表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
市影譚-短編シリーズ  作者: 鳥ノ木剛士


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/29

市影譚-EP0【罠猟の荷運びバイト】熊の危険性増大

 市の公式サイトに出た知らせは、短かった。


 山間部林道の一部立入制限について。


 見出しはそれだけだった。


 本文には、熊の目撃情報が増加していること、周辺住民と入山者の安全確保のため、一部林道への立ち入りを当面制限すること、関係者以外は立ち入らないことが書かれていた。


 地図も添付されていた。


 ただし、縮尺は荒かった。


 林道名は書かれていない。

 沢の名前もない。

 目印になる施設もぼかされている。


 知らない人が見れば、山のどこかが危ないのだろう、で終わる。


 知っている人が見れば、分かる。


 あの場所だった。


 桂一は、パソコンの画面をしばらく見ていた。


 熊の危険性増大。


 嘘ではない。


 実際、その年は熊の目撃情報が増えていた。防災メールにも何度も流れていたし、農地の被害もあった。山菜採りの人が遭遇したという話も聞いていた。


 だから、その理由は通る。


 誰も疑わない。


 疑う必要もない。


 役場に問い合わせても、おそらく同じ答えが返ってくる。


 熊の危険性が増大しているため、安全確保を目的に立ち入りを制限しています。


 それ以上はない。


 それ以上を聞く人間は、少ない。


 桂一は、記事の追記欄を開いた。


 あの日に書いた「罠猟の荷運びバイト」の記事だ。


 最後に、立入制限の告知が出たことを追記する。


 林道奥には入らないこと。

 熊の目撃情報が増えていること。

 罠や処理現場には絶対に近づかないこと。

 行政と猟友会の判断に従うこと。


 書きながら、桂一は何度も手を止めた。


 本当に書きたいことは、それではなかった。


 だが、本当に書きたいことは書けない。


 書いても、誰も得をしない。


 場所が特定される。

 面白半分で探す人間が出る。

 地元に迷惑がかかる。

 佐原が疑われる。

 役場に問い合わせが行く。

 山へ入る人間が増える。


 それだけは避けなければならない。


 だから、桂一は書いた。


 山は危険です。

 立入禁止には理由があります。

 現場へ行かないでください。


 それは正しい。


 正しいが、足りない。


 足りないことが分かっていて、正しいことだけを書く。


 桂一は、その感覚を嫌だと思った。


 だが、その嫌さも含めて、現実だった。


 記事を更新したあと、桂一は灰島の名刺を引き出しから出した。


 薄い灰色の紙。


 所属も肩書きもない。


 名字がひとつ。


 その下に、数字が一列。


 桂一はその数字を数えようとして、途中でやめた。


 数えたところで、何かが分かるわけではない。


 電話番号に見える。

 だが、電話番号ではないようにも見える。


 連絡先に見える。

 だが、連絡してはいけないものに見える。


 用がある時だけ。


 灰島の声がよみがえる。


 用がないなら、用を作らないことです。


 桂一は名刺を裏返した。


 裏には何も書かれていない。


 紙の質だけが、妙に記憶に残った。


 普通の名刺より少し薄い。

 だが、安っぽくはない。

 水に濡れても破れにくそうな、事務用品とも違う手触りだった。


 桂一は、名刺を名刺入れにしまわなかった。


 仕事相手の名刺と一緒にしてはいけない気がした。


 封筒の一万円とも、七桁の振込記録とも違う場所。


 机の一番下の引き出し。


 古い地図と、使わなくなった通行許可証のコピーと、何度か現場で拾ったが記事には使わなかった紙片。


 その間に挟んだ。


 それからしばらく、桂一は山の仕事を減らした。


 完全にやめたわけではない。


 山道の確認や、林道入口の撮影、役場の告知の整理は続けた。猟友会関係の知人とも、連絡は取った。熊の目撃情報が出れば記事にもした。


 ただ、罠に近づく仕事は避けた。


 依頼が来ても、理由をつけて断った。


 忙しい。

 別件がある。

 体調が悪い。

 その日は車を出せない。


 嘘ではない時もあった。

 嘘の時もあった。


 佐原は、何も言わなかった。


 一度だけ、電話でこう言った。


「それでいい」


 桂一が何も答えずにいると、佐原は続けた。


「近づかなくていいものもある」


 それだけだった。


 その言葉に、桂一は少し救われた。


 同時に、少しだけ腹も立った。


 近づかなくていいものなら、なぜあの日、自分を呼んだのか。


 その疑問は、ずっと残った。


 だが、たぶん佐原にも答えはなかった。


 経験しとけ。


 佐原はそう言った。


 あれは、助言だったのか。

 警告だったのか。

 引き継ぎだったのか。


 桂一には、今でも分からない。


 その後、市影譚は少しずつ形を変えていった。


 地域の仕事ブログとして始めたものが、いつの間にか、説明しきれない現場の記録になっていった。


 怪談を書こうと思ったわけではない。


 むしろ、怪談にしないために書いていた。


 場所を伏せる。

 関係者を守る。

 断定しない。

 危険な場所へ人を行かせない。

 分かることと、分からないことを分ける。


 そうしているうちに、読者が増えた。


 地元の人から連絡が来るようになった。


 役場関係者らしき人から、匿名で情報が届くこともあった。


 猟友会、土建屋、漁協、消防団、商店街。


 桂一の周りに、少しずつ“知っているが話さない人たち”が増えていった。


 そのたびに、桂一は思い出した。


 ブルーシート。

 白い石灰。

 防護服。

 黒いキャラバン。

 灰島の名刺。


 あの日、自分は何かを始めたのではない。


 すでにあったものの端に、触れてしまっただけなのだと。


 そう思うようになった。


 そして、何年か後。


 相沢が市影譚に来た。


 ワトソン、募集してませんか。


 そんな変な問い合わせから始まった。


 相沢は、桂一の記事をよく読んでいた。


 よく読んでいたからこそ、桂一が書いていない部分に気づいた。


 罠猟の荷運びバイト。


 その記事を、相沢が開いた時点で、桂一はいつかこの話をすることになると分かっていた。


 ただ、思っていたより早かった。


 そして、思っていたより、相沢は静かに聞いた。


 桂一がそこまで話し終えた時、作業部屋の外はすっかり暗くなっていた。


 窓ガラスには、部屋の中の明かりが映っている。


 机の上には、ノートパソコン、地図、何枚かの名刺、相沢のメモ、冷めたカップ。


 相沢は、しばらく何も言わなかった。


 怖がっている、というより、頭の中で分類している顔だった。


 近い。

 似ている。

 不一致。


 そうやって、どこに置けばいいのかを探している。


 桂一は、その顔を見て少しだけ安心した。


 相沢は怖がりすぎない。

 でも、軽くもしない。


 そこが、市影譚には必要だった。


「それで」


 相沢が、ようやく口を開いた。


「その記事には、ここまで書かなかったんですね」


「書けなかった」


「灰島さんのことも?」


「書けない」


「防護服の人たちも?」


「書けない」


「腕みたいなものを見たことも?」


「書かない方がいい」


 相沢は頷いた。


 納得したというより、書けない理由を理解した顔だった。


「でも、完全に伏せたわけでもない」


「うん」


「だから、あの一文なんですね」


 相沢はノートパソコンの画面を見た。


 袋の中身については、確認していない。


 桂一は苦笑した。


「ずるい書き方だろ」


「正確ではあります」


「全部ではない」


「でも、嘘ではない」


「そういうのが、一番よくない時もある」


 桂一はカップを持ち上げた。


 中身はもう冷めていた。


「でも、あの時はそれしか書けなかった」


 相沢は、少しだけ考えた。


「私は、分かります」


「何が?」


「全部書かないことが、逃げじゃない場合もあるんだなって」


 桂一は、相沢を見た。


 相沢はノートに視線を落としていた。


「怖いから伏せるんじゃなくて、現地を壊さないために伏せる。見た人を増やさないために伏せる。触ってはいけないものに、名前をつけないために伏せる」


 相沢は、そこまで言ってから少し笑った。


「……言い方、合ってます?」


「合ってる」


 桂一は答えた。


「かなり」


 相沢は、ほっとしたように息を吐いた。


 それから、少しだけ迷う顔をした。


 桂一には、次に何を聞かれるか分かった。


 名刺だ。


 相沢は、必ずそこに戻ってくる。


「桂一さん」


「うん」


「その名刺って、まだあるんですか」


 桂一は、すぐには答えなかった。


 ある。


 今も、机の下の引き出しにある。


 だが、出すべきかは別だった。


 見せることで、相沢を少しだけ向こう側に近づけてしまう気がした。


 けれど、相沢はすでに市影譚の人間だった。


 現場には出ている。

 記録もしている。

 怖さを扱う側にいる。


 隠し続けることも、少し違う。


 桂一は、静かに椅子を引いた。


 机の一番下の引き出しを開ける。


 古い地図。

 通行許可証のコピー。

 現場で拾ったが使わなかった紙片。

 封筒に入れた写真。

 そして、灰色がかった名刺。


 桂一はそれを取り出した。


「これが、その時もらった名刺」


 相沢は、両手で受け取った。


 紙を見る時の相沢は、いつも少し真剣になる。


 文章、図版、レシート、掲示案、領収書。どんな紙でも、そこに何が残っているかを見ようとする。


 名刺にも、同じように目を落とした。


「灰島」


 相沢が小さく読んだ。


「名前だけなんですね」


「そう」


「所属なし。肩書きなし」


「うん」


「電話番号……みたいな数字だけ」


 相沢は、そこで眉を寄せた。


 指先を名刺の上に置かず、空中で数字を数える。


 一度目。


 少し首を傾げる。


 二度目。


 今度は、唇だけが小さく動いた。


 そして、顔を上げた。


「……これ、十五桁ありません?」


 桂一は頷いた。


「あるね」


「電話番号、じゃないですよね」


「電話番号だなんて思わないだろ?」


 桂一は、少しだけ笑った。


 笑ってから、自分でもあまり笑える話ではないと思った。


「番号として最大の十五桁。おそらく、決して間違いでもかかってこないようにしているんだろうね」


 相沢は名刺を見つめた。


「間違い電話がかかってこないように」


「うん」


「でも、用がある人は、かけられる」


「そういうものなんだと思う」


「……怖いですね」


「怖いね」


 桂一は素直に認めた。


 相沢は、少し意外そうな顔をした。


「桂一さんが、怖いって言うの珍しいですね」


「怖いものは怖いよ」


「怪異が?」


「いや」


 桂一は名刺を見た。


「こういうものを用意している人間社会が」


 相沢は黙った。


 それから、ゆっくりと名刺を桂一へ返した。


 桂一は受け取ったが、すぐにはしまわなかった。


 机の上に置く。


 灰島。

 数字。

 所属なし。


 名刺は、ただの紙に戻ったようにも見えた。


 だが、ただの紙ではない。


 相沢は、少し迷ってから聞いた。


「かけてみたことはあるの?」


 その問いは、ほとんど反射だったのだと思う。


 聞いた直後、相沢自身も、聞いてよかったのか分からない顔をした。


 桂一はすぐには答えなかった。


 カップの縁に口をつける手前で、ほんの少しだけ動きを止めた。


 その一瞬、部屋の音が消えたように感じた。


「……一度だけ」


 桂一は言った。


「ブログには載せてないけどね」


 相沢は、何かを聞きかけて、やめた。


「えっと……そっか」


「うん」


 桂一はカップを口に運んだ。


 冷めたコーヒーは、あまり味がしなかった。


「その時も」


 相沢が小さく言った。


「何か、捕まったんですか」


 桂一はカップを置いた。


 相沢はすぐに続けた。


「あ、答えなくて大丈夫です」


 桂一は少しだけ笑った。


 その気遣いが、相沢らしかった。


「相沢」


「はい」


「狩猟にオフシーズンがあるには理由があるってことだ」


 相沢は、最初その意味を考えていた。


 数秒後、表情が変わった。


 理解した、というより、理解してはいけない方向に少しだけ触れた顔だった。


「……それ、ブログには」


「載せない」


「ですよね」


「載せられない」


 桂一は名刺を手に取った。


「それに、僕も全部を知っているわけじゃない」


「でも、番号にはかけた」


「一度だけ」


「灰島さんが出たんですか」


 桂一は答えなかった。


 答えないことが、答えだった。


 相沢はそれ以上聞かなかった。


 ただ、ノートの端に短く書いた。


 十五桁。

 灰島。

 用がある時だけ。

 用がないなら、用を作らない。


 桂一は、そのメモを見た。


「相沢」


「はい」


「それは、公開用にはしないで」


「もちろんです」


「あと」


 桂一は名刺を引き出しへ戻した。


「絶対に、かけちゃいけないよ」


 相沢は真面目に頷いた。


「はい」


「用がない場合は、関わっちゃいけない世界だから」


 引き出しが閉まる音は、小さかった。


 けれど相沢には、それが山の扉を閉める音のように聞こえたのかもしれない。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


 外では、雨が降り始めていた。


 作業部屋の窓に、細かい水滴がつく。


 相沢はノートを見下ろし、ペンを持ち直した。


 そして、ページの下に一行だけ書いた。


 電話番号ではない。

 連絡先でもない。

 境界の印。


 桂一は、それを見て何も言わなかった。


 市影譚では、分からないものを無理に分かったことにはしない。


 分からないまま、紙に置く。


 その紙が、誰かを少しだけ現実側へ戻すことがある。


 相沢が来てから、桂一はそれを何度か見てきた。


 だから、この話もいつか紙に置かなければならないのだと思った。


 全部ではない。


 でも、何もなかったことにはしない。


 見なかったことにされた現実を、見なかったことにしないために。


 ただし、現地を壊さない形で。


 怖がらせるためではなく、扱うために。


 桂一は、ノートパソコンをこちらへ向けた。


「相沢」


「はい」


「この記事、今の市影譚用に直すなら、どうする?」


 相沢は少し驚いた顔をした。


 それから、すぐに仕事の顔になった。


「まず、場所は今よりぼかします」


「うん」


「罠猟の具体手順も、真似されない程度に削ります」


「そうだね」


「でも、山に入らない理由は強めに書きます。熊だけじゃなくて、立入禁止には“書けない理由も含まれる”ってニュアンスで」


 桂一は頷いた。


「いいと思う」


「あと、最後に注意書きを入れます」


「どんな?」


 相沢は少し考えた。


「山で見たものに、勝手に名前をつけないこと。写真を撮りに行かないこと。誰かの沈黙を、臆病だと決めつけないこと」


 桂一は、しばらく黙っていた。


「それ、いいね」


「本当ですか」


「うん。佐原さんにも読ませたいくらいだ」


 相沢は少し笑った。


「怒られません?」


「たぶん、黙って読む」


「それは怒ってるんですか?」


「佐原さんの場合、黙って読むのは、だいたい認めてる時だよ」


 相沢は、ようやく少しだけ表情を緩めた。


 怖い話を聞いた後でも、仕事に戻れる。


 それは、相沢の強さだった。


 怪異に強いのではない。

 怖さを、紙の上に戻せる。


 桂一は、そう思った。


 雨の音が少し強くなった。


 作業部屋の蛍光灯が、机の上の紙を白く照らしている。


 相沢は新しいページを開き、見出しを書いた。


 罠猟の荷運びバイト。


 その下に、小さく副題をつける。


 ――山で捕まるのは、獣だけとは限らない。


 桂一はそれを見て、少しだけ苦笑した。


「煽りすぎじゃない?」


「これくらいは、入口として必要です」


「市影譚っぽい?」


「怖がらせすぎないように本文で戻します」


「なるほど」


 相沢はペンを置き、桂一を見た。


「桂一さん」


「うん」


「これが、始まりだったんですね」


 桂一は、少し考えた。


 始まり。


 そう言われると、少し違う気もした。


 あれは、始まりというより、すでに続いていたものに気づいた日だった。


 だが、市影譚にとっては、確かに始まりだったのかもしれない。


 怪異を信じるようになった日。


 怪異よりも、それを処理する社会の方が怖いと知った日。


 そして、自分がそれを見なかったことにできないと分かった日。


「そうだね」


 桂一は言った。


「あの日から、市影譚になったのかもしれない」


 相沢は、静かに頷いた。


 そして、ノートの一番上にもう一度、丁寧な字で書いた。


 市影譚。


 その下に、こう続けた。


 Case 001

 罠猟の荷運びバイト


 雨は、まだ降っていた。


 山の方から来た雨だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ