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汝を除て 『瀬原集落聞書』  作者: 櫨山黎
第二章 竹の花
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相婚(あひまして)

 姉は、(ちょうじてからは、庭で元気に駆け回る(よう)な事は無くなった。


 其の代わりに、時折、姉の許婚である岐顕(みちあき)や、許婚と姉の共通の友人が、姉を訪れる(よう)になった。姉は、学校に真っ当に通っていたのだから、当然だったが、女性の友人も居た。清水家の人間が多かった(よう)だが、早佐には見分けが付かなかった。


 其の頃には、早佐も、異性の好みというものが芽生えていた。


 美醜の判断として、姉の許婚と(はる)は、なかなか見た目が良いのだな、ということは、理解出来るようになっていた。


 姉は、岐顕が好きな様子だった。


 其れは、早佐にも理解出来た。


 岐顕は、凛々しくて清潔感のある、正統派の美形であると思った。

 何より、長身で、体格もしっかりとしていて、男らしかった。


 早佐は、自分の兄も美しいとは思うが、兄は線が細く、其の点では、あの二人は同い年の従兄弟だというのに、岐顕の方が優れていると思った。


 姉は意外と面食いなのかも知れないと思ったが、無理もない事だ、とも思った。


 結婚相手は自分で選べないのである。

 相手の内面など、到底分からない。

 顔でも良ければ、姉にも、一つくらいは救いが有るのではなかろうかと、早佐は思った。


 品定めをする(よう)で申し訳なくはあったが、明日は我が身なのだ。

 早佐とて、姉の二年後には、同じ(よう)に嫁がなければならない。

 自由に相手を選べるような立場ではないのだ。

 如何(どう)しても、客観的に他人を見ざるを得ない。相手が(もたら)すものの何が、自分にとって得なのか、損なのか、冷徹に見ても、悪い事ではないだろう。


 自由な恋愛など、早佐にとっては、本当に本の中だけの事であった。




 治は、理佐より一つ年上で、岐顕より一つ年下だった。

 柔和な、甘い顔立ちをしているので、頼り無く見える事もあるが、其れでも、身長は岐顕と同じくらい高く、手足の長い事は驚くばかりであった。


 本家の正統な当主であるにも関わらず、十五で一族郎党に自分以外に事故死されたせいで、ソトで働いて生計を立てるしかなくなった、という、複雑な生い立ちのせいか、如何(どう)かすると、ソトに慣れていて、すれている(よう)にも見える。

 あまり、集落には居ない(よう)な若者だと思った。


 純粋に、顔は好きだと思った。


 しかし、色々と総合して考えるに、治と早佐が許婚になる可能性はあまり高くはなく、有り得なくはない組み合わせ、という程度だった。


 岐顕と治を見た後だと、目が肥えていけない。

 早佐は此の先、誰と縁組が決まっても、げんなりするかもしれないと思った。

 筋違いだが、たった其れだけの事で、早佐は、岐顕と治を少し恨んだ。


 (そもそも)、岐顕は姉の許婚である。


 姉の結婚、姉が屋敷を出ていく、などという事は、考えただけでも寂しい。

 岐顕なんて、早佐にとっては居てくれない方が良かった。


 しかし、治もまた、厄介な存在であった。

 治は、姉が好きなのである。其れは、見ていればわかった。


 大体、姉の(よう)な美しい娘が傍に居れば、其れは自然な成り行きであろうと思う。


 治は、山茶花の蕾の事など、覚えてはいないだろう。


 治は、姉だけを見ているだろう。


 そういうものだ。


 ただ、見ているだけの早佐にも、治の想いが叶わない事だけは、よく分かった。


 此れは、本当に厄介だった。


 如何(どう)して、得られないと分かっているものを、人間は求めるのであろうと思うと、苛々(いらいら)する事が有った。

 昔、此の人は馬鹿だと思った気持ちが蘇えってくる。

 他人の許婚と、どの(よう)な関係になれれば満足するというのであろうか。


 多分、こういう時は、自分でも、其の終着点が見えていないのだろう。


 感情とは、不便なものである。


 体の関係だけ出来れば満足なのだろうか。

 所帯を持つ、というところまで行かなければ駄目なのだろうか。

 其れとも、終着点など無いのであろうか。


 一考(いっこう)の余地はある事例だと、早佐は思った。




 其れにしても、岐顕を思慕する姉は、傍目にも美しかった。


 一人の人間の事について、あの(よう)に思い込めるなんて、なんて素晴らしく、美しい事なのだろうと思った。

 誰かを思慕出来るという真っ当さこそが、早佐にとっては羨ましかった。


 閉ざされた生活の中で、姉だけが、真っ直ぐで、透き通っていて、真っ当だった。

 姉を失う事が、どれだけ(つら)いか、早佐は、考えるのも嫌だった。


 姉の結婚は、其れでも、喜ばしい事であった。

 美しい衣装を着て、好きな人に嫁ぐ姉を眺める事。

 此れ以上の事は、もう、自分の人生には無いのではないかと思った。

 姉の出産も同様だった。

 こんなに嬉しい事は、もう、自分の人生には無いのではないかと思った。

 早佐は、生まれて初めて、喜びの涙を流した。




 しかし、姉は亡くなった。




 其の時、早佐の何かも、一緒に死んでしまったのだった。




 泣こうなどと思わなくても、勝手に涙は出た。

 姉の亡くなった部屋を見た時に、他殺だと確信した早佐は、()(さま)、此れは兄の仕業だと思った。

 単なる直観だ。理屈では無い。

 ただ、そう思ったのだ。


 其の(よう)な人間と、同じ屋根の下で暮らす事の意味を考えて、早佐は恐怖した。




 姉が死んでしまった今、兄に残されたのは、自分だけなのだ。




 兄が、此処数年、姉を、どの(よう)な目で見ていたか。


 思い出すだけで、早佐は、身の毛が弥立(よだ)った。




 大方の予想通り、兄の、あの目は、早佐に向けられる(よう)になった。

 堪らなかった。

 姉の居なくなった今、何が如何(どう)なっても構わないが、兄に身を任せるのは御免だった。

 此の(まま)、兄の決めた相手と結婚するというのも、ぞっとしなかった。


 (そもそも)、婚姻が上手くいったとて、姉の(よう)な末路を迎えない保証は何処にも無いのである。


 もう、此処には居たくなかった。




 其れから、早佐は、死に場所を求めた。


 兄が留守の間は、こっそり抜け出す為に、必要以外の時間は、侍女たちを下げさせた。


 随分思案したが、結局、ほとんど出歩いた事のない集落の中は、生まれ故郷だというのに、未知の場所とほぼ同じだった。


 飛び降りて死ねる(よう)な背の高い建物も、入水(じゅすい)出来様(よう)な場所も、集落には無い(よう)に思われた。


 自害出来る(よう)な鋭利な刃物も、劇薬も持たない。

 首を括るのに、自分が扱い易い、気の利いた紐も無い。


 早佐は途方に暮れた。


 思っていた以上に、死ぬ方法が思い付かなかったのだった。

 こんなに自分は世間知らずだったのだろうか、と、屋敷の裏庭で、竹林を見詰めながら、早佐は、不甲斐無さに唇を噛んだ。


―ああ、竹林。


 ふと、早佐は思い出した。そう言えば、姉が以前に言っていた。

 此の竹林は、ソトに繋がっていると。


―ソトに出る。


 良いかもしれない。

 其れは命懸けの行為であるが、如何(どう)せ死に場所を求めている身である。

 道は知らないが、試してみる価値はあるように思われた。

 どうせなら、竹林で死んだっていい。




 勇んで、竹林に入ったのが間違いだった。


 ものの十分もしないうちに、気管が狭くなるのが分かった。


 喉から、ヒュウッという音がする。


 歩を進めると、冷や汗が出てきた。


 吐く息の半分程度しか、息を吸う事が出来ない。

 無理をして吸うと、吐くのが(つら)い。


―しまった。発作だ。


 どうせ死ぬのだと思って吸引器(エアゾル)すら持たずに出てきた。


―此の(まま)ではいけない。


 暫く座り込んで回復を待つが、如何(どう)にもいけない。

 此の竹林の中に居る事自体が、既に良くないらしい。


―ダニ?埃?土埃?何かの花粉?…しまった。何か吸い込んだのだわ。




 其の場で如何(どう)にも出来ずにいると、誰かが此方(こちら)にやって来るのが分かった。


―どうしよう。こんなところを見付かったら、何と言ったらいいの。




 其の後、自分を助けてくれた治と関係を持ったのは、物の弾みだった。


 どうせ、此処から逃れられないのなら、兄の思う通りにだけはなりたくなかった。


―其れなら。


 此の人なら、嫌じゃないと、治を見て思ったのだった。

 きっと、山茶花の蕾の事など覚えていない、此の相手と。

 

 (いち)(ばち)かの賭けに、治が乗ってくれたのは、単なる偶然だ。


 死ぬ気で遣れば、思いがけない行動がとれるものだと思った。


―一つ、望みが叶った。


 兄に貞操を奪われる前に、自分の意志で、自分の決めた人と交わった。


 自分は、兄を出し抜いたのだと思った。


 もう此れで、何時(いつ)死んでもいいと、早佐は思った。

 此処を終着点にしてしまえばいい。


 そしてもう、積極的に死ぬ必要はないと思った。


 誰かに殺されるのか、病で死ぬのかはわからないが、(いず)れ、自分も、そう長くないのではないかと思うのだ。

 其れに、どうせ、こんな虚弱な自分には、子など授かる事は出来るまいと思った。

 水配り(ミックバイ)で嫁に行こうが、兄に悪い心を起こされようが、其の結果が別段変わるとは思えなかった。


 相手を巻き込んだ事については、早佐は、(つゆ)程も罪悪感など抱かなかった。


 自分より自由で、自分より健康な、自分より力の強い人間を不都合な目に遭わせて、何が悪いのだ。

 どうせ、自分より長く生きるであろう人間に。

 恐らく此の先、子供を持てる程、健康であろう人間に。

 どうせ、山茶花の蕾の事も覚えていなくて、死んでも(なお)、姉の事ばかり考えているのであろう人間に、何の遠慮の心を持てと言うのだ。

 山茶花の蕾の事も覚えていない(よう)な、記憶力に乏しい人間は、騙し討ちに遭わせても構わないのだ。

 嫌なら、早佐より強い力で、抵抗すればいいだけの話だ。

 長い間、自分が病み臥せっていた間に、ソトに居て、自分の事など思い出しもしなかったであろう人間の気持ちを(おもんばか)る必要性など、早佐には全く感じられなかった。

 不都合と言っても、誰にも知られなければいい程度の事で、どうせ、早佐が死ねば無かった事になる。

 どうせ、早佐が死ぬ頃には早佐の事など覚えてすらいないであろう、以降、二度と関わらないであろう相手に、慈悲の心など持ち合わせてやらない事でしか、早佐は、自分の心の歪みから来る望みを、相手にぶつけられなかった。


水配り(ミックバイ)だって、如何(どう)でもいい。もう、自分で決めた『水配り(ミックバイ)』は、此の人と済ませてしまったのだから。其の後何が起きても、自分の体の使い道は自分で決めてやる。


 もう本当に、此れでいいのだと思った。


 そう思うと、胸の中に風が通った(よう)な解放感が有った。




 反面、体の負担は、思った以上だった。


 腰骨は(きし)(よう)に痛んだし、下腹部の鈍痛は、ほぼ一日中続いた。

 痛むという(よう)な事は、何かで読んでいたが、痛みが続くとは思っていなかった。


 痛みを感じる度に、自然と治の事が思い出された。


 理由は如何(どう)あれ、自分は、治を利用した。


 誘って犯罪に加担させた(よう)なものだから、さぞ恨まれているだろうとは思った。


 一族郎党に一度に死なれて、一人ぼっちになってしまった人間を。

 姉の友人を。そして、姉の事が好きだった人を。

 そして、姉の死を悲しんでいてくれる人を。


 自分は、誘ってしまったのだ。


 後悔はしていないが、取り返しはつかなかった。


 罪は罪だ。

 早佐は、良い死に方はしないのだろう、と思った。

 其れは甘んじて受け入れよう。


 本を読むのは好きだが、不妄語戒(ふもうごかい)を破って、狂言綺語(きょうげんきぎょ)の罪で地獄に落ちられる程の知恵を、自分は持たなかった。


 そんな、望む地獄にも落ちられぬ程に、早佐は哀れで、虚弱で、知恵に乏しいのだ。


 だから早佐は、治を陥れた罪で地獄に落ちるだろう、という、死んだ先の行方だけは、心の救いだった。


 他人の心に、長く爪痕すら付けられない自分が、他人と無関係でない状態で死ねる、其れが、たった一つの事だった。


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