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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第三章 確信
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往診

 其の晩、月に一度の往診に来た実方(さねかた)(たつ)(あき)医師は、老いても端然(たんぜん)とした容姿をしていた。

 仕事終わりに来てくれたのだろう。


 (はや)()は、珍しくも美しい、辰顕の、其の、黒と金と白が混ざって生えた髪を、ジッと見た。

 顕彦と似た髪だが、()だ、黒い部分が多く、艶々としている。


 往診は、辰顕の養子の(のり)(あき)と、此の辰顕が、代わる代わる来るのだ。

 養子だとは言っても、容姿の端正さは似ている。

 顔が似ている、というわけではないのだが、分家から養子を取ったと言うだけあって、流石身内、という感じがする。

 そして辰顕は、なんと、岐顕そっくりなのだ。

 遺伝とは不思議だ、と、早佐は思う。


 四年前までは、(はる)の曽祖父の坂元(さかもと)(さかえ)医師や、治の父親の坂元(さかもと)(はじめ)医師も来ていてくれたのだが、観光バスで旅行中の事故死、という事で、治を残して、一族郎党亡くなってしまってからは、里には実方家の医師しか居ない。


 (さかえ)は治と似ていたが、ハッキリ言うと、栄の方が治より五センチは背が高く、老いてはいても、更に正統派の美形、という感じがしたものだ。

 (はじめ)の方も容姿が整っていたが、何方(どちら)かと言えば(はじめ)の母親の(ゆう)()ており、少し中性に寄った整い方をしていた。

 どの顔が特別好きだった、という事は無いが、医師の彼等は優しかったので、令一は彼等の葬式に行かせてくれなかったが、亡くなった時は早佐も随分泣いたものだ。

 彼等は賢く、外の空気を知らせてくれる存在だった。

 其処は姉の()()と似ていた。


()()けに申しますけれど。体調は宜しいのですわ。診て頂いても、自分の何かが変わるとは思えません。其れより、御茶にでも御付き合い頂けません事?」


 自分でも生意気だと思う、布団から半身だけ起こしている早佐の物言いに、辰顕は、気の毒そうな目を向けて来てから、優しく微笑んで、気持ちは分かるけど、と言った。


「用も無しに、こんな時間に白衣を着て聴診器を持って、本家の離れに上がり込んで、十六の女の子と御茶して帰るわけにもいかないんだ。そんな気持ち悪い(じい)さん、家に入れちゃいけないよ。建前だけでも仕事させてほしいな。客観的に考えて?体裁(ていさい)が悪い」


 此れだけ容姿が良くても、そういう事を思うのか、と思うと、(なる)(ほど)、と言って、(はや)()は寝巻の浴衣の前を(はだ)けた。

 医師には裸を見せ慣れているので、如何(どう)という事は無い。

 相手の(ほう)此方(こちら)を見慣れているからか、諦めた(よう)に、思い切りが良いよね相変わらず、と言って、実に事務的に、サッサと聴診器を当ててきた。


「はい、背中。肺の音は良いじゃない。はい、着物直して。脈。…うん。はい、血圧測っておこうか。今、道具を出すから」




 往診はアッサリ終わったが、辰顕は、早佐が煎れた御茶には付き合ってくれずに、言った。


「…此の何日か、食べないんだって?(くりや)で噂になってたよ。用の無い時以外は女中も下がらせてるって聞いたよ?如何(どう)したの?食べ物の好き嫌いやアレルギーは無い(はず)だろう?」


「食べないわけでは有りません。胃がムカつくから残すだけですよ。第一、大袈裟です、何日か、って、二、三日の話ですのに」


「胃薬処方しようか?(ぼう)満感(まんかん)かね」


「…そういう感じではないんですよね。塩気の多い物や、酸味のある物は食べられますし。吐き気はしますが、吐きはしませんし、胃が痛い、というのとも少し違うので。薬は嫌いですし」


 うーん、と辰顕は言った。


「薬に頼りたがらないし、病気ぶらないのが、君の良い所だとは思うんだけど。まぁ…本当はなぁ、こんな、家に閉じ(こも)る程体調が悪い人間の肌ではないんだが。血色は良いとは思わないけど、内臓に何かある人間の肌じゃない。何処に荒れた所が有るでなし、綺麗なもんだよ。喘息ったって、一番酷かったのは四、五歳の時で、今は呼吸器を持っていれば充分だろうに。学校だって行かせてやれた(はず)なんだがなぁ…。可惜(あたら)美人で賢い子の未来を潰した(よう)で、俺は納得がいかないね」


「其れ、何時(いつ)(おっしゃ)いますね。本当は外に出ても大丈夫だろうって」


「令一だけは信じてくれないからな。俺がどんなに言ったって。…学校、行きたかっただろうね。日本国憲法にだって、国民には教育を受ける権利があると書いてあるのに、義務教育も行かせないなんて、俺には虐待に思えるけどね」


 辰顕は、溜息をつきながら、診察道具を仕舞った。


 仕方が有りませんよ、と早佐は言った。

「今年の夏の事を考えると、兄は、私を此処から出す気が無さそうに思えますもの」


 此の夏は散々だったのだ。

 微熱が続いたので、令一に副鼻腔炎を疑われて、勝手に耳鼻科に遣られた。

 検査の結果、副鼻腔は綺麗だ、という事で、令一が、また、医師の話も聞かず、甲状腺検査に早佐を回した。

 甲状腺は、大き目ではあるが異常は無いとの事で、また、令一は、勝手に早佐を婦人科に回したが、結局何も分からなかった。

 辰顕は、落ち着け、と令一を叱り、早佐の血液検査と尿検査を行った。

 すると、単なる膀胱炎だった事が判明したのだ。

 一連の騒ぎを見兼ねた(のり)(あき)が、夏バテによる免疫低下だろう、冷房をあまり強くするな、冷えも良くない、と、呆れながら言ったところ、令一は、膀胱炎で微熱が続く訳が無い、と食って掛かった。

 其処で結局、辰顕が早佐に膀胱炎の薬を処方してくれて、アッサリ治ったのだった。

 巻き込まれて、食って掛かられた(のり)(あき)にしてみれば迷惑だっただろうが、令一は、辰顕の言う事なら(かろ)うじて聞くので、結局早佐は、夏の間は辰顕に診てもらう事になった。

 辰顕は、令一を捕まえて、今度からは内科で血液検査と尿検査を最初にしてから他所(よそ)の科に回せ、と、珍しく、かなり長い説教をしていた。


 十六の夏は、そうしているうちに終わってしまい、今度は、秋の風の冷たさか、竹林のせいか、久し振りに喘息の発作を起こしてしまって動けなくなり、治に助けてもらった次第だ。

 当たり前だが、治には()原集落(ばるしゅうらく)脱出の協力を断られてしまったし、やはり自分は、死ぬまで里を出られない事は決定してしまっているのだろう、と、早佐は、改めて、そう思った。


 過保護過ぎる、と言って、辰顕は嘆息した。

「何だか異常だ…。いや、(おさ)の妹に、こんな事を言ったら悪いが。そろそろ水配り(ミックバイ)で嫁に出そうという妹に、ああまで…」


 また水配り(ミックバイ)の話か、と早佐は思って、言った。


「まぁ、水配り(ミックバイ)、だなんて言ってみたところで、こんな、子供が産めるかも分からない(よう)な人間を貰っても、相手も困るのではないでしょうかね。夏に何回検査にかかった事か」


「ああ、生理不順だって言ってたっけね?…でも、婦人科の検査だって、異常が出たわけじゃないし。君、月経が始まったのが、やっと十五でしょ?()だ安定してないだけじゃないのかな…?」


水配り(ミックバイ)と言えば、と辰顕が言った。


「伝言頼まれてたんだ。(しの)さんと那智さんが明日の昼に挨拶に来るって。何でも、那智さんと君が、合同で水配り(ミックバイ)なんじゃないかって話になってるらしくてさ。一度、瀬原分家から、瀬原本家に挨拶したいって事になったらしいんだ。明日の昼食の後にでも、身支度しておいた方が良いよ」


 やはり那智と合同か、と思い、早佐は、納得しながら言った。


「ま、…こんな、病人が寝付いている、竹林の脇の杣屋(そまや)(よう)な場所に御客様とは、御珍しい事。竹取(たけとり)(おきな)でも、もっと華の有る住処(すみか)に居た事でしょうに」


「…謙遜(けんそん)謙遜(けんそん)(おさ)の家の離れに来る(ほう)は、訪問着を着て来ると思うからね。寝巻で会いたくないんなら、少し(めか)し込んでおけば。ああ、伊吹(いぶき)も一緒で構わない?」


「伊吹?」


「篠さんの息子さ。去年の七月に生まれたんだ。(りゅう)より一つ下なんだけど、()()くは清水本家の(ふじ)寿(とし)さんのところの養子になるかもしれないらしい。うちの従妹の向子(さきこ)と、清水分家の富貴(ふき)さんと一緒に御茶してる時に産気付いちゃって、大騒ぎだったんだよ。やや早産、というところかな。生まれた伊吹自体は、元気な男の子なんだけどね」


「まぁ…。そんな可愛らしい御客様まで来ていただけるとは。本当に、こんな、病人の寝付いている(よう)な場所で宜しいのかしら?あちらが宜しければ、私は構いません事よ」


「じゃ、そう伝えるよ」


「…前に居た離れの方が好きでした。あの、山茶花(さざんか)の生け垣が見えない場所で過ごすのは、(こころ)()い事。十一月には、毎年咲きましたの。今頃は、蕾も付いて…。此処は、姉の思い出も多過ぎて…。あの場所でしたら、私の小さい頃の玩具(おもちゃ)なりと御座いましたのに。折角(せっかく)、小さい人が来てくれても、此れでは、何を楽しませてあげられるでしょう…」


 結局、龍顕も、あの(まま)、早佐と離れに居させても、其のうち退屈して、庭に出てしまっていたに違いないのだ。


 辰顕が、心配そうに、言った。


「…理佐の水配り(ミックバイ)の後、令一が、母屋に近い方の離れに、君を移したんだものね。駄目元で、あの場所に戻してくれって我が儘言ってみたら?」


「もう試しましたが、駄目でした。病人は、なるべく近くに置きたいから、と。同じ敷地内で、大袈裟な事」


「…令一に我が儘言えるんだ?君も、なかなかだね…」


生憎(あいにく)と、あちらは(おさ)かもしれませんが、此方(こちら)も病弱だ末っ子だ、と、甘やかされて育っておりますのでね。性格の歪みは兄には負けますが、根の暗さと我が儘さでは負ける気がしません。家に閉じ込められて育った恨みは、本を強請(ねだ)ったり、高い(こう)を買わせたりする事で、細々(ほそぼそ)と晴らしておりますの。何しろ、両親が生きている頃から、熱を出したら好きな物を食べさせてもらえる、という育ち方をしましたのでね。兄が(おさ)になったくらいでは、態度を改める気は有りません。あの頃は、跡取りの長男より、熱を出した時の私の方が、扱いが良かったのですからね」


「…やっぱり、教育って大事だと思うなぁ…。学校に行かせてあげたかったよ、本当に」


「自分が、(しつけ)がなっていない育ち方をした事は認めますわ」


 (しつけ)と言うかね、と、諦めた(よう)に言って、辰顕は、やっと御茶を飲んでくれた。


「頂きます。…玉露の煎れ方も上手いじゃない。(しつけ)がなってないとは俺は思わないし、君を賢いと思っているけど、何分(なにぶん)、こう、家の外を教えてあげられないのじゃね。何でも、バランスってもんが有るじゃないの。頭でっかちは苦労するよ」


「世間知らず、って、色んな言い方が出来るものなのですね」

 御嬢様(オゴイサァ)、と言っている治を思い出して、早佐は、クスッと笑った。


 辰顕が目を瞬かせて、言った。

「意外に機嫌が良いんだね…。令一を()(ざま)に言ってる時は、何時(いつ)も表情が皆無(かいむ)なのに」


「ああ、其れについては自覚が有りますが。…実際は、腹を立てる程も、兄に興味が持てないのですよ。(たつ)(さま)と御話している時の私は、かなり機嫌が好い(ほう)ですよ」


 辰顕は、小さい声で、うわぁ、と言った。


 そう、姉を殺された、怖い、反抗したい、とは思うのだが、激しい嫌悪感は持てても、激しい恨みの感情を、兄に対して抱く事が出来ないのだ。


 噛んでくる嫌な毒蛇だが、関わりたくないし、噛まれれば死ぬし、踏むと血や汁が出るから嫌だ、という嫌悪感が、一番感覚としてシックリ来る。

 反抗も、毒蛇と同じ部屋に入れられたくない、噛まれたくない、怖い、という感覚に近くて、其れは、自分が壊れているからなのか、実際は、とことんまで令一に対して無関心だからなのか、早佐には分からない。


 壊れている、という話であれば、結局、自分は、誰かが亡くなった時と、理佐と治にくらいしか、激しい感情を抱いた事が無いのかもしれなかった。


 其の意味で、令一は、家族というより駆除対象で、其れが唯一の身寄りで、自分を此処に閉じ込めている、という事が単純に嫌だ、というのは、早佐にもハッキリ分かっている。人間の部分が残っていても、いなくても。


「まぁ、相手が買いたければ、私に何か物を買い与えればいいのではないですか?相手にしても、私は単に、愛玩動物か家畜の(たぐい)なのかもしれませんからね。兄に衣食住を(まかな)ってもらっている事は確かですから」


 実際、普段着の一つすら買い与えられていない。

 令一が早佐に与えたい物を与えているだけで、治は其れを異常だと言ったが、其の事についても、早佐は、何の反論も持たなかった。


「此処を出られないで暮らしていく、とは、そういう事ですよ。表情が乏しくもなろうというものです」


「…何だか、希死(きし)願望(がんぼう)が有る(よう)に聞こえて、看過出来ないんだけど…」

 親切な医師は、早佐の闇に対して、暖かい目を向けてくれた。


 早佐は、御心配無く、と言った。


「死は、『ちゃんと』怖いと思う事が出来ておりますから。第一、自分で死ぬ才覚も無い事は身に染みておりますのよ。一体、里の何処(どこ)に、飛び降りられる(よう)な高い建物や、入水(じゅすい)出来る(よう)(ふち)や、喉を()ける(よう)な鋭利な刃物や、毒薬が有ると仰るのですか?飲み過ぎる程の薬の処方もしてはくださらないでしょう?名医でいらっしゃる事で」


「…オーバードーズって、そんな言い回しが出来るんだ。いい勉強になったよ」


 冷や汗掻いちゃうね、と言って、優しい医師は、玉露を飲み干した。


「ま、死ぬのは怖いし、仮に希死(きし)願望(がんぼう)が有ったとしても叶わない、と言いたいのは理解出来たけど。…此処から出して上げられたらね。光の方を見させてあげられそうなのに…ああ、其れが水配り(ミックバイ)で嫁入りして家を出る事なのかな、結局。俺も、無力だね…」


「いえ、人間、誰しも無力なのかもしれませんわ。…私も結局、何らかの意図で、誰かに、此処に()()されているだけなのかもしれませんもの。結局、自分の意思で決めた事は少なくて、…いえ、本当は、無くて。(あらかじ)め、そう思う(よう)に誰かに決められているだけなのかもしれませんものね。本来人間とは、全員、そんな、矮小(わいしょう)な存在なのかもしれませんね」


 辰顕は目を丸くして言った。


「し、神学的(しんがくてき)決定論(けっていろん)みたいな話を往診でされるとは思わなかったな…。何?自分が誰かを怨んだり嫌ったり、何かを考えている事も、神様みたいな誰かに、あらかじめ決められている、と思ってるの?」


「いえね、罪について考えていたのですよ。罪が、清められて消えてしまう状態というものが、如何(どう)いう状態なのか、とね。犯した罪が消える(はず)も無いものを、罪が許される、とは、如何(どう)いう状態なのか、とね」


「ああ、まぁ…。殺された人は戻らないし、ね…。…そういう話かな?」


 そうでしょう、と言って、早佐は、戸惑いながらも答えてくれた辰顕に、同意した。


「意志や感情も、全て、全知全能の高位の存在に決定付けられていて、自分で考えたものは一つも無く、そういう行動をする(よう)に設定されていたとしたら、『罪』も単なる予定調和で、『罪』自体も本来、実体が無い、という事になるのだろうか、と。…其のくらいしか、人間の罪が清められて消える、という状態への理解が出来ないのです。私など、生きているだけで、『罪』を重ねる可能性が有る存在だというのに」


「君の、其の、諦観(ていかん)と、自分に対する懲罰(ちょうばつ)感情(かんじょう)って、何なんだろうね…?病気で、ずっと閉じ込められて育つと、其処まで自分を卑下する(よう)になっちゃうわけ?そういう風に思う事でしか、幸福を感じられないところにまで追い込まれてるの?…だとしたら…」


「いえ。如何(どう)いう状態でも心根を清く持てる人も()りましょう。ただ、自分はそうではなかった、というだけの事ですわ。状況が違っても、自分が心の清い人間だったか如何(どう)かは分かりませんの。健康でも、罪を犯す(よう)な人間だった可能性は有るでしょう?環境のせいにはしない事が、唯一の、自尊心を保つ方法です」


 色々言ったが、如何(どう)あれ、治を誘った事だけは、恐らく、『早佐という人間の意志』で行ったのだ。


 『そういう事にしたい』。


 其れは『罪』だが、治の事を『唯一の』自分の決定である事にしたい、と思える事は誇りだったし、誰にも其の『罪』を消させる心算(つもり)も無いのだ。


 酷いが、きっと、早佐の人生で総合的に見れば、幸福な地獄だ。


 『治を陥れた』という事だけを抱いて落ちる恐ろしい地獄、何時(いつ)か来る治との別れという『罰』。

 死にたくはないが、もう治と会えなくなるのは(つら)いが、そういう罰なら、其れも仕方が無いのだ。


 一人で()(さか)(さま)に落ちていく(さま)は想像するだに空恐(そらおそ)ろしいものだったが、却って、どんな高い所から落としてもらえるのだろうかと思うと、其の、持ち上げられた幸福の瞬間に対して、刹那的な喜びを感じられるであろう事が想定出来るくらいには、早佐は、自分が倒錯している自覚は有った。


 もう、既に落とされている可能性が有るのだとしても、恋が出来た事だけは、本当に良かったと思えるからだ。


 本当に、無力な自分は、其れしか持っていない。

 其れしか持っていない悲しみと、其れしか持っていない幸福は、早佐にしか分からない事であり、『罪』であっても、其れを経験出来た事は、良かった、としか、如何(どう)しても思えない。


 此の場所から逃れたい事と、恋をした事。


 早佐には、其れくらいしか分からないし、其れで良い。


 其れが諦観(ていかん)に見えるのであれば、そうなのだろう、としか思えない。


 此れが生きているという事です、と、早佐は言った。


「今程、生きている実感を持っている事も有りませんのよ。生きているか死んでいるか分からない(よう)な生き方をしていたら、『罪』を犯す事を選ぶ事すら出来ませんからね」


 爽やかな心根が外見に現れている医師は、率直に、怖い、と言った。


「もう、全部怖い。何?何か悪い事したの?『生きている実感』って、そんな暗い言葉だったっけ?此れを言ってる子が()だ十六なのも怖いし、何か、綺麗な子が怖い事を平然と言ってるのも怖いし、もう、本当に、全部怖い、夜だし…。途中から御茶の味、しなくなっちゃったじゃない…」


 自分より相当年嵩(としかさ)の人間の(おび)(よう)が可笑しくて、早佐は思わず、クスクス笑った。


 辰顕は、再び、怖い、と言った。


「な、何で?今日(きょう)一番(いちばん)御機嫌(ごきげん)そうに笑ってるの?…ごめん、俺の理解の範疇(はんちゅう)を超えちゃった。帰るね…。具合悪かったら、呼んで?」


 早佐は微笑みながら、心から、有難う御座います、と言ったのだが、辰顕は更に怯えて、小さな声で、御休み、と言って、帰っていった。


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