見舞い
治が去ってから、午後、嬉しい来客が有った。
顕彦が、岐顕と龍顕を連れて、早佐の御見舞いに来てくれたのだ。
大人二人は白装束を着ていたが、龍顕のサイズの白装束が無かったものと見えて、白い麻の着物を着せられた龍顕は、不服そうに、自身の着物の裾を齧っていた。動き難いのかもしれない。
しかし、麻の着物自体は非常に似合っており、龍顕が動けば、白い兵児帯の上の方に、白い糸で縫われた、武田菱の様な背守りが見え、大変愛らしかった。
「よう、早佐。最近食べないって?厨で噂になってんぞ。具合が悪いのか?なのに、用の無い時以外は女中も下がらせてるって?」
如何した、と言って、白装束姿の正装をした顕彦は、和綴じの本を片手に、寝巻の早佐の傍らで胡坐を掻いた。
顕彦は、珍しい、黒と金と白が混ざって生えた髪をしていて、瞳が、とても美しい。
此の、瞳の大きな老人と会っていると、割合気分が落ち着くので、早佐は素直に、いえ、と言った。
姉の嫁ぎ先であり、更に従兄である岐顕の曽祖父、という遠い関係ながら、以前教職に就いていたとかで、子供の扱いが上手いのだ。
「胃がムカつくだけです。戻しそうになるので沢山食べないだけですが、酸味の有る物や塩気の多い物は食べられますよ」
顕彦は、ん?と言った。
「…そりゃ…。いや、何でも無ぇ。…夏バテの延長かな?今年の夏は随分大変だったらしいし…」
ごめんね、と、随分久し振りに会った義兄は、女性の様な長髪になってしまった髪を一つに括りながら言った。
「御見舞いに来られたら良かったのに。何しろ、体が動く様になったのが最近でさ。今日は龍を早佐ちゃんに会わせてあげたかったんだ。暫く会わせてあげられてなかったから」
「…御気遣いなく、御義兄様。御身御厭いくださいませ」
昨年の十二月十三日の理佐の葬儀以降、岐顕が、半年以上抜け殻の様になっていたとは聞き及んでいたので、無理からぬ事、と早佐は思った。
十月の今になっても髪を切りに行く心の余裕など無かったのであろう事は予想がついたし、そうでなくとも、こんな小さな子を残して連れ合いに先立たれては、忙しくて来られなかったのだ、と言われたところで、然も有りなん、というところである。
しかし、豪く髪が伸びてしまってはいたが、義兄の爽やかな美貌に翳りは無かった。痩せてしまった気もするが、正装の白装束では、体型の変化が分かり難いのだ。
「ほら、龍。早佐ちゃんだぞ」
龍顕は、トテトテと、勝手に早佐の布団の上に攀じ登ってきて、笑顔で、はやちゃ、と言った。
「まぁ、御喋りが出来るのですか?龍ちゃん」
早佐が嬉しくて、そう言って龍顕を抱き締めると、いやぁ、と、申し訳なさそうに岐顕は言った。
「…情けない話で、気付いたら、歩いて、喋っててさ。彦じぃが、襁褓も外してくれてたんだよ…。何か、俺、半年分くらいの記憶が曖昧でさ…」
早佐が思っていたより岐顕は大変だったらしい。
しかし其れも無理からぬ事、と、早佐が気の毒に思っていると、龍顕は、ママ、ママ、と言って、岐顕の方に手を伸ばした。
「あ…」
早佐が言葉を失っていると、岐顕は、笑顔で龍顕を抱き上げた。
「ほら、御庭を見たいか?ちょっとだけ、竹林の方に行かせてもらうね、早佐ちゃん」
「はい…」
麻の白い着物に、プラスチック製の小さなゴム草履を履かされた龍顕が、岐顕に抱かれて、楽しそうに、竹林の前でキャッキャと笑っているのが、布団の上で半身を起こしている早佐にも見えた。
早佐同様、色素の薄い色をした龍顕の髪が、明るい光の中で、遠目からでもキラキラと輝いている。
顕彦が、苦笑いしながら、済まねぇな、と言った。
「…パパ、って、覚えねぇんだよ。岐の事を『ママ』って呼ぶんだ。髪が長いからかな?なんて、周りで庇っちゃいるんだが。岐は、自分が、ろくに面倒見られなかったから『ママ』しか覚えないんだろうって言うんだ。実際は、あんな状態の時でも、子供の世話はしてたんだよ。岐が覚えてないだけで。だから、逆なんだよな、世話をしてくれる大好きな人間を龍顕が『ママ』だって思ってるだけで、岐が悪い訳でも何でも無いんだが。…どの道、今度床屋に行かせるわ。妙に似合っちゃいるが、伸び放題で、息子に母親と間違われる可能性が有る髪型させて、家に閉じ込めておくのは不健全だわな」
未だ若いのによ、と言って、顕彦は、手にしていた和綴じの本を開いた。
話題を変えたくなった早佐は、其れは?と言った。
「此れかい?」
大祓詞だよ、と言って、顕彦は、開いた頁を早佐に向けてきた。
早佐は、目に飛び込んで来た文字を読んだ。
「…佐久那太理に落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比売と云ふ神、大海原に持ち出でなむ。如此持ち出で往なば、荒塩の塩の八百道の八塩道の塩の八百会に坐す速開都比売と云ふ神、持ち可可呑みてむ。如此可可呑みてば、気吹戸に坐す気吹戸主と云ふ神、根国底之国に気吹き放ちてむ。如此気吹き放ちてば、根国底之国に坐す速佐須良比売と云ふ神、持ち速佐須良比失ひてむ」
読み上げると、早佐の頭の中で、何故か、わーん…という音が響いた。
顕彦は、ギョッとして言った。
「うぉっ。読めるのかい。やっぱ賢いわ…勿体無いなぁ、学校、行かせてやりたかったぜ」
「加此佐須良比失ひてば、罪と云ふ罪は在らじと、祓へ給ひ清め給ふ事を、天つ神、國つ神、八百萬神等共に、聞こし食せと白す」
其処まで読んでから、早佐は、フン、と鼻を鳴らした。
「まぁ、有難くも、あらゆる罪を御清め頂いたら罪が此の世から消えてしまうから、其の御力を御授けください、と?神に対して、随分都合の良い文章を書く人間が居たものですね。罪を犯しているのは人間の方ではないのでしょうか。何処の宗教のものです?」
早佐の冷たい笑いに、顕彦は、戸惑った様に、おお、と言いながら、和綴じの本を閉じた。
「…辛辣だねぇ。でもま、正直、令一より賢いよな…。本当に勿体無いや。読めて、意味まで分かって、中身を皮肉れるんだから、大したもんだよ。ま、神道の祝詞だよ。祓戸四神っつってな。記紀には出て来ない神なんだが。罪の一切を祓い、清めてくれる神なんだな」
「まぁ。…清めて頂きたいものです事ね。出来るものならですが」
早佐の罪を清められるとは思えないが。
顕彦は、苦笑いしながら、まぁなぁ、と言った。
「無理でも何でも、仕掛けに使いたいからよ。…こんなに賢いなら、手伝ってもらいたいな、仕掛け作り」
「…仕掛け?」
「おお。結界を張ってだな。其処に、龍神を降ろしたいんだよ。其れが山の神なんだが、其れが出来たらな、凄い事が起こせるんだ」
「彦様…御若く見えますが、愈々…」
「おいおい、そんなハッキリ耄碌爺って言うなよ」
未だボケちゃいねぇって、と言って、顕彦はゲラゲラ笑った。
「まぁ、『何言ってんだ此の爺』って思ったってこったな?そりゃ全く否定しねぇよ。俺も、何遣ってんだって思いながら遣ってるからな」
「如何して…そんな、仕掛けを作ろうと?」
「聞くかい?聞いたら、協力してもらう事になるぜ」
顕彦は、笑いながら、そう言って、白装束の懐に和綴じの本を仕舞ったが、最近、似た様な言葉を治に投げ掛けた早佐は、少し驚いて、其の言葉を聞いた。
「…面白そうですね」
「そうかい?」
先程の言葉は冗談だったらしい、洒脱な老人は、大きな目を瞬かせながら、早佐の顔を見てきた。
早佐は、本音を口にした。
「…どうせ、此処から出られずに、長生きも出来ずに一生を終えるのです。残りの人生を、そういう事に使ってみるのも良さそうですね」
「…正月には水配りだろ?そういう風に言うもんじゃない。御前さんは、嫁に行くんだ。一応慶事だぜ。水配りなんぞ、気に入らんかも分からんが」
「石女ですよ、多分。兄が何処の人間と私を娶せる心算か存じませんが、私を貰わされる相手も、いい迷惑でしょうね。自分の体が其処まで健康だとは思えません」
「…そんなに若くて綺麗で、上品で賢いのに…。随分自分を卑下するんだな」
悲しそうな老人の声を、早佐は言葉で遮った。
「両親も敬愛する姉も他界して、孤児の様なものです。兄の意向ではありましたが、病弱で、他人と同じ様には、満足に学校にも行けなかった。兄以外には身寄りも無く、学も無いのです。自分が健全な所帯を持つところも想像出来ませんのに、如何して、水配りという行事に自信が持てましょう。一体、何処の気の毒な人が、厨に一度も立った事が無い、習い事と行儀作法だけ叩き込まれた、若いだけの女を欲しがると言うのです」
「金持ちの嫁にはピッタリの条件だが…。まぁ、妙な話では有るんだよな、未だに、水配りの相手の発表が無い、ってのは…。日取りだけ、正月と決まっていて…」
「…其れは確かに。花嫁衣装を作るのは時間が掛かりますから、採寸は疾うに済んでおりますが、衣装合わせも未だですしね…」
理佐など、随分早い段階から、相手が岐顕と決まっていたのだ。
清水分家の篠という、理佐と同級で仲が良かった女性が、同じく清水分家に嫁ぐという事で、合同で水配りだったのだが、其れも、早くから相手が発表されていた。
一方、早佐は、八月十五日に十六になったと同時に、正月には水配りをする、と令一に告げられたきりだ。
「ま、女が十六、となってりゃ、男は何歳でも、大体十八、十九、ってくらいしか決まりが無いし、差し替えも有るとか聞くからな。結局、令一次第って事なんだろうが…」
「何か、噂は御聞きではないですか?此処に居ると、何の情報も入って来ないので…」
「…そりゃ、御前さんが女中を下がらせているせいも有りそうだがなぁ。話し相手が居ないんじゃ噂話も出来ねぇだろうよ。…そうだな、那智さん、分かるかい?瀬原分家の。あそこの娘の名前が挙がったのが、二年くらい前かな。理佐と同じ時期に噂になってた」
「え?那智さん?私と同じ年では?十四でしょう?其の頃」
「や、名前だけ出たんだよ。だから、令一用じゃねぇのかって。言い出したのは、其の時令一の後見人だった、吉野本家の保親さんらしいんだがな。今年十六なら、令一と年回りが合わん事も無いしな。ただよ、長の令一の相手を発表するとなると大事じゃねぇか。あいつは水配りの相手を自分で選べるんだからよ。だから、那智さんにしたいが、相手が十六になるのを待っていて、其処に、保親さんが亡くなっちまったもんで、発表が延び延びになってんじゃないか、ってな。そういう事情だと、ギリギリまで発表されないかもしれんぞ。あの身分で、言い出しっぺの保親さんの後ろ盾無しに本家の男に嫁いだら、周りからやっかまれる事は確実だし、其れが瀬原本家ともなるとよ。でも、吉野本家の保親さんが亡くなったって、年嵩連中が押してれば、那智さんを勧め続けるだろうし、まぁ、其処は硬いんじゃないかな、と。ただまぁ、長の妹と長が合同で水配りなら、其の辺りの風当たりは、慶事って事で、多少緩和されるわな」
「成程、那智さんの身を守る為に発表を遅らせている可能性ですか…。其れは、有り得そうな話です。以前、姉と遊んでいるのを見た事が有りますが、確かに綺麗な人でした。藍児さんも、何かの行事のついでに、庭で御見掛けした事は有りますね」
「うん、まぁ、那智さん本人には伝わってないかもしれんがな。少なくとも父親の藍児さんには、娘が二年後水配りって事くらいは伝わってんじゃないかな」
分家の瀬原藍児の家の那智は、所謂小町娘なのだ。戦後、里の人口を増やす為に戦災孤児を引き取るプロジェクトが有ったと聞いたが、どうも、其の時引き取られた人間の子孫らしいのだ。容姿の良い者が選んで引き取られがちだったという噂は有るが、例に漏れず、藍児も、其の一人娘も容姿が良かった。家柄が良いとは言えないが、那智なら、其れを補って余りある程の容姿なのだ。身分を考えても、どの家とも血が然程近くない人間なので、誰の相手になっても不自然ではなく、令一の相手になる事も充分考えられた。
「…そうなると…私の御相手も、誰かは未だ分かりませんか」
以前、自分の候補かと思っていた人間達が次第に結婚し始めていて、読みが外れ続けた早佐には、既に、自身の結婚相手の見当を付ける事が出来ない。
「まぁ、水配りは、従兄妹同士はいかんとか、色々制約が有るしな。本家の娘ともなると身分も有るから、相手の身分も低すぎちゃならんし、なかなか決まらんしなぁ」
「え?…姉と岐顕様は、従兄妹同士では…?」
「え?…知らないのかい?…まさか」
「ええ…。あの…今、水配りでは、従兄妹同士は娶せられない、と仰いましたか?」
「いや、まさか。あ、そうなのか?もしかして、理佐も知らなかったのか…?」
顕彦は、戸惑った様子で、如何したもんかな、と言った。
教えてください、と早佐は言った。
「何か有るのですか?…もしかして、私は…」
うーん、と顕彦は唸った。
「公然の秘密の様なもんだから、表面上の従兄妹同士が相手に選ばれても、誰も指摘しなかったんだろうがな。本来、血を遠くする為に布かれた婚姻統制が水配りだからよ、従兄妹同士は結婚させない事になってんだな。戸籍上は大丈夫でもよ。…御前さんと理佐は、孤児を引き取るプロジェクトの一環で、由一が、周りに示しを付ける為に引き取った養女なんだよ。…其れこそ、令一の母親の浩子さんが亡くなった後、由一が後妻に迎えた紅葉さんは、子供が産めなかったそうだから」
早佐は、衝撃を受けたと同時に、納得した。
―私達と血が繋がっていないと知っているから、相手にとっては…。私達を、そういう対象と見る事に、抵抗が無い…?
「兄は、其れを知って…」
「いや、知ってるだろ。理佐の相手を決めたのは令一なんだからよ。其れこそ、保親さんが亡くなった年に決めて、翌年の四月に水配りだったからな」
「…私は…姉とも、血が繋がっていないのですか?…似ていない姉妹だとは、思っていましたが…」
顕彦は、困った顔をしたが、教えてください、と、早佐は言った。
顕彦は、渋々口を割った。
「…繋がってない。理佐は、御前さんと別の場所から連れて来られた子だ」
「そうですか」
早佐は、自身を孤児の様なものだとは思っていたが、本当に、敬愛する姉とすら血が繋がっておらず、更に令一とも龍顕とも血が繋がっていない、血縁が一人も居ない状態とまでは考えていなかったので、少し血の気が引いた。
顕彦は、申し訳なさそうに言った。
「…福岡の乳児院で見付けたらしくてな。二歳の、両親が事故死した女の子を、由一が、自分に髪の色が似てるって、大喜びで連れて帰って来たんだよ。御前さんの本当の名前は早佐鏡花」
「本当の名前」
其の言葉を聞いた時に、早佐の額から、ピッ、と、何か、冷たい物が入り込んだ気がした。
そうだ、と顕彦は言った。
「早佐は名字だったんだよ。『理佐』と、偶然、字面が似てたし、由一が、本当の両親との繋がりも残してやりたいって言って、名字の方を名前にしたんだ。いや、戸籍は如何なってるか分からんから、通り名みたいなもんかも知れないが」
「鏡花…。鏡に花、と書くのでしょうか?泉鏡花の様な」
「おう、鏡たぁ、御神体にもなる、破魔の名前だな。御前さん、本当の名前を隠し持っていたんだな」
「そうですか、其の様な…瑠璃か玻璃か硝子か、という様な、美しい名前を頂いていたのですね。破魔の…。鏡花水月と考えると、儚いですが…神聖なのですか」
「そうだな、是非、そんな名前を付けられた、愛された存在だったと、自分の事を思ってほしいもんだよ。由一も紅葉さんも、御前さんを可愛がっていただろう?」
ええ、と言いながら、早佐は、急に、頭がボンヤリした。
「…依り代ですね、『鏡』は」
「え?」
「其の仕掛け…依り代が必要です」
「え?…でも確かに、そうだ。俺の案は依り代が足りない…。ああ、だから、結界を作る為の人間に負担がかかるのか…。でも、何で、急に、そんな事を」
早佐は、顕彦の声に、ハッとした。
大丈夫か?と、顕彦は言った。
「…何だい、急に。具合が悪いのかい?ボンヤリして。…仕掛け作るの、手伝ってくれるのかい。未だ、大した説明もしてないのに」
「…ええ、如何したのでしょう。でも、多少は御協力出来る気がしてきました…」
「…そうかい、鏡花ちゃん。否、はやさ」
慮外者、という、低い声が、早佐から出た。
「神が名を口にする事、罷りならん。速秋津比古」
「な…」
「御前の名だな。神に伺いを立てて付けた名は、神の付けし名と心得よ。然すれば力を貸そうほどに。山の神の末席に加えられた者としてな」
低い声で、そう口にしてしまってから、早佐は、ハッとした。
顕彦は、分かった、と言った。
「…今度、改めて誘うからよ。其の時、話を聞いておくれな」
「…私…。何を口走って…」
「口を突く、って言うんだよ。如何してか分からないが、言ってしまう、というのが有るんだな。何に言わされているのかは分からんが。…御互い、本当の名前の事は秘密にしようぜ。真名っていうんだよ。大事な事なんだ」
「…はい。其の様ですね…」
二人が其の話を終えた頃、いやー、ごめんごめん、と言って、岐顕が、龍顕を抱いて戻って来た。
キャッキャッと笑う龍顕は、着物はグチャグチャに着崩して、白い麻地は泥塗れになっていた。
愛らしい顔の頬には、既に乾燥し始めている泥が付着していた。
「泥んこだわ。子供に白い着物を着せるもんじゃないよね。此れじゃ流石に部屋には上がれないから、親子で庭に居るわ」
酷ぇな、と顕彦は、驚きながら言った。
「顔にまで付くか?泥団子でも食ったのかよ…。帰ったら風呂だな」
竹林で転んだのだろうか、泥と、枯れた竹の葉だらけになった龍顕は、キャーッと言って、手足をバタつかせながら笑った。
気の毒にも、抱いている岐顕にまで、龍顕の泥が付く。
岐顕は苦笑いしながら言った。
「折角御見舞いに来たのに、ごめんね、早佐ちゃん。殆ど話せなかった。明日から、治と一ヶ月くらい福岡に仕事に行くから、また暫く来られないけど」
「え…一ヶ月?」
―三日と聞いていたのに…。…でも、丁度良いのかも。会わない方が…。もう、会わない方が。
「そうそう、治と。さっき会ったんだけど、久し振りに話したいし、仕事手伝ってほしくて、誘っちゃったんだ。何か治、最近仕事入ってなかったっぽくて、稼ぎたいだろうしさー。俺も、新しい仕事始めるし、付き合ってもらおうかなって」
―そういう事ね。そんな、三日が一ヶ月になったって、連絡が来る様な間柄じゃないのだもの。今日知れて、良かったわ。
「左様で御座いますか…。御気を付けて御戻りくださいませ、御義兄様」
「有難う。またね」
早佐の様子を見ていた顕彦が、おや、という顔をしてから、ふと、早佐の枕元の本を手に取った。
「お。記紀を嗜むとは感心だねぇ。其れで、あんなんも読めちまうんだなぁ」
「あ」
頁を一枚破いて、治の白装束に忍ばせた本を、早佐は、何と無く仕舞い難く、枕元に置いた儘にしてしまっていたのだった。
自然、頬が染まる。
顕彦は、再び、おや、という顔をしてから、丁寧に、元の場所に本を戻してくれた。
「兎に角、病気じゃないんなら、食事は摂った方が良い。無理の無い範囲で、だが」
顕彦の気遣わしげな言葉に、早佐は、小さな声で、はい、と言った。
庭の方から、龍顕の愛らしい声で、ばいばーい、と言うのが聞こえた。
此方に向かって手を振ってくれる、義理だと分かってしまっても、尚愛しい甥に向かって、早佐も、手を振り返した。
微笑み返してくれる甥の顔は、口元が理佐に似ている様な気がした。
泥だらけで健康な龍顕の居る庭は、何時に無く光に包まれている様に見えた。




