山茶花
早佐が、治の事を最初に認識したのは、五歳の時だった。
滅多に、庭にさえ出ない自分と違って、姉の理佐は快活で、しょっちゅう男の子達に交じって遊んでいた。
走って、笑って、男の子と同じ様に遊ぶ姉は、早佐にとって、屋敷の外の世界其のものだった。
三歳くらいまでは、我儘を言って、早佐も一緒に遊ばせてもらっていたのだが、四歳で、喘息の発作が酷くなった。
五歳になった頃には、体も怠く、肩凝りまでする様になり、部屋で本を読んでいた方が楽だと思うようになってしまっていた。
其れでも、楽しそうな声が聞こえてくると、時折、こっそりと庭に出た。
嘗て早佐の自室だった離れの周りは、山茶花の生垣で囲われていた。
まるで、自分を外から隠す様だと、幼心に早佐は思っていた。
其の、山茶花の生垣の隙間から、こっそり姉の声の方を覗くと、何時も、姉や、其の友達の姿が見えた。
其の度に、早佐は、うっとりとして姉を見た。
姉は凄い。
姉は、快活で、とても強く見えた。
姉と同じ様に遊ぶのは無理だし、発作の後の倦怠感には既に懲りていたから、同じ様に遊びたいとも、もう思わなくなっていたが、過保護な母からも隠れて、快活に遊ぶ姉を覗く行為は、幼い早佐に、歪んだ喜びを与えた。
早佐は、本で、色んな事を知っていた。
読んではいけないと言われている本も、こっそり読み、何度叱られたか知れない。
だから、早佐は、父と母が、夜に何をしているのかも、侍女が恋人と、どの様に過ごしているのかも、大体知っていたし、知っている自分は、何だか穢れてしまっている気がして嫌いだった。
姉は、そんな事は知らないのではないかと思うと、自分の存在ばかりが巌の様にゴツゴツと醜く、姉は、春、木々に咲き誇る花の様に麗しく思えた。
閉ざされた屋敷の中で、早佐は、自分は一人のような気がしていた。
喘息が出れば、普段の正常な呼吸の有り難さを知り、免疫の低下から、細菌性の腸閉塞になれば、死を恐れた。
母の事は好きだったが、其のあまりの過保護さに、時として早佐は委縮した。
半面、姉の居る場所は明るかった。
光に満ちていた。
捕まえた蝶を、潰さない様に籠に入れて、離れた場所から、そっと愛でる様な感覚と、遊ぶ姉を覗く行為は、何処か似ているように思われた。
実際には、籠に捕まえられている蝶と同じ状態なのは、姉ではなくて自分なのだが、そうして覗いている時は、そう思うのだった。
其処に羨ましさは無く、ただ、見る事が喜びだった。
長じてから、早佐は、自分の事を、随分倒錯した幼児だったのだな、と思ったものだった。
ある日、何時もの様に、山茶花の垣根から姉の方を窺っていると、其処から急に、ニュッと、子供の手が伸びてきた。
そして其の手は未だ、小さな蕾の状態の山茶花の花を、毟り取った。
「あれ?何だ?」
蕾を毟った相手は白装束の少年で、早佐に気付いた。
治である。
治は、垣根の内側に早佐を見付けて、驚きの声を上げた。
「何だ、チビに見られたか」
治は、面倒臭そうな顔をした。
早佐は、他人にそんな態度をとられた事が無かったので、大いに気分を害した。
自分より随分大きい様子だけれど、きっと此の人は、そんなに頭が良くないのだろうと、幼児は心の中で少年を蔑んだ。
「まあいいや、見ろ」
治は、山茶花の蕾の外側を剥き始めた。
すると、小さな、ごく小さな、濃い桃色の花弁が出てきた。
治は、更に、花弁を外側に曲げた。
すると、短く、もじゃもじゃした花芯が露出した。
早佐は息を飲んだ。
何か、神秘的な秘密を見た気がした。
「未だ蕾だけど、蕾の中で、花はもう、咲く準備が出来てて、だから、こうして剥くと、蕾の中には、花が有るのが分かるだろ」
治は、得意そうにそう言った。
早佐は、少し此の少年を見直した。
「治!うちの生垣を毟って!」
姉の声がした。
「いけね!」
治は、姉の声を聞くや、剥いた蕾を放り出して逃げ出した。
早佐は溜息をつき、やっぱり此の人は馬鹿だと思った。
しかし、治が落としていった蕾を拾い上げて、繁々と眺めた。
蕾の中は、こうなっているのだ。
本当に、小さな、小さな花だった。
こんな秘密が、あんな、薄い黄緑の蕾の中に隠されていたとは。
早佐は、自分でも、他の蕾を剥いてみた。
早佐が遣っても、先刻と同じ様になった。
何個か剥いてみると、あまり小さ過ぎる蕾は、未だ花弁の準備が出来ていない様子だった。
剥いた蕾を並べると、其の成長の過程が、よく分かった。
山茶花の蕾は、こうやって、どんどん花弁を作りながら大きくなるのだ。
そうして、やがて花が咲く。
早佐は、以降、植物に興味を持った。
本を読んでは、花の名前を覚えた。
そして、姉を覗く時には、こっそり、山茶花の蕾を一つだけ剥くようになった。
其の楽しみは、其の年、山茶花の花が咲いてしまうまで続いた。
早佐が七歳の時に母が亡くなって、九歳の時には父が亡くなった。
とても悲しかった。
特に、母を失った事は、如何やって呼吸をしたらいいかも分からなくなる程の不安を伴う悲しみだった。
しかし其れ以降、姉は、自分の相手をよくしてくれるようになった。
早佐には、其れが嬉しかった。
早佐には、姉が全てだった。
四季とは姉が運んできてくれるものであり、喜びとは、姉と共に味わうものであった。美しい人とは姉の事であり、優しい人とは、姉の事であった。
早佐は、兄の事は、嫌いだった。
自分に似ていたからだ。
見た目が似ているという事ではなかった。
兄の抱えている歪みが、自分と似ているのである。
十三歳で父を失った兄は、其の若さで、集落の長として、重大な責任を背負うようになった。
其の様な人間が、どの様な状態になるか、早佐には、よく分かった。
特別視というのは、差別なのである。
病弱な早佐が特別視されるのと同じだ。
集落で一番偉いという事は、そして、特別であるという事は、良くも悪くも普通とは違う、という事である。
兄は、権力を持つが故に神聖視され、其れ故に恐れられる。
誰もが彼を恐れ、逆らわないが故に、ある意味蔑視されており、孤独なのである。
其の孤独が、兄を歪め、早佐と兄とを似せるのかもしれない。
早佐は、其の虚弱な体質故に、父が就学を遅らせていたのだが、後を継いだ兄は、早佐の就学自体を禁じ、外出も殆ど許さなかった。
表向きは、早佐の虚弱体質故の事であったが、早佐には何となく理由が分かった。
兄も、学校に通っていない期間が、他の子供よりは有ったのだった。父に付きっきりで、集落の頂点となるべく育てられていたのだから、自然と、そうなったのだろう。婉曲に、自分の仲間を作りたかったのかもしれない。孤独な人間を作りたいのだろう。其の事について、兄が自覚的なのか如何かまでは、早佐の与り知らぬ事であるが。
そして、早佐には、兄が、姉を自由にさせているのも、何と無く理由が分かった。
兄には、早佐が思うのと同様に、姉が眩しいのに違いなかった。
姉には、兄や自分に有る様な屈託は無かった。
父からの、長になる為の教育の束縛からも、母の過保護さからも、ある意味自由であったからなのであろう。
良く笑い、駆け回り、友達とふざけ合う。
姉の喜怒哀楽は真っ当であり、姉の思慕は真っ当であり、姉の嫉妬は真っ当であった。
人間が、そう感じるべき時期に、そう感じるように物事を学び、経験していった、真っ当な人間なのだ。
奉られてきた兄は幼く、病気や性や死を見詰めてきた早佐は老成して育った。
そういった歪みが、姉からは感じられないのである。
兄の執着は、異母妹二人に、実は等しく注がれているのである。
早佐は、其の執着が、異性へのものへと変性していかぬよう、願うばかりであった。
『緑色の空』で、麻那美が楽とあてがわれた瀬原本家の離れが山茶花の垣根の場所で、佐織が龍顕とあてがわれたのが、早佐の自室で、嫁入り前の理佐が使っていた瀬原本家の離れです。
吉野保親が、瀬原修一の死後、長の館を解体して立て直した結果、土地が余ったので、由一が書庫や趣味の部屋として二つ建てた離れがの一つが、病弱な早佐の為の自室になり、由一の死後、令一が、姉妹をバラバラにする為に、其々の自室として使わせていました。
早佐の死後、二つの離れが、水配りの会場に使われる様になった、という設定になっております。




