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市影譚-短編シリーズ  作者: 鳥ノ木剛士


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市影譚-EP0【罠猟の荷運びバイト】公開前夜

 相沢が作った見出しは、そのまま残った。


 Case 001

 罠猟の荷運びバイト


 桂一は、それを見ながら、少しだけ落ち着かない気分になっていた。


 番号を振る。


 それだけで、あの出来事が市影譚の中に置かれてしまう。


 置かれてしまえば、もう個人的な記憶ではなくなる。読者が読み、誰かが考え、どこかで話題にする可能性が出てくる。


 だからこそ、扱い方を間違えてはいけない。


 相沢はノートパソコンの画面を見ながら、古い記事を読み直していた。


「この初期記事、やっぱり短いですね」


「当時は、長く書くつもりがなかったから」


「でも、短いから逆に怖いです」


「そう?」


「はい。言いたくないことがある感じがします」


 桂一は何も言わなかった。


 その通りだった。


 あの時の記事は、注意喚起の形をした沈黙だった。


 相沢は画面をスクロールしながら、いくつかの文を別のメモに移していく。


「残すところと、消すところを分けます」


「うん」


「まず、場所はもっとぼかします。宮城県北部の山側、くらいで止めます」


「林道名は出さない」


「もちろんです。沢の名前も、近くの施設も出しません」


「写真は?」


「古い記事に載っている林道写真は外します。雰囲気はありますけど、分かる人が見れば分かりそうです」


 相沢は淡々と言った。


 怖い話を聞いた後で、こうやって実務に戻れるところが彼女らしかった。


 けれど、感情がないわけではない。


 相沢は時々、キーボードに置いた指を止める。

 それから、一文だけをじっと見る。


 たぶん、怖がっている。


 ただ、その怖さをそのまま外に出さない。


 紙の上に置いて、少しずつ扱える形にしている。


「罠猟の具体的な説明は、どこまで残しますか?」


「真似できるほどは書かない方がいい」


「ですよね。免許や許可、管理者の話は入れます。でも、罠そのものの構造や位置の読み方は削ります」


「うん」


「あと、獣の処理についても、具体的な手順は書きません」


「それでいい」


 相沢はメモに「模倣防止」と書いた。


 その文字を四角で囲む。


「それから、佐原さんのこと」


「名前は出さない」


「猟友会関係者、で統一します」


「年齢もぼかして」


「はい」


 相沢は一度、手を止めた。


「でも、佐原さんの言葉は少し残したいです」


「どれ?」


「名前をつけるな、です」


 桂一は、少しだけ目を伏せた。


 佐原の声が戻ってくる。


 名前をつけると、頭の中で飼うことになる。


「あれは、残していいと思います」


 相沢は言った。


「怪異を断定しない、という市影譚の方針にもつながりますし、読者にも分かりやすいです」


「佐原さんが嫌がるかもしれない」


「その場合は、言い回しを変えます」


「例えば?」


 相沢は少し考えた。


「山で見たものに、すぐ名前をつけない。獣、怪物、幽霊、人影。そう決めつけた瞬間に、判断を間違えることがある」


 桂一は頷いた。


「それならいい」


「佐原さん本人の言葉としては出しません」


「うん」


 相沢はさらに書き進めた。


 桂一は、その横で古いメモを開いた。


 当時の走り書きだった。


 罠。

 荷運び。

 イノシシ。

 佐原。

 役場?


 そして、丸で囲まれた言葉。


 そう聞いてる。


 その文字を見た瞬間、桂一は当時の部屋の空気を思い出した。


 まだ何も知らなかった午後。


 佐原からの電話。


 白く曇った空。


 直売所の写真。


 そこから、あの林道へ行った。


 たった一件の単発仕事のように見えて、その後の人生の向きが少し変わった。


 桂一はメモを閉じた。


「相沢」


「はい」


「この記事、公開する前に佐原さんへ送る」


「確認ですか?」


「うん。名前は出さないけど、関係者だから」


「そうですね。その方がいいです」


 相沢はすぐに頷いた。


 市影譚では、現地を壊さないことを優先する。


 そのためには、書く内容以上に、書く前の確認が大事になる。


 相沢が来てから、その部分はずいぶん整理された。


 昔の桂一なら、個人判断で伏せればそれでいいと思っていた。今は違う。伏せたつもりでも、現地の人が読めば分かることがある。関係者が不安になる書き方もある。


 怖いものを扱う前に、人間関係を壊さない。


 それが、市影譚の仕事になっていた。


「じゃあ、公開前確認用に整えます」


「お願い」


「佐原さん、メール見ます?」


「たぶん見ない」


「じゃあ、印刷ですか?」


「紙の方がいい」


「ですよね」


 相沢は、少し笑った。


「市影譚、結局いつも紙ですね」


「紙は逃げないから」


「データも逃げませんよ」


「消える」


「それは管理の問題です」


「耳が痛い」


 相沢は、そこで少しだけ表情を緩めた。


 部屋の空気が、わずかに日常へ戻る。


 雨はまだ降っていた。


 窓の外で、車が一台通り過ぎる。濡れた道路をタイヤが踏む音がした。


 相沢は印刷用の原稿を整え始めた。


 見出し、本文、注意書き、公開しない情報のメモ。


 最後に、赤字でこう入れる。


 ※場所特定につながる情報は削除済み。

 ※猟具・処理手順の詳細は記載しない。

 ※現地への立ち入りを促す意図はない。

 ※関係者確認後、公開判断。


 桂一はそれを見て頷いた。


「いいね」


「怖くないですか?」


「怖いよ」


「記事として」


「記事としては、怖すぎない。そこがいい」


 相沢は少し安心したようだった。


 それから、公開版の冒頭を読み上げる。


「山で捕まるのは、獣だけとは限らない。けれど、そう思って山へ入る人が増えるなら、この文章は失敗です」


 桂一は、顔を上げた。


「それ、いい」


「強すぎます?」


「いや、市影譚らしい」


 相沢はそのまま続けた。


「この記録は、山に入るための案内ではありません。立入禁止の理由を疑うための材料でもありません。むしろ逆です。理由がすべて書かれていない場所ほど、近づかない方がいい場合があります」


 桂一は黙って聞いていた。


 自分一人では、たぶんこうは書けなかった。


 桂一が書くと、どうしても現場の記録になる。

 相沢が入ると、読者への戻し方が加わる。


 それは、市影譚がただの怪談サイトにならずに済んでいる理由の一つだった。


「いいと思う」


「本当に?」


「うん」


「じゃあ、この方向で整えます」


 相沢はもう一度、文章を読み返した。


 その横で、桂一はスマートフォンを手に取った。


 佐原へ電話をかける。


 呼び出し音が数回鳴った。


 出ないかもしれないと思ったところで、通話がつながった。


「何だ」


 佐原の声は、相変わらず短かった。


「水野です」


「表示で分かる」


「すみません」


「どうした」


 桂一は、少しだけ間を置いた。


「前に話した、罠猟の荷運びの件です」


 電話の向こうが、静かになった。


 佐原はすぐには答えなかった。


「今さら何だ」


「市影譚の記事として、書き直そうと思っています」


「やめとけ」


 返事は早かった。


 桂一は予想していた。


「場所は出しません。佐原さんの名前も出しません。罠や処理の具体的な手順も書きません」


「だったら何を書く」


「立入禁止には、書かれない理由もあるということです」


 佐原は黙った。


 桂一は続けた。


「あと、山で見たものに、勝手に名前をつけないこと」


 電話の向こうで、佐原が小さく息を吐いた。


「俺が言ったやつか」


「そのままは書きません」


「書くな」


「はい。考え方だけです」


「……誰が読むんだ」


「市影譚の読者です」


「物好きだな」


「そうですね」


「お前もな」


「はい」


 相沢が横で、声を出さずに笑った。


 桂一は少しだけ肩の力を抜いた。


 佐原の声は不機嫌だったが、怒ってはいなかった。


「紙で持ってきます」


「メールで送れ」


「見ますか?」


「見ねぇ」


「じゃあ、紙で」


「勝手にしろ」


「ありがとうございます」


「礼を言われることじゃねぇ」


 佐原はそこで一度黙った。


 それから、低い声で言った。


「水野」


「はい」


「灰島のことは書くな」


「書きません」


「名刺も」


「書きません」


「十五桁も」


 桂一は、少しだけ目を細めた。


 佐原は、やはり知っていた。


「書きません」


「ならいい」


「佐原さん」


「何だ」


「あの名刺、佐原さんも持っているんですか」


 電話の向こうで、少しだけ間があった。


「持ってた」


「過去形ですか」


「燃やした」


 桂一は黙った。


 相沢も、手を止めた。


「燃やしていいものなんですか」


「燃えたからいいんだろ」


 佐原はそう言った。


 いつものように雑な言い方だった。


 けれど、その奥に何かがあった。


「でも、番号は覚えてるんですね」


「忘れようとしても、忘れねぇ数字ってのがある」


 佐原は、そこで話を切るように咳払いをした。


「公開するなら、俺に紙を見せてからにしろ」


「分かりました」


「あと、水野」


「はい」


「若い連中には、山で変なのがあったらお前に連絡しろとは言ってある」


 桂一は思わず言葉を失った。


「……僕にですか」


「俺も歳だ」


「いや、そういう問題じゃ」


「灰島に直で行くよりは、お前の方がまだいい」


「よくないです」


「よくはねぇな」


 佐原は、少しだけ笑ったようだった。


 笑い声にはならなかった。


「でも、お前は見なかったことにできねぇだろ」


 桂一は答えられなかった。


 その通りだったからだ。


「だから、紙にしろ」


「紙に?」


「お前ら、そういうの得意なんだろ」


 桂一は相沢を見た。


 相沢は黙っていた。


 けれど、その目はもう、次に作るべき用紙を考えている目だった。


 観測。

 連絡。

 撤退。

 触らない。

 名前をつけない。


 たぶん、そういう紙になる。


「分かりました」


 桂一は言った。


「ただし、危険なものは僕だけで判断しません」


「それでいい」


「警察や役場に回すべきものは回します」


「それでいい」


「灰島には、できる限りかけません」


「それが一番いい」


 佐原は、そこで声を落とした。


「用がある時ってのはな、用ができてからじゃ遅い時が多い」


 桂一は、言葉の意味を考えた。


 佐原は続けない。


「紙、持ってこい。読んでやる」


「ありがとうございます」


「相沢って子にも言っとけ」


「はい」


「怖がらせるな。けど、軽くもするな」


 桂一は少しだけ笑った。


「本人が、いつもそう言ってます」


「ならいい」


 通話は切れた。


 桂一はスマートフォンを置いた。


 相沢は、しばらく黙っていた。


「佐原さん、私のこと知ってるんですか」


「たぶん、知ってる」


「会ったこと、ありましたっけ」


「遠目にはあるかも」


「遠目」


「佐原さん、そういう人だから」


 相沢は少し複雑そうな顔をした。


「怖がらせるな。けど、軽くもするな」


 そう繰り返す。


「いい言葉ですね」


「うん」


「紙にします」


「何を?」


「山で“変なもの”があった時の初動用紙です」


 桂一は苦笑した。


「早いね」


「必要です」


 相沢はすでに新しいページを開いていた。


 タイトルを書く。


 山中で説明困難なものを見つけた場合の初動メモ。


 桂一は画面を覗き込んだ。


「公開用?」


「いえ。まず内部用です。猟友会や現場関係者に渡すなら、もっと言葉を変えます」


「どんな項目?」


 相沢は読み上げた。


「一、近づかない」


「うん」


「二、触らない」


「大事」


「三、名前をつけない」


「入るんだ」


「入れます」


 相沢は続けた。


「四、写真を撮らない。撮る場合は、安全確認後、遠景のみ」


「現場向けなら、撮らないでいいかも」


「そうですね。模倣防止もありますし」


 相沢はすぐに修正した。


「五、位置情報を不用意に共有しない」


「うん」


「六、単独で判断しない」


「それも必要」


「七、撤退経路を確保する」


「市影譚っぽい」


「八、子どもや見物人を近づけない」


「現実的」


「九、関係先へ連絡」


 相沢はそこで手を止めた。


「関係先、どう書きます?」


 桂一も考えた。


 警察。

 役場。

 猟友会。

 所有者。

 そして、灰島。


 灰島は書けない。


「表向きは、警察・役場・管理者」


「市影譚内部用には?」


 桂一は少し迷った。


「灰島とは書かない」


「では?」


「十五桁、とも書かない」


「はい」


「“指定連絡先”くらいで」


 相沢は頷いた。


 指定連絡先。


 それが何を指すのか、外からは分からない。


 でも、内部では分かる。


 市影譚には、そういう言葉が少しずつ増えていくのだろう。


 工事中止案件。

 山のもの。

 白い粉。

 指定連絡先。

 見なかったこと。


 言葉は、分類のためにある。


 けれど、分類しすぎると、名前になってしまう。


 その境目が難しい。


 桂一は、相沢が書いた項目を眺めた。


 怖い話だったものが、少しずつ手順になっていく。


 それは、恐怖を消す作業ではない。


 恐怖で動けなくならないための作業だった。


「相沢」


「はい」


「これ、いつか市影譚の基本になるかもしれない」


「そう思って作ってます」


 相沢は即答した。


 桂一は少し驚いた。


「早いね」


「桂一さんが見に行ってしまう人だからです」


「そんなに?」


「そんなにです」


 相沢は、淡々と言った。


「だから、戻るための紙が必要です」


 桂一は返す言葉がなかった。


 雨の音はまだ続いていた。


 机の上では、第一話の原稿と、初動用紙の下書きが並んでいる。


 片方は記録。

 もう片方は手順。


 見てしまったものを残す紙と、次に誰かが近づきすぎないための紙。


 その二つが並んだ時、桂一はようやく、市影譚というものが少し分かった気がした。


 これは、怪異を追う活動ではない。


 怪異に触れたあと、人間側へ戻るための活動なのだ。


 相沢は、初動用紙の一番下に小さく書いた。


 ――怖がるより、扱う。


 桂一はそれを見て、何も言わなかった。


 その言葉は、たぶん相沢のものだった。


 けれど、市影譚に必要な言葉でもあった。


 公開前夜の作業は、日付が変わる少し前まで続いた。


 原稿はまだ完成していない。


 佐原にも見せなければならない。


 公開できない部分は多い。


 書けることは少ない。


 それでも、何も書かないよりはいい。


 見なかったことにされたものを、見なかったことにしないために。


 ただし、現地を壊さない形で。


 相沢は最後に、第一話の冒頭へ一文を足した。


 桂一がそれを読む。


 山で捕まるのは、獣だけとは限らない。

 けれど、それを確かめに行ってはいけない。


 桂一は、ゆっくり頷いた。


「これでいこう」


 相沢は、静かに保存ボタンを押した。


 画面の端に、保存しました、という小さな表示が出る。


 その小さな表示を見て、桂一はなぜか少し安心した。


 全部ではない。

 でも、残った。


 雨は夜更けまで続いた。


 山の方から来た雨は、街の屋根を濡らし、道路を濡らし、作業部屋の窓を細かく叩いていた。


 その音を聞きながら、桂一はふと思った。


 あの日、山から下ろしたものは、どこへ行ったのだろう。


 答えは出なかった。


 出さない方がいい答えもある。


 相沢が作った初動用紙の一番上には、こう書かれていた。


 近づかない。

 触らない。

 名前をつけない。


 桂一はその三行を見て、静かに画面を閉じた。

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