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市影譚-短編シリーズ  作者: 鳥ノ木剛士


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9/29

case2 はじまり

 その日、私はいつものように事務作業をこなしていた。


 市影譚の仕事は、現場に行くことばかりではない。

 むしろ、現場に行っていない時間の方がずっと長い。


 領収書を日付順に並べる。

 交通費と宿泊費を分ける。

 撮影データの名前を変える。

 録音ファイルに仮タイトルをつける。

 桂一さんが現場で書き散らしたメモを、あとで読める形に直す。


 机の上には、前回の調査で使った地図と、コンビニのレシートと、道の駅で買った地元菓子の空き箱が置かれていた。


 桂一さんは向かいの席で、古い名刺を整理していた。


 ただ、名刺を整理していると言っても、営業マンのように分類しているわけではない。

 役場の人、猟友会の人、土建屋さん、商店会の人、漁協関係者、それから何の仕事なのか一見分からない人。


 桂一さんは、そういう名刺を捨てずに残している。


 使える人脈を管理している、というより、関係を雑に切らないために保管しているように見えた。


 名刺の端に、小さく日付や場所を書き込んでいるものもある。

 たぶん、どこで会った誰なのかを忘れないためだ。


 私が領収書を束ねていると、桂一さんのスマートフォンが鳴った。


 桂一さんは呼び出し画面をちらりと見て、手元にさっとメモ用紙を寄せた。


 それから、スマートフォンを手に取る。


「仕事の電話ですか?」


「分からんが、たぶんロクな用じゃないだろうな」


 そう言いながらも、桂一さんは楽しそうに微笑んでいた。


 怖い話の相談が来た時の顔ではない。

 古い知り合いから、面倒な頼みごとをされた時の顔だった。


「はい、水野です」


 電話の向こうの声は、こちらまでは聞こえなかった。


 ただ、相手の声が大きいのか、桂一さんが少しだけスマートフォンを耳から離した。


「久しぶり。生きてた?」


 いきなり物騒な挨拶だった。


 けれど、桂一さんの声は軽い。


「ああ、うん。そっちはまだ肩外れてない?」


 私は思わず顔を上げた。


 肩。


 普通の仕事相手との会話では、あまり出てこない単語だった。


 電話の向こうで、何か強めに言い返されたらしい。

 桂一さんは、声を出さずに笑った。


「いや、あれは僕のせいじゃない。エレクトーンが重すぎただけ」


 エレクトーン。


 ますます分からない。


 私はレシートを持ったまま、桂一さんを見た。


 桂一さんは、メモ用紙に短く書いた。


 古いマンション。

 待機所。

 夜。

 浴室。

 女の子が怖がる。


 最後の単語で、空気が少し変わった。


 冗談めいた表情が消えたわけではない。

 けれど、桂一さんの目が、仕事の目になった。


「管理会社には?」


 少し間があった。


「言いづらいか」


 桂一さんは、ペン先でメモ用紙を軽く叩いた。


「分かった。見るだけ見る。現場を見ないと、何とも言えない」


 また、電話の向こうで何か言われたらしい。


「借り? 僕が?」


 桂一さんは少し笑った。


「じゃあ、その話は現場で聞くよ。場所送って」


 通話はそこで終わった。


 桂一さんはスマートフォンを机に置き、メモを見下ろした。


 少しだけ、楽しそうな顔をしている。


「変な相談ですか?」


「うん。かなり」


「どんな人なんですか?」


 桂一さんは、ペンを置いた。


「僕の数多くの知り合いの中でも、五本の指に入る変わり者だよ」


「五本の指」


「うん。悪い人ではない。むしろ、かなり筋は通ってる。ただ、見た目と仕事でだいぶ誤解される」


「仕事?」


 桂一さんは、少しだけ間を置いた。

 けれど、ぼかしはしなかった。


「男性向けに性的サービスを提供する女性を派遣する仕事」


 私は、手に持っていた領収書を置いた。


「それって、もしかして」


「そう。派遣型風俗だね。その経営者」


 また桂一さんの、不思議な縁がひとつ明らかになった。


 この人は、本当に顔が広すぎる。


 役場、猟友会、土建屋、漁協、商店会。

 それだけでも十分よく分からないのに、今度は夜の街の経営者だった。


「どういうつながりですか?」


「昔、単発バイトで一緒になった」


「単発バイト」


「引っ越し系。古い家からエレクトーンを運び出す仕事」


「エレクトーン」


「階段の途中で、彼の肩が外れた」


「えっ」


「本人は今でも僕のせいみたいに言うけど、あれはエレクトーンが重すぎただけだよ」


「情報量が多いです」


「僕もそう思う」


 桂一さんは、メモ用紙をこちらに向けた。


 古いマンション。

 待機所。

 夜。

 浴室。

 女の子が怖がっている。


「場所が場所だから、嫌なら断っていい」


「嫌ではありません。ただ、少し緊張します」


「それでいい。初めて行く場所で緊張しない方が危ない」


 そこで桂一さんは、少しだけ表情を緩めた。


「僕としては、めったに経験できない場所だから、同行することを勧めるけど。どうする?」


「行きます」


 即答だった。


 答えたあとで、私自身が少し驚いた。


 もちろん、仕事だからという理由もある。

 市影譚の記録担当として、見ておいた方がいい場所だとも思った。


 でも、それだけではなかった。


 桂一さんが気に入っている人。

 もしかすると、親友に近いのかもしれない人。


 そういう相手に会える機会は、思ったより少ない。


 桂一さんは知り合いが多い。

 けれど、自分からその人たちのことを深く話すことはあまりない。


 だから私は、少しだけ思ってしまった。


 面白そうだ、と。


「即答だね」


「はい。少し、自分でも意外です」


「じゃあ行こうか」


「はい」


 私は領収書の束をクリップで留めた。


 桂一さんは現場用のバッグを開ける。


 録音機、ライト、マスク、手袋。

 それから巻尺と、小さな工具入れ。

 最後に検電器を入れた。


「工具も持っていくんですか?」


「古いマンションなら、念のため」


「何を見るんです?」


「音と匂いと水回り」


 その答えは、怪談の相談へ向かう人のものではなかった。


 でも、市影譚ではよくあることだった。


 怖い話の入口は、たいてい現実のどこかに引っかかっている。


 音。

 匂い。

 湿気。

 換気。

 配管。

 誰かの生活。


 外は夕方に近かった。


 街へ向かう道は、少しずつ夜の色に変わっていく。


 住宅街を抜けると、店の看板が増えた。

 古いビルの窓に、明かりがつき始める。

 コンビニの駐車場には、仕事帰りの車が並んでいた。

 飲食店の換気扇から、油の匂いが流れてくる。


 山の現場とは違う。


 足元に土はない。

 枝が車体をこすることもない。

 けれど、街には街の暗さがある。


 古いマンションは、歓楽街から少し外れた場所にあった。


 一階には、閉まったままのテナントと、小さな飲食店。

 上には住居と事務所が混ざっているようだった。


 入口のタイルは古く、エレベーターの前には消臭剤の匂いがした。


 桂一さんがインターホンを押す前に、内側から扉が開いた。


 出てきたのは、大柄な男の人だった。


 首元から見えるタトゥー。

 短く刈った髪。

 厚い肩。

 黒いTシャツの上からでも分かる体格。


 正直に言えば、私は一瞬だけ身構えた。


 その人は、私を見ると少し目を細めた。


「桂一」


「久しぶり」


「本当に来たのかよ」


「呼んだのはそっちだろ」


 桂一さんは、まったく怖がっていなかった。


 むしろ、昔から知っている相手に会ったような顔をしている。


 男の人は、桂一さんの肩のあたりを見て、少し嫌そうに笑った。


「相変わらず細いな」


「そっちは前より食べてそうだね」


「もう言うなよ。飯食えてなかったあの頃とは違うよ」


「あれから肩は外れてないか?」


「だから言うなって」


 二人の会話は、気さくだった。


 私だけが、状況に追いついていなかった。


 桂一さんは、そこで私を振り返った。


「相沢、紹介するよ。市影譚で記録を担当してくれてる」


 私は慌てて姿勢を正した。


「初めまして。市影譚で記録と整理を担当しています、相沢ちづるです」


 男の人は、私を上から下まで見るようなことはしなかった。


 ただ、少しだけ表情を柔らかくした。


「ちづるちゃんね。可愛いね」


 私は一瞬、返事に困った。


 けれど、その言い方には嫌な感じがなかった。

 からかいでも、下心でもない。単に、場を柔らかくしようとした言葉に聞こえた。


 桂一さんが横から言った。


「その言い方、誤解されるよ」


「悪い悪い。変な意味じゃねぇよ」


 男の人は笑って、私に軽く頭を下げた。


「今日は変な場所に呼んで悪いな。怖がらせるつもりはねぇんだ」


 その一言で、少しだけ印象が変わった。


 見た目は怖い。

 でも、声の出し方は乱暴ではない。


 桂一さんが言った。


「で、何が起きてる?」


 男の人は、さっきまでの軽さを少しだけ消した。


 奥の部屋の方を見て、それから声を落とす。


「中で話す。女の子らが怖がってる」


 その言い方には、冗談がなかった。


 私たちは、古いマンションの一室へ入った。


 そこは、私が勝手に想像していた場所とは少し違っていた。


 ソファ。

 テーブル。

 冷蔵庫。

 電子レンジ。

 タオル棚。

 壁に貼られた出前リスト。

 ヨガマット。

 小さなダンベル。

 プロテイン。

 鉄分サプリ。

 女性事務員さんの机。


 奥の方から、小さな子どもの声がした。


 私は、思わずそちらを見た。


 男の人が言った。


「預け先が急にダメになった子がいてな。奥で動画見せてる」


 何でもないことのように言った。


 でも、その一言で、この部屋がただの怪しい場所ではないことが分かった。


 誰かが働いている場所。

 誰かが休む場所。

 誰かが戻ってくる場所。


 そして今、その場所で、何かが起きている。


 桂一さんは部屋を見回したあと、静かに言った。


「まず、怖がってる子の話を聞こう」


 男の人は頷いた。


 部屋の奥、浴室の方から、換気扇の低い音が聞こえていた。

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