相婚(あひまして)
姉は、長じてからは、庭で元気に駆け回る様な事は無くなった。
其の代わりに、時折、姉の許婚である岐顕や、許婚と姉の共通の友人が、姉を訪れる様になった。姉は、学校に真っ当に通っていたのだから、当然だったが、女性の友人も居た。清水家の人間が多かった様だが、早佐には見分けが付かなかった。
其の頃には、早佐も、異性の好みというものが芽生えていた。
美醜の判断として、姉の許婚と治は、なかなか見た目が良いのだな、ということは、理解出来るようになっていた。
姉は、岐顕が好きな様子だった。
其れは、早佐にも理解出来た。
岐顕は、凛々しくて清潔感のある、正統派の美形であると思った。
何より、長身で、体格もしっかりとしていて、男らしかった。
早佐は、自分の兄も美しいとは思うが、兄は線が細く、其の点では、あの二人は同い年の従兄弟だというのに、岐顕の方が優れていると思った。
姉は意外と面食いなのかも知れないと思ったが、無理もない事だ、とも思った。
結婚相手は自分で選べないのである。
相手の内面など、到底分からない。
顔でも良ければ、姉にも、一つくらいは救いが有るのではなかろうかと、早佐は思った。
品定めをする様で申し訳なくはあったが、明日は我が身なのだ。
早佐とて、姉の二年後には、同じ様に嫁がなければならない。
自由に相手を選べるような立場ではないのだ。
如何しても、客観的に他人を見ざるを得ない。相手が齎すものの何が、自分にとって得なのか、損なのか、冷徹に見ても、悪い事ではないだろう。
自由な恋愛など、早佐にとっては、本当に本の中だけの事であった。
治は、理佐より一つ年上で、岐顕より一つ年下だった。
柔和な、甘い顔立ちをしているので、頼り無く見える事もあるが、其れでも、身長は岐顕と同じくらい高く、手足の長い事は驚くばかりであった。
本家の正統な当主であるにも関わらず、十五で一族郎党に自分以外に事故死されたせいで、ソトで働いて生計を立てるしかなくなった、という、複雑な生い立ちのせいか、如何かすると、ソトに慣れていて、すれている様にも見える。
あまり、集落には居ない様な若者だと思った。
純粋に、顔は好きだと思った。
しかし、色々と総合して考えるに、治と早佐が許婚になる可能性はあまり高くはなく、有り得なくはない組み合わせ、という程度だった。
岐顕と治を見た後だと、目が肥えていけない。
早佐は此の先、誰と縁組が決まっても、げんなりするかもしれないと思った。
筋違いだが、たった其れだけの事で、早佐は、岐顕と治を少し恨んだ。
抑、岐顕は姉の許婚である。
姉の結婚、姉が屋敷を出ていく、などという事は、考えただけでも寂しい。
岐顕なんて、早佐にとっては居てくれない方が良かった。
しかし、治もまた、厄介な存在であった。
治は、姉が好きなのである。其れは、見ていればわかった。
大体、姉の様な美しい娘が傍に居れば、其れは自然な成り行きであろうと思う。
治は、山茶花の蕾の事など、覚えてはいないだろう。
治は、姉だけを見ているだろう。
そういうものだ。
ただ、見ているだけの早佐にも、治の想いが叶わない事だけは、よく分かった。
此れは、本当に厄介だった。
如何して、得られないと分かっているものを、人間は求めるのであろうと思うと、苛々する事が有った。
昔、此の人は馬鹿だと思った気持ちが蘇えってくる。
他人の許婚と、どの様な関係になれれば満足するというのであろうか。
多分、こういう時は、自分でも、其の終着点が見えていないのだろう。
感情とは、不便なものである。
体の関係だけ出来れば満足なのだろうか。
所帯を持つ、というところまで行かなければ駄目なのだろうか。
其れとも、終着点など無いのであろうか。
一考の余地はある事例だと、早佐は思った。
其れにしても、岐顕を思慕する姉は、傍目にも美しかった。
一人の人間の事について、あの様に思い込めるなんて、なんて素晴らしく、美しい事なのだろうと思った。
誰かを思慕出来るという真っ当さこそが、早佐にとっては羨ましかった。
閉ざされた生活の中で、姉だけが、真っ直ぐで、透き通っていて、真っ当だった。
姉を失う事が、どれだけ辛いか、早佐は、考えるのも嫌だった。
姉の結婚は、其れでも、喜ばしい事であった。
美しい衣装を着て、好きな人に嫁ぐ姉を眺める事。
此れ以上の事は、もう、自分の人生には無いのではないかと思った。
姉の出産も同様だった。
こんなに嬉しい事は、もう、自分の人生には無いのではないかと思った。
早佐は、生まれて初めて、喜びの涙を流した。
しかし、姉は亡くなった。
其の時、早佐の何かも、一緒に死んでしまったのだった。
泣こうなどと思わなくても、勝手に涙は出た。
姉の亡くなった部屋を見た時に、他殺だと確信した早佐は、直ぐ様、此れは兄の仕業だと思った。
単なる直観だ。理屈では無い。
ただ、そう思ったのだ。
其の様な人間と、同じ屋根の下で暮らす事の意味を考えて、早佐は恐怖した。
姉が死んでしまった今、兄に残されたのは、自分だけなのだ。
兄が、此処数年、姉を、どの様な目で見ていたか。
思い出すだけで、早佐は、身の毛が弥立った。
大方の予想通り、兄の、あの目は、早佐に向けられる様になった。
堪らなかった。
姉の居なくなった今、何が如何なっても構わないが、兄に身を任せるのは御免だった。
此の儘、兄の決めた相手と結婚するというのも、ぞっとしなかった。
抑、婚姻が上手くいったとて、姉の様な末路を迎えない保証は何処にも無いのである。
もう、此処には居たくなかった。
其れから、早佐は、死に場所を求めた。
兄が留守の間は、こっそり抜け出す為に、必要以外の時間は、侍女たちを下げさせた。
随分思案したが、結局、ほとんど出歩いた事のない集落の中は、生まれ故郷だというのに、未知の場所とほぼ同じだった。
飛び降りて死ねる様な背の高い建物も、入水出来様な場所も、集落には無い様に思われた。
自害出来る様な鋭利な刃物も、劇薬も持たない。
首を括るのに、自分が扱い易い、気の利いた紐も無い。
早佐は途方に暮れた。
思っていた以上に、死ぬ方法が思い付かなかったのだった。
こんなに自分は世間知らずだったのだろうか、と、屋敷の裏庭で、竹林を見詰めながら、早佐は、不甲斐無さに唇を噛んだ。
―ああ、竹林。
ふと、早佐は思い出した。そう言えば、姉が以前に言っていた。
此の竹林は、ソトに繋がっていると。
―ソトに出る。
良いかもしれない。
其れは命懸けの行為であるが、如何せ死に場所を求めている身である。
道は知らないが、試してみる価値はあるように思われた。
どうせなら、竹林で死んだっていい。
勇んで、竹林に入ったのが間違いだった。
ものの十分もしないうちに、気管が狭くなるのが分かった。
喉から、ヒュウッという音がする。
歩を進めると、冷や汗が出てきた。
吐く息の半分程度しか、息を吸う事が出来ない。
無理をして吸うと、吐くのが辛い。
―しまった。発作だ。
どうせ死ぬのだと思って吸引器すら持たずに出てきた。
―此の儘ではいけない。
暫く座り込んで回復を待つが、如何にもいけない。
此の竹林の中に居る事自体が、既に良くないらしい。
―ダニ?埃?土埃?何かの花粉?…しまった。何か吸い込んだのだわ。
其の場で如何にも出来ずにいると、誰かが此方にやって来るのが分かった。
―どうしよう。こんなところを見付かったら、何と言ったらいいの。
其の後、自分を助けてくれた治と関係を持ったのは、物の弾みだった。
どうせ、此処から逃れられないのなら、兄の思う通りにだけはなりたくなかった。
―其れなら。
此の人なら、嫌じゃないと、治を見て思ったのだった。
きっと、山茶花の蕾の事など覚えていない、此の相手と。
一か八かの賭けに、治が乗ってくれたのは、単なる偶然だ。
死ぬ気で遣れば、思いがけない行動がとれるものだと思った。
―一つ、望みが叶った。
兄に貞操を奪われる前に、自分の意志で、自分の決めた人と交わった。
自分は、兄を出し抜いたのだと思った。
もう此れで、何時死んでもいいと、早佐は思った。
此処を終着点にしてしまえばいい。
そしてもう、積極的に死ぬ必要はないと思った。
誰かに殺されるのか、病で死ぬのかはわからないが、何れ、自分も、そう長くないのではないかと思うのだ。
其れに、どうせ、こんな虚弱な自分には、子など授かる事は出来るまいと思った。
水配りで嫁に行こうが、兄に悪い心を起こされようが、其の結果が別段変わるとは思えなかった。
相手を巻き込んだ事については、早佐は、露程も罪悪感など抱かなかった。
自分より自由で、自分より健康な、自分より力の強い人間を不都合な目に遭わせて、何が悪いのだ。
どうせ、自分より長く生きるであろう人間に。
恐らく此の先、子供を持てる程、健康であろう人間に。
どうせ、山茶花の蕾の事も覚えていなくて、死んでも尚、姉の事ばかり考えているのであろう人間に、何の遠慮の心を持てと言うのだ。
山茶花の蕾の事も覚えていない様な、記憶力に乏しい人間は、騙し討ちに遭わせても構わないのだ。
嫌なら、早佐より強い力で、抵抗すればいいだけの話だ。
長い間、自分が病み臥せっていた間に、ソトに居て、自分の事など思い出しもしなかったであろう人間の気持ちを慮る必要性など、早佐には全く感じられなかった。
不都合と言っても、誰にも知られなければいい程度の事で、どうせ、早佐が死ねば無かった事になる。
どうせ、早佐が死ぬ頃には早佐の事など覚えてすらいないであろう、以降、二度と関わらないであろう相手に、慈悲の心など持ち合わせてやらない事でしか、早佐は、自分の心の歪みから来る望みを、相手にぶつけられなかった。
―水配りだって、如何でもいい。もう、自分で決めた『水配り』は、此の人と済ませてしまったのだから。其の後何が起きても、自分の体の使い道は自分で決めてやる。
もう本当に、此れでいいのだと思った。
そう思うと、胸の中に風が通った様な解放感が有った。
反面、体の負担は、思った以上だった。
腰骨は軋む様に痛んだし、下腹部の鈍痛は、ほぼ一日中続いた。
痛むという様な事は、何かで読んでいたが、痛みが続くとは思っていなかった。
痛みを感じる度に、自然と治の事が思い出された。
理由は如何あれ、自分は、治を利用した。
誘って犯罪に加担させた様なものだから、さぞ恨まれているだろうとは思った。
一族郎党に一度に死なれて、一人ぼっちになってしまった人間を。
姉の友人を。そして、姉の事が好きだった人を。
そして、姉の死を悲しんでいてくれる人を。
自分は、誘ってしまったのだ。
後悔はしていないが、取り返しはつかなかった。
罪は罪だ。
早佐は、良い死に方はしないのだろう、と思った。
其れは甘んじて受け入れよう。
本を読むのは好きだが、不妄語戒を破って、狂言綺語の罪で地獄に落ちられる程の知恵を、自分は持たなかった。
そんな、望む地獄にも落ちられぬ程に、早佐は哀れで、虚弱で、知恵に乏しいのだ。
だから早佐は、治を陥れた罪で地獄に落ちるだろう、という、死んだ先の行方だけは、心の救いだった。
他人の心に、長く爪痕すら付けられない自分が、他人と無関係でない状態で死ねる、其れが、たった一つの事だった。




