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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第二章 竹の花
12/68

那遠岐弖(なをきて)

 地獄に落ちるより(つら)(ばつ)を受ける機会は、其れから、割合、()ぐ訪れた。




 次の日、早佐は、庭に立って、竹林の中を風が渡る音を聞いていた。


 早佐は今、治の事を考えていた。

 二度と、もう治に会う事は無いだろう。


 そう思うと、前日から続く下腹部の痛みと連動する(よう)にして、胸が痛んだ気もした。

 何と、()だ人間らしく、そんな感傷を持ち合わせていたらしいと、早佐は、自分でも意外だった。


 でも、此れでいいのだ、と思った。

 残りの(せい)を、一人で死んで、選んだ地獄に落ちる褒美を待つまでの暇潰しに使うのだ。

 たった一人、自分が選んだ人間と一度だけ交わった事を、自分だけが覚えていて、死ぬのだ。

 人間の心など二度と持ちたくはない。

 其れは、姉と一緒に火葬したのだから。

 姉は、早佐の世界の全てで、後のものは余分で、姉が居なくて悲しいと感じる人間の心は、もう無く、死んでも恐らく、理佐と同じ場所には逝けないであろうが、其れでも、平気だと、早佐は思おうとした。

 人間らしさなど、持っていたところで、悲しさが続くだけだからだ。

 自分の人格は、あの時殺した。

 あの、鴨居に下がった縄を見た日に。


 いいのだ。何時(いつ)か死ぬから、何でも良いのだ。


何時(いつ)か、人間は死ぬのだから。




 すると、竹林から、ガサガサという音がした。


 早佐は、後ろを振り返って驚いた。

 治が居たのだ。


「…御嬢様(オゴイサァ)、今日の御召し物も、山登り向きじゃないですね」


 治の仏頂面を見て、早佐は、昔、山茶花の垣根の前で起きた事を思い出した。

 あの時も、此の人間は、面倒臭そうな仏頂面をしていた。

 

 ふと、懐かしくなって、思わず早佐は笑ってしまった。

 死ぬ前に、良いものを見た、と思った。

「そうですね」


「…こんな所に居るとは思わなかった」


「あら、此処は私の家ですよ。治様こそ、もういらっしゃらないかと思っていました」

 其れは早佐の本心だった。


 治は沈黙した。


―まぁ、最後に会えるなんて、随分、良い思いが出来るものね。此れで、うっかり、良い人生になってしまったわ。


 其れが(ばつ)の入り口などとは気付かず、早佐は穏やかに微笑んだ。


「もう、此処から出られなくてもいいのです。此れから起こる事を、私は受け入れます」


―だから、有難う。私は昨日、死のうと思っていたの。自分て死ぬ才覚すら持っていなかったのを知った時は、惨めだったけれど。


 でも、もう、自分からは死ななくてもいいのだ。

 御陰で、早佐の人生は、終着点に到達する事が出来た。


 早佐は、もう、満足なのだった。


 あんな風に、自分の問題を解決する心算(つもり)は、最初は無かったのだが。

 口付けて、あんな事があって。まるで、恋人でも出来たかの(よう)ではなかったか。

 其れは、自分の人生には、決して起こり得ない(はず)の事だった。


 昨日会ったのが、此の人で良かったと、早佐は思った。


―嫌われてしまっただろうけど。


 早佐は、自分は、他人を傷付けても、平気な人間なのだと思おうとした。

 何故なら自分は、あの兄の妹なのだから。

 たった一人、自分で決めて、選んで交わった人間を陥れて嫌われるのが、似合いなのだ。


 すると、不意に、治の唇が、早佐の唇に重なった。


 早佐は、何が起こったのか分からなかった。

 混乱して、走って自室に逃げ込んだ。


―信じられない。


 信じられない事だった。


―もう会えないと思っていた人、嫌われていると思っていた人から、あんな事をされるなんて。


 早佐は、頬が熱かった。

 胸があまりにも苦しくて、何か、違う病気にでもかかってしまったのかと思った。


 しかし、其の時に(ばつ)の入り口に入り込んだのだとは、早佐は()だ気付いていなかった。




 早佐は、昨日は、あまりよく眠れなかった。

 結局、着替えて、庭の昨日と同じ場所に、立っていた。


 今日もやはり、治は来た。


―何故、此の人は此処に来るのかしら。


 そして自分は多分、今日、此の人を待っていた。


 治と目が合うと、堪らなくなって、早佐は俯いた。

 普段着が無いので着ている小紋だったのだが、矢鱈(やたら)とめかし込んで、想い人を待っているような風情になってしまっている気がして、居た堪れなかった。


 何を話していいか、早佐には分からなかった。

 そんな事は自分の世界には無かったし、本にも書いていなかった。


 姉しか居なかった世界に閉じこもった(まま)、死のうとしていた自分に、山茶花の花の(よう)に鮮やかな色が、サッと差し込まれてしまった。

 自分の頬までもが、そんな色に、発熱以外で、他人の為に染まってしまうなどという事は、予想もしていない事だった。


 後から思えば、其れは烙印の、焼けた鉄を押し当てられた皮膚の色だった。


―此れは何なのかしら。


 治も黙っているし、屋敷の中に戻ろうと思った。


 ところが、屋敷に戻る為に、治に背を向けると、後ろから、肩を掴まれた。

 早佐は、そっと振り返った。

 もう、自分の顔は、茹蛸(ゆでだこ)(よう)だろうと思った。


 長い沈黙の後、治は、早佐の肩に置いた手を離した。




 早佐は、部屋に戻った。


 胸が、ずきずきと痛んだ。泣いてしまいそうだった。

 此れでは、まるで、恋ではないかと思った。


―有り得ない。そんな事は有り得ないのに。




 其れでも、明日も、会いたい(よう)な気持になってしまった。 

 早佐は、腹を括ろうと思った。自分だけの中に秘めていた、兄への疑惑を、治に話してしまおうと思った。自分の話を、聞いてもらいたいと思った。




 次の日も、やはり治は来た。

 手持ちの小紋のネタが尽きて、とうとう、最初に竹林で会った時の小紋を着る事になった早佐は、其れは其れで、何と無く気恥ずかしかったが、治を御茶に誘った。


 姉の死因への不審を、兄への不審を、治は、思いの(ほか)静かに聞いてくれた。

 思えば、姉以外の人間と、こんなに会話をした事は無かった。

 誰かに聞いてもらえただけで嬉しかった。

 自分は、会話に餓えていたのかも知れないと思った。

 また一つ、早佐は満足してしまった。

 其の日、早佐は、初めて、満足が、怖いと思った。




御嬢様(オゴイサァ)、嫌じゃないのか」

「教えません」


 二度目も、多少痛んだ。


 こんな事は、触れられたら嫌な人とは、絶対に出来ないと思ったが、治に其れを伝える気は、早佐には無かった。


 そういう意味では、もう、ずっと前から、自分は治の事が好きだったのだろうと、早佐は思い至った。



 治に御嬢様(オゴイサァ)、と呼ばれる度に、『世間知らず』と言われている気分になったが、其の通りだ、と、早佐は思った。

 其の呼び名は、妙に、しっくりきた。

 他に誰も、早佐をそんな風に呼ぶ人は居ないのだが。




 治が帰ってしまって、一人になってから、ぼんやりと、早佐は、治の事を考えていた。下腹部の違和感に、時々驚く。


―そうか。


 自分は、恋をしているのだ、と思った。


―死のうと思っていたのに、いざとなってみれば、そんな欲が出てくるなんて。




 次の日も、治は、やって来た。


 三度目は、流石に慣れてきた。


 こんな事は、治には特別な事では無いのかもしれないが、自分にとっては、毎回、人生でもうこれっきりだと思う(よう)な事だった。


「…明日から三日、仕事でソトに出掛ける」

「そうですか」


―明日から三日も会えないの。


 そう思うと、早佐の胸は、自分でも思いがけないくらい痛んで、平静を装うのが、やっとだった。


―寂しいとか、恋しいとか言える(よう)な立場ではないのに。


 早佐が自分だけの都合で巻き込んだ人間が、治だ。

 まるで恋人の(よう)な関係だが、本当のところは、自分が治を好きなだけなのだ。

 此れを機に、もう会わない方が良いのかもしれない、と、早佐は思った。


 今日は随分風が強いと、早佐は思った。

 竹が風に(いじ)られているのが見える(よう)だった。


「竹の花って、御覧になった事が有りまして?」


 唐突だし、花なんて、興味のない話題かもしれない。聞いてもらえないだろうかと思いながら、早佐は、治にそう語りかけた。


「いや。無いけど、そんな物が有るのか?」


 如何(どう)やら、聞いてくれる気は有る(よう)だった。


 此の人物は、案外人が好いのだ。

 自分と居る時は仏頂面だが、悪い人間では無い。だから、自分の(よう)な人間に付け込まれるのかもしれないが、そういうところは、好ましいと早佐は思った。


「ええ。竹って、普段は、筍で増えるでしょう?あれはですね、分身と申しますか、クローンのようなものだそうです。地下茎から筍が伸びてきて、其れが成長して竹になって、ああして増えるのですね」


 クローンって、と言って、治は目を瞬かせた。

 睦言(むつごと)では(およ)そ出ないであろう単語だと思い至って、早佐は少し可笑しかった。

 恋人らしくない会話の方が、自分達には似合いに思えた。


「いえね、私、兄から、学校にも行く事を禁止されておりましたから。本を読んだりするのばかりが、趣味になってしまいまして。そんな事ばかり、よく知っているのですよ。其れが、六十年だか、百二十年だかに一回、竹に花が咲くのだそうです。本来、竹は、イネ科の植物だそうで、花粉で有性生殖を行う為に、花を咲かせるのだとか」


「へぇ。そんなに珍しい花なのか」


「其れでですね、竹は、花が咲くと、枯れてしまうのだそうですよ。一生のうち一度くらい、竹の花を見られるかしら、と思っていた事も有ったのですけれど。子孫を増やす為に花を咲かせると、枯れてしまうなんてねぇ。何だか、其れを見るのも、切ない気分になりそうですね。一つの場所に留まって、自分の分身だけを増やしていれば、竹は、驚く(ほど)長生きなのに、何故、花を咲かせようなんて思うのでしょうか」


 最後の方は、自分の事の(よう)だと思った。

 ただ閉じ込められて、兄の言う通りにしていれば、唯々諾々(いいだくだく)と生きていられれば、どんなに良いか。


 最初から心を持っていなければ、どんなに良かったか。


 其れなのに、反抗しようと思った。

 死のうと思った。


 そして、死のうと思っていたのに、恋をしてしまった。


 あそこで満足して、死んでしまっていれば良かったと、早佐は思った。



 花が咲いたら枯れてしまう(はず)なのに、恋をしたら、会いたいと思ったら、死にたくないではないか。


 何という事だろう。こんなに、離れがたく思ってしまうなんて。

 そう、此れが罰だったのだ。


 治と目が合った。


 早佐は、治に寄り添って、治の頬に、そっと自分の唇を押し当てた。此れが、自分の精一杯だった。離れたくないとは、とても言えなかった。


 治は、早佐を、そっと抱き締めてくれた。早佐は、とても驚いたが、其の(まま)、治の胸に、顔を(うず)めた。


 自分の(よう)な身勝手な人間にも、こうしてくれる人間を陥れた、同じ罪に引き摺り込んだ罪の、罰を、早佐は受けていた。


 生きていると、幸せな事が次々に起こって、どんどん欲深くなる。

 此の幸せは、今までに体験した事が無い幸せだった。


―此の幸せが、罰だったのだわ。


 姉に恋をしていた治を見て、早佐は馬鹿だと思っていた。

 何故、手に入らないものを求めるのかと。


 自分にも、そんな時が訪れて初めて、其れは、絶対に自分は馬鹿な事をしないと思い込んでいる人間の傲慢だったのだと気付いた。


「明日は、兄が戻ります。また、一日したら、一週間はソトに行くようですけど」

 此れでは、来てくれと言っている(よう)なものである。


「ふぅん」

 治は、軽い返事をした。

 多分また、此処に来てしまうだろう。


 もう来ないでくれと言えない自分は、何て狡いのだろう、と、早佐は思った。


 全く、自分という人間は、恋さえ歪んでいるらしかった。

 好き合って、想いを伝え合って、という風には、上手くいかない。

『恋人同士』という言葉は、何時(いつ)、どの(よう)な時に使うのが適切なのだろうかと、早佐は思った。


 別れ際、コッソリ、早佐は、本を一ページ破いて、治の袂に入れた。


―何て狡い人間なの。


 どうか、此の紙に気付かないで、と願う矛盾が、早佐の胸を焼いた。




 此れが罰だったのだ。

 望む地獄に落ちる褒美など、罪人に与えられる訳が無かったのだ。


 地獄に落ちるより苦しい目に遭わされて、当然、望む地獄になど落としては貰えないのだ。


 恐らく、簡単に死なせてすら貰えないであろう事を、早佐は悟った。其れが罰だった。死にたくなくなってしまったからだ。




 死ぬのが、怖くなってしまったからだ。




 恋をする事で、早佐は、簡単に、生き物になり、動物になり、人間に戻って、生きる喜びを知ってしまう、という地獄を味わう羽目になったのだ。


 そう、こうやって、上げて、落とされるのだ。


 一番の幸福を味合わせられて、たっぷり未練を持ってから、うんと、高い所から落とされる地獄なのだ。


 他人を陥れたからだ。

 他人の貞操を、自分の事情に巻き込んだからだ。

 罪を犯したからだ。

 何より、自分の人格という、『人間』を、生きた(まま)荼毘(だび)に臥して殺したからだ。


 きっと、千年も、二千年も、高い所から、()逆様(さかさま)に落ち続けるのだ。

 

 死にたくない、と、叫びながら。



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