でも生意気だと思う、布団から半身だけ起こしている早佐の物言いに、辰顕は、気の毒そうな目を向けて来てから、優しく微笑んで、気持ちは分かるけど、と言った。
「用も無しに、こんな時間に白衣を着て聴診器を持って、本家の離れに上がり込んで、十六の女の子と御茶して帰るわけにもいかないんだ。そんな気持ち悪い爺さん、家に入れちゃいけないよ。建前だけでも仕事させてほしいな。客観的に考えて?体裁が悪い」
此れだけ容姿が良くても、そういう事を思うのか、と思うと、成程、と言って、早佐は寝巻の浴衣の前を開けた。
医師には裸を見せ慣れているので、如何という事は無い。
相手の方も此方を見慣れているからか、諦めた様に、思い切りが良いよね相変わらず、と言って、実に事務的に、サッサと聴診器を当ててきた。
「はい、背中。肺の音は良いじゃない。はい、着物直して。脈。…うん。はい、血圧測っておこうか。今、道具を出すから」
往診はアッサリ終わったが、辰顕は、早佐が煎れた御茶には付き合ってくれずに、言った。
「…此の何日か、食べないんだって?厨で噂になってたよ。用の無い時以外は女中も下がらせてるって聞いたよ?如何したの?食べ物の好き嫌いやアレルギーは無い筈だろう?」
「食べないわけでは有りません。胃がムカつくから残すだけですよ。第一、大袈裟です、何日か、って、二、三日の話ですのに」
「胃薬処方しようか?膨満感かね」
「…そういう感じではないんですよね。塩気の多い物や、酸味のある物は食べられますし。吐き気はしますが、吐きはしませんし、胃が痛い、というのとも少し違うので。薬は嫌いですし」
うーん、と辰顕は言った。
「薬に頼りたがらないし、病気ぶらないのが、君の良い所だとは思うんだけど。まぁ…本当はなぁ、こんな、家に閉じ籠る程体調が悪い人間の肌ではないんだが。血色は良いとは思わないけど、内臓に何かある人間の肌じゃない。何処に荒れた所が有るでなし、綺麗なもんだよ。喘息ったって、一番酷かったのは四、五歳の時で、今は呼吸器を持っていれば充分だろうに。学校だって行かせてやれた筈なんだがなぁ…。可惜美人で賢い子の未来を潰した様で、俺は納得がいかないね」
「其れ、何時も仰いますね。本当は外に出ても大丈夫だろうって」
「令一だけは信じてくれないからな。俺がどんなに言ったって。…学校、行きたかっただろうね。日本国憲法にだって、国民には教育を受ける権利があると書いてあるのに、義務教育も行かせないなんて、俺には虐待に思えるけどね」
辰顕は、溜息をつきながら、診察道具を仕舞った。
仕方が有りませんよ、と早佐は言った。
「今年の夏の事を考えると、兄は、私を此処から出す気が無さそうに思えますもの」
此の夏は散々だったのだ。
微熱が続いたので、令一に副鼻腔炎を疑われて、勝手に耳鼻科に遣られた。
検査の結果、副鼻腔は綺麗だ、という事で、令一が、また、医師の話も聞かず、甲状腺検査に早佐を回した。
甲状腺は、大き目ではあるが異常は無いとの事で、また、令一は、勝手に早佐を婦人科に回したが、結局何も分からなかった。
辰顕は、落ち着け、と令一を叱り、早佐の血液検査と尿検査を行った。
すると、単なる膀胱炎だった事が判明したのだ。
一連の騒ぎを見兼ねた賢顕が、夏バテによる免疫低下だろう、冷房をあまり強くするな、冷えも良くない、と、呆れながら言ったところ、令一は、膀胱炎で微熱が続く訳が無い、と食って掛かった。
其処で結局、辰顕が早佐に膀胱炎の薬を処方してくれて、アッサリ治ったのだった。
巻き込まれて、食って掛かられた賢顕にしてみれば迷惑だっただろうが、令一は、辰顕の言う事なら辛うじて聞くので、結局早佐は、夏の間は辰顕に診てもらう事になった。
辰顕は、令一を捕まえて、今度からは内科で血液検査と尿検査を最初にしてから他所の科に回せ、と、珍しく、かなり長い説教をしていた。
十六の夏は、そうしているうちに終わってしまい、今度は、秋の風の冷たさか、竹林のせいか、久し振りに喘息の発作を起こしてしまって動けなくなり、治に助けてもらった次第だ。
当たり前だが、治には瀬原集落脱出の協力を断られてしまったし、やはり自分は、死ぬまで里を出られない事は決定してしまっているのだろう、と、早佐は、改めて、そう思った。
過保護過ぎる、と言って、辰顕は嘆息した。
「何だか異常だ…。いや、長の妹に、こんな事を言ったら悪いが。そろそろ水配りで嫁に出そうという妹に、ああまで…」
また水配りの話か、と早佐は思って、言った。
「まぁ、水配り、だなんて言ってみたところで、こんな、子供が産めるかも分からない様な人間を貰っても、相手も困るのではないでしょうかね。夏に何回検査にかかった事か」
「ああ、生理不順だって言ってたっけね?…でも、婦人科の検査だって、異常が出たわけじゃないし。君、月経が始まったのが、やっと十五でしょ?未だ安定してないだけじゃないのかな…?」
水配りと言えば、と辰顕が言った。
「伝言頼まれてたんだ。篠さんと那智さんが明日の昼に挨拶に来るって。何でも、那智さんと君が、合同で水配りなんじゃないかって話になってるらしくてさ。一度、瀬原分家から、瀬原本家に挨拶したいって事になったらしいんだ。明日の昼食の後にでも、身支度しておいた方が良いよ」
やはり那智と合同か、と思い、早佐は、納得しながら言った。
「ま、…こんな、病人が寝付いている、竹林の脇の杣屋の様な場所に御客様とは、御珍しい事。竹取の翁でも、もっと華の有る住処に居た事でしょうに」
「…謙遜、謙遜。長の家の離れに来る方は、訪問着を着て来ると思うからね。寝巻で会いたくないんなら、少し粧し込んでおけば。ああ、伊吹も一緒で構わない?」
「伊吹?」
「篠さんの息子さ。去年の七月に生まれたんだ。龍より一つ下なんだけど、行く行くは清水本家の藤寿さんのところの養子になるかもしれないらしい。うちの従妹の向子と、清水分家の富貴さんと一緒に御茶してる時に産気付いちゃって、大騒ぎだったんだよ。やや早産、というところかな。生まれた伊吹自体は、元気な男の子なんだけどね」
「まぁ…。そんな可愛らしい御客様まで来ていただけるとは。本当に、こんな、病人の寝付いている様な場所で宜しいのかしら?あちらが宜しければ、私は構いません事よ」
「じゃ、そう伝えるよ」
「…前に居た離れの方が好きでした。あの、山茶花の生け垣が見えない場所で過ごすのは、心憂い事。十一月には、毎年咲きましたの。今頃は、蕾も付いて…。此処は、姉の思い出も多過ぎて…。あの場所でしたら、私の小さい頃の玩具なりと御座いましたのに。折角、小さい人が来てくれても、此れでは、何を楽しませてあげられるでしょう…」
結局、龍顕も、あの儘、早佐と離れに居させても、其のうち退屈して、庭に出てしまっていたに違いないのだ。
辰顕が、心配そうに、言った。
「…理佐の水配りの後、令一が、母屋に近い方の離れに、君を移したんだものね。駄目元で、あの場所に戻してくれって我が儘言ってみたら?」
「もう試しましたが、駄目でした。病人は、なるべく近くに置きたいから、と。同じ敷地内で、大袈裟な事」
「…令一に我が儘言えるんだ?君も、なかなかだね…」
「生憎と、あちらは長かもしれませんが、此方も病弱だ末っ子だ、と、甘やかされて育っておりますのでね。性格の歪みは兄には負けますが、根の暗さと我が儘さでは負ける気がしません。家に閉じ込められて育った恨みは、本を強請ったり、高い香を買わせたりする事で、細々と晴らしておりますの。何しろ、両親が生きている頃から、熱を出したら好きな物を食べさせてもらえる、という育ち方をしましたのでね。兄が長になったくらいでは、態度を改める気は有りません。あの頃は、跡取りの長男より、熱を出した時の私の方が、扱いが良かったのですからね」
「…やっぱり、教育って大事だと思うなぁ…。学校に行かせてあげたかったよ、本当に」
「自分が、躾がなっていない育ち方をした事は認めますわ」
躾と言うかね、と、諦めた様に言って、辰顕は、やっと御茶を飲んでくれた。
「頂きます。…玉露の煎れ方も上手いじゃない。躾がなってないとは俺は思わないし、君を賢いと思っているけど、何分、こう、家の外を教えてあげられないのじゃね。何でも、バランスってもんが有るじゃないの。頭でっかちは苦労するよ」
「世間知らず、って、色んな言い方が出来るものなのですね」
御嬢様、と言っている治を思い出して、早佐は、クスッと笑った。
辰顕が目を瞬かせて、言った。
「意外に機嫌が良いんだね…。令一を悪し様に言ってる時は、何時も表情が皆無なのに」
「ああ、其れについては自覚が有りますが。…実際は、腹を立てる程も、兄に興味が持てないのですよ。辰様と御話している時の私は、かなり機嫌が好い方ですよ」
辰顕は、小さい声で、うわぁ、と言った。
そう、姉を殺された、怖い、反抗したい、とは思うのだが、激しい嫌悪感は持てても、激しい恨みの感情を、兄に対して抱く事が出来ないのだ。
噛んでくる嫌な毒蛇だが、関わりたくないし、噛まれれば死ぬし、踏むと血や汁が出るから嫌だ、という嫌悪感が、一番感覚としてシックリ来る。
反抗も、毒蛇と同じ部屋に入れられたくない、噛まれたくない、怖い、という感覚に近くて、其れは、自分が壊れているからなのか、実際は、とことんまで令一に対して無関心だからなのか、早佐には分からない。
壊れている、という話であれば、結局、自分は、誰かが亡くなった時と、理佐と治にくらいしか、激しい感情を抱いた事が無いのかもしれなかった。
其の意味で、令一は、家族というより駆除対象で、其れが唯一の身寄りで、自分を此処に閉じ込めている、という事が単純に嫌だ、というのは、早佐にもハッキリ分かっている。人間の部分が残っていても、いなくても。
「まぁ、相手が買いたければ、私に何か物を買い与えればいいのではないですか?相手にしても、私は単に、愛玩動物か家畜の類なのかもしれませんからね。兄に衣食住を賄ってもらっている事は確かですから」
実際、普段着の一つすら買い与えられていない。
令一が早佐に与えたい物を与えているだけで、治は其れを異常だと言ったが、其の事についても、早佐は、何の反論も持たなかった。
「此処を出られないで暮らしていく、とは、そういう事ですよ。表情が乏しくもなろうというものです」
「…何だか、希死願望が有る様に聞こえて、看過出来ないんだけど…」
親切な医師は、早佐の闇に対して、暖かい目を向けてくれた。
早佐は、御心配無く、と言った。
「死は、『ちゃんと』怖いと思う事が出来ておりますから。第一、自分で死ぬ才覚も無い事は身に染みておりますのよ。一体、里の何処に、飛び降りられる様な高い建物や、入水出来る様な淵や、喉を衝ける様な鋭利な刃物や、毒薬が有ると仰るのですか?飲み過ぎる程の薬の処方もしてはくださらないでしょう?名医でいらっしゃる事で」
「…オーバードーズって、そんな言い回しが出来るんだ。いい勉強になったよ」
冷や汗掻いちゃうね、と言って、優しい医師は、玉露を飲み干した。
「ま、死ぬのは怖いし、仮に希死願望が有ったとしても叶わない、と言いたいのは理解出来たけど。…此処から出して上げられたらね。光の方を見させてあげられそうなのに…ああ、其れが水配りで嫁入りして家を出る事なのかな、結局。俺も、無力だね…」
「いえ、人間、誰しも無力なのかもしれませんわ。…私も結局、何らかの意図で、誰かに、此処に配置されているだけなのかもしれませんもの。結局、自分の意思で決めた事は少なくて、…いえ、本当は、無くて。予め、そう思う様に誰かに決められているだけなのかもしれませんものね。本来人間とは、全員、そんな、矮小な存在なのかもしれませんね」
辰顕は目を丸くして言った。
「し、神学的決定論みたいな話を往診でされるとは思わなかったな…。何?自分が誰かを怨んだり嫌ったり、何かを考えている事も、神様みたいな誰かに、あらかじめ決められている、と思ってるの?」
「いえね、罪について考えていたのですよ。罪が、清められて消えてしまう状態というものが、如何いう状態なのか、とね。犯した罪が消える筈も無いものを、罪が許される、とは、如何いう状態なのか、とね」
「ああ、まぁ…。殺された人は戻らないし、ね…。…そういう話かな?」
そうでしょう、と言って、早佐は、戸惑いながらも答えてくれた辰顕に、同意した。
「意志や感情も、全て、全知全能の高位の存在に決定付けられていて、自分で考えたものは一つも無く、そういう行動をする様に設定されていたとしたら、『罪』も単なる予定調和で、『罪』自体も本来、実体が無い、という事になるのだろうか、と。…其のくらいしか、人間の罪が清められて消える、という状態への理解が出来ないのです。私など、生きているだけで、『罪』を重ねる可能性が有る存在だというのに」
「君の、其の、諦観と、自分に対する懲罰感情って、何なんだろうね…?病気で、ずっと閉じ込められて育つと、其処まで自分を卑下する様になっちゃうわけ?そういう風に思う事でしか、幸福を感じられないところにまで追い込まれてるの?…だとしたら…」
「いえ。如何いう状態でも心根を清く持てる人も居りましょう。ただ、自分はそうではなかった、というだけの事ですわ。状況が違っても、自分が心の清い人間だったか如何かは分かりませんの。健康でも、罪を犯す様な人間だった可能性は有るでしょう?環境のせいにはしない事が、唯一の、自尊心を保つ方法です」
色々言ったが、如何あれ、治を誘った事だけは、恐らく、『早佐という人間の意志』で行ったのだ。
『そういう事にしたい』。
其れは『罪』だが、治の事を『唯一の』自分の決定である事にしたい、と思える事は誇りだったし、誰にも其の『罪』を消させる心算も無いのだ。
酷いが、きっと、早佐の人生で総合的に見れば、幸福な地獄だ。
『治を陥れた』という事だけを抱いて落ちる恐ろしい地獄、何時か来る治との別れという『罰』。
死にたくはないが、もう治と会えなくなるのは辛いが、そういう罰なら、其れも仕方が無いのだ。
一人で真っ逆様に落ちていく様は想像するだに空恐ろしいものだったが、却って、どんな高い所から落としてもらえるのだろうかと思うと、其の、持ち上げられた幸福の瞬間に対して、刹那的な喜びを感じられるであろう事が想定出来るくらいには、早佐は、自分が倒錯している自覚は有った。
もう、既に落とされている可能性が有るのだとしても、恋が出来た事だけは、本当に良かったと思えるからだ。
本当に、無力な自分は、其れしか持っていない。
其れしか持っていない悲しみと、其れしか持っていない幸福は、早佐にしか分からない事であり、『罪』であっても、其れを経験出来た事は、良かった、としか、如何しても思えない。
此の場所から逃れたい事と、恋をした事。
早佐には、其れくらいしか分からないし、其れで良い。
其れが諦観に見えるのであれば、そうなのだろう、としか思えない。
此れが生きているという事です、と、早佐は言った。
「今程、生きている実感を持っている事も有りませんのよ。生きているか死んでいるか分からない様な生き方をしていたら、『罪』を犯す事を選ぶ事すら出来ませんからね」
爽やかな心根が外見に現れている医師は、率直に、怖い、と言った。
「もう、全部怖い。何?何か悪い事したの?『生きている実感』って、そんな暗い言葉だったっけ?此れを言ってる子が未だ十六なのも怖いし、何か、綺麗な子が怖い事を平然と言ってるのも怖いし、もう、本当に、全部怖い、夜だし…。途中から御茶の味、しなくなっちゃったじゃない…」
自分より相当年嵩の人間の怯え様が可笑しくて、早佐は思わず、クスクス笑った。
辰顕は、再び、怖い、と言った。
「な、何で?今日一番御機嫌そうに笑ってるの?…ごめん、俺の理解の範疇を超えちゃった。帰るね…。具合悪かったら、呼んで?」
早佐は微笑みながら、心から、有難う御座います、と言ったのだが、辰顕は更に怯えて、小さな声で、御休み、と言って、帰っていった。




