case2 はじまり
その日、私はいつものように事務作業をこなしていた。
市影譚の仕事は、現場に行くことばかりではない。
むしろ、現場に行っていない時間の方がずっと長い。
領収書を日付順に並べる。
交通費と宿泊費を分ける。
撮影データの名前を変える。
録音ファイルに仮タイトルをつける。
桂一さんが現場で書き散らしたメモを、あとで読める形に直す。
机の上には、前回の調査で使った地図と、コンビニのレシートと、道の駅で買った地元菓子の空き箱が置かれていた。
桂一さんは向かいの席で、古い名刺を整理していた。
ただ、名刺を整理していると言っても、営業マンのように分類しているわけではない。
役場の人、猟友会の人、土建屋さん、商店会の人、漁協関係者、それから何の仕事なのか一見分からない人。
桂一さんは、そういう名刺を捨てずに残している。
使える人脈を管理している、というより、関係を雑に切らないために保管しているように見えた。
名刺の端に、小さく日付や場所を書き込んでいるものもある。
たぶん、どこで会った誰なのかを忘れないためだ。
私が領収書を束ねていると、桂一さんのスマートフォンが鳴った。
桂一さんは呼び出し画面をちらりと見て、手元にさっとメモ用紙を寄せた。
それから、スマートフォンを手に取る。
「仕事の電話ですか?」
「分からんが、たぶんロクな用じゃないだろうな」
そう言いながらも、桂一さんは楽しそうに微笑んでいた。
怖い話の相談が来た時の顔ではない。
古い知り合いから、面倒な頼みごとをされた時の顔だった。
「はい、水野です」
電話の向こうの声は、こちらまでは聞こえなかった。
ただ、相手の声が大きいのか、桂一さんが少しだけスマートフォンを耳から離した。
「久しぶり。生きてた?」
いきなり物騒な挨拶だった。
けれど、桂一さんの声は軽い。
「ああ、うん。そっちはまだ肩外れてない?」
私は思わず顔を上げた。
肩。
普通の仕事相手との会話では、あまり出てこない単語だった。
電話の向こうで、何か強めに言い返されたらしい。
桂一さんは、声を出さずに笑った。
「いや、あれは僕のせいじゃない。エレクトーンが重すぎただけ」
エレクトーン。
ますます分からない。
私はレシートを持ったまま、桂一さんを見た。
桂一さんは、メモ用紙に短く書いた。
古いマンション。
待機所。
夜。
浴室。
女の子が怖がる。
最後の単語で、空気が少し変わった。
冗談めいた表情が消えたわけではない。
けれど、桂一さんの目が、仕事の目になった。
「管理会社には?」
少し間があった。
「言いづらいか」
桂一さんは、ペン先でメモ用紙を軽く叩いた。
「分かった。見るだけ見る。現場を見ないと、何とも言えない」
また、電話の向こうで何か言われたらしい。
「借り? 僕が?」
桂一さんは少し笑った。
「じゃあ、その話は現場で聞くよ。場所送って」
通話はそこで終わった。
桂一さんはスマートフォンを机に置き、メモを見下ろした。
少しだけ、楽しそうな顔をしている。
「変な相談ですか?」
「うん。かなり」
「どんな人なんですか?」
桂一さんは、ペンを置いた。
「僕の数多くの知り合いの中でも、五本の指に入る変わり者だよ」
「五本の指」
「うん。悪い人ではない。むしろ、かなり筋は通ってる。ただ、見た目と仕事でだいぶ誤解される」
「仕事?」
桂一さんは、少しだけ間を置いた。
けれど、ぼかしはしなかった。
「男性向けに性的サービスを提供する女性を派遣する仕事」
私は、手に持っていた領収書を置いた。
「それって、もしかして」
「そう。派遣型風俗だね。その経営者」
また桂一さんの、不思議な縁がひとつ明らかになった。
この人は、本当に顔が広すぎる。
役場、猟友会、土建屋、漁協、商店会。
それだけでも十分よく分からないのに、今度は夜の街の経営者だった。
「どういうつながりですか?」
「昔、単発バイトで一緒になった」
「単発バイト」
「引っ越し系。古い家からエレクトーンを運び出す仕事」
「エレクトーン」
「階段の途中で、彼の肩が外れた」
「えっ」
「本人は今でも僕のせいみたいに言うけど、あれはエレクトーンが重すぎただけだよ」
「情報量が多いです」
「僕もそう思う」
桂一さんは、メモ用紙をこちらに向けた。
古いマンション。
待機所。
夜。
浴室。
女の子が怖がっている。
「場所が場所だから、嫌なら断っていい」
「嫌ではありません。ただ、少し緊張します」
「それでいい。初めて行く場所で緊張しない方が危ない」
そこで桂一さんは、少しだけ表情を緩めた。
「僕としては、めったに経験できない場所だから、同行することを勧めるけど。どうする?」
「行きます」
即答だった。
答えたあとで、私自身が少し驚いた。
もちろん、仕事だからという理由もある。
市影譚の記録担当として、見ておいた方がいい場所だとも思った。
でも、それだけではなかった。
桂一さんが気に入っている人。
もしかすると、親友に近いのかもしれない人。
そういう相手に会える機会は、思ったより少ない。
桂一さんは知り合いが多い。
けれど、自分からその人たちのことを深く話すことはあまりない。
だから私は、少しだけ思ってしまった。
面白そうだ、と。
「即答だね」
「はい。少し、自分でも意外です」
「じゃあ行こうか」
「はい」
私は領収書の束をクリップで留めた。
桂一さんは現場用のバッグを開ける。
録音機、ライト、マスク、手袋。
それから巻尺と、小さな工具入れ。
最後に検電器を入れた。
「工具も持っていくんですか?」
「古いマンションなら、念のため」
「何を見るんです?」
「音と匂いと水回り」
その答えは、怪談の相談へ向かう人のものではなかった。
でも、市影譚ではよくあることだった。
怖い話の入口は、たいてい現実のどこかに引っかかっている。
音。
匂い。
湿気。
換気。
配管。
誰かの生活。
外は夕方に近かった。
街へ向かう道は、少しずつ夜の色に変わっていく。
住宅街を抜けると、店の看板が増えた。
古いビルの窓に、明かりがつき始める。
コンビニの駐車場には、仕事帰りの車が並んでいた。
飲食店の換気扇から、油の匂いが流れてくる。
山の現場とは違う。
足元に土はない。
枝が車体をこすることもない。
けれど、街には街の暗さがある。
古いマンションは、歓楽街から少し外れた場所にあった。
一階には、閉まったままのテナントと、小さな飲食店。
上には住居と事務所が混ざっているようだった。
入口のタイルは古く、エレベーターの前には消臭剤の匂いがした。
桂一さんがインターホンを押す前に、内側から扉が開いた。
出てきたのは、大柄な男の人だった。
首元から見えるタトゥー。
短く刈った髪。
厚い肩。
黒いTシャツの上からでも分かる体格。
正直に言えば、私は一瞬だけ身構えた。
その人は、私を見ると少し目を細めた。
「桂一」
「久しぶり」
「本当に来たのかよ」
「呼んだのはそっちだろ」
桂一さんは、まったく怖がっていなかった。
むしろ、昔から知っている相手に会ったような顔をしている。
男の人は、桂一さんの肩のあたりを見て、少し嫌そうに笑った。
「相変わらず細いな」
「そっちは前より食べてそうだね」
「もう言うなよ。飯食えてなかったあの頃とは違うよ」
「あれから肩は外れてないか?」
「だから言うなって」
二人の会話は、気さくだった。
私だけが、状況に追いついていなかった。
桂一さんは、そこで私を振り返った。
「相沢、紹介するよ。市影譚で記録を担当してくれてる」
私は慌てて姿勢を正した。
「初めまして。市影譚で記録と整理を担当しています、相沢ちづるです」
男の人は、私を上から下まで見るようなことはしなかった。
ただ、少しだけ表情を柔らかくした。
「ちづるちゃんね。可愛いね」
私は一瞬、返事に困った。
けれど、その言い方には嫌な感じがなかった。
からかいでも、下心でもない。単に、場を柔らかくしようとした言葉に聞こえた。
桂一さんが横から言った。
「その言い方、誤解されるよ」
「悪い悪い。変な意味じゃねぇよ」
男の人は笑って、私に軽く頭を下げた。
「今日は変な場所に呼んで悪いな。怖がらせるつもりはねぇんだ」
その一言で、少しだけ印象が変わった。
見た目は怖い。
でも、声の出し方は乱暴ではない。
桂一さんが言った。
「で、何が起きてる?」
男の人は、さっきまでの軽さを少しだけ消した。
奥の部屋の方を見て、それから声を落とす。
「中で話す。女の子らが怖がってる」
その言い方には、冗談がなかった。
私たちは、古いマンションの一室へ入った。
そこは、私が勝手に想像していた場所とは少し違っていた。
ソファ。
テーブル。
冷蔵庫。
電子レンジ。
タオル棚。
壁に貼られた出前リスト。
ヨガマット。
小さなダンベル。
プロテイン。
鉄分サプリ。
女性事務員さんの机。
奥の方から、小さな子どもの声がした。
私は、思わずそちらを見た。
男の人が言った。
「預け先が急にダメになった子がいてな。奥で動画見せてる」
何でもないことのように言った。
でも、その一言で、この部屋がただの怪しい場所ではないことが分かった。
誰かが働いている場所。
誰かが休む場所。
誰かが戻ってくる場所。
そして今、その場所で、何かが起きている。
桂一さんは部屋を見回したあと、静かに言った。
「まず、怖がってる子の話を聞こう」
男の人は頷いた。
部屋の奥、浴室の方から、換気扇の低い音が聞こえていた。




