市影譚-EP0【罠猟の荷運びバイト】熊の危険性増大
市の公式サイトに出た知らせは、短かった。
山間部林道の一部立入制限について。
見出しはそれだけだった。
本文には、熊の目撃情報が増加していること、周辺住民と入山者の安全確保のため、一部林道への立ち入りを当面制限すること、関係者以外は立ち入らないことが書かれていた。
地図も添付されていた。
ただし、縮尺は荒かった。
林道名は書かれていない。
沢の名前もない。
目印になる施設もぼかされている。
知らない人が見れば、山のどこかが危ないのだろう、で終わる。
知っている人が見れば、分かる。
あの場所だった。
桂一は、パソコンの画面をしばらく見ていた。
熊の危険性増大。
嘘ではない。
実際、その年は熊の目撃情報が増えていた。防災メールにも何度も流れていたし、農地の被害もあった。山菜採りの人が遭遇したという話も聞いていた。
だから、その理由は通る。
誰も疑わない。
疑う必要もない。
役場に問い合わせても、おそらく同じ答えが返ってくる。
熊の危険性が増大しているため、安全確保を目的に立ち入りを制限しています。
それ以上はない。
それ以上を聞く人間は、少ない。
桂一は、記事の追記欄を開いた。
あの日に書いた「罠猟の荷運びバイト」の記事だ。
最後に、立入制限の告知が出たことを追記する。
林道奥には入らないこと。
熊の目撃情報が増えていること。
罠や処理現場には絶対に近づかないこと。
行政と猟友会の判断に従うこと。
書きながら、桂一は何度も手を止めた。
本当に書きたいことは、それではなかった。
だが、本当に書きたいことは書けない。
書いても、誰も得をしない。
場所が特定される。
面白半分で探す人間が出る。
地元に迷惑がかかる。
佐原が疑われる。
役場に問い合わせが行く。
山へ入る人間が増える。
それだけは避けなければならない。
だから、桂一は書いた。
山は危険です。
立入禁止には理由があります。
現場へ行かないでください。
それは正しい。
正しいが、足りない。
足りないことが分かっていて、正しいことだけを書く。
桂一は、その感覚を嫌だと思った。
だが、その嫌さも含めて、現実だった。
記事を更新したあと、桂一は灰島の名刺を引き出しから出した。
薄い灰色の紙。
所属も肩書きもない。
名字がひとつ。
その下に、数字が一列。
桂一はその数字を数えようとして、途中でやめた。
数えたところで、何かが分かるわけではない。
電話番号に見える。
だが、電話番号ではないようにも見える。
連絡先に見える。
だが、連絡してはいけないものに見える。
用がある時だけ。
灰島の声がよみがえる。
用がないなら、用を作らないことです。
桂一は名刺を裏返した。
裏には何も書かれていない。
紙の質だけが、妙に記憶に残った。
普通の名刺より少し薄い。
だが、安っぽくはない。
水に濡れても破れにくそうな、事務用品とも違う手触りだった。
桂一は、名刺を名刺入れにしまわなかった。
仕事相手の名刺と一緒にしてはいけない気がした。
封筒の一万円とも、七桁の振込記録とも違う場所。
机の一番下の引き出し。
古い地図と、使わなくなった通行許可証のコピーと、何度か現場で拾ったが記事には使わなかった紙片。
その間に挟んだ。
それからしばらく、桂一は山の仕事を減らした。
完全にやめたわけではない。
山道の確認や、林道入口の撮影、役場の告知の整理は続けた。猟友会関係の知人とも、連絡は取った。熊の目撃情報が出れば記事にもした。
ただ、罠に近づく仕事は避けた。
依頼が来ても、理由をつけて断った。
忙しい。
別件がある。
体調が悪い。
その日は車を出せない。
嘘ではない時もあった。
嘘の時もあった。
佐原は、何も言わなかった。
一度だけ、電話でこう言った。
「それでいい」
桂一が何も答えずにいると、佐原は続けた。
「近づかなくていいものもある」
それだけだった。
その言葉に、桂一は少し救われた。
同時に、少しだけ腹も立った。
近づかなくていいものなら、なぜあの日、自分を呼んだのか。
その疑問は、ずっと残った。
だが、たぶん佐原にも答えはなかった。
経験しとけ。
佐原はそう言った。
あれは、助言だったのか。
警告だったのか。
引き継ぎだったのか。
桂一には、今でも分からない。
その後、市影譚は少しずつ形を変えていった。
地域の仕事ブログとして始めたものが、いつの間にか、説明しきれない現場の記録になっていった。
怪談を書こうと思ったわけではない。
むしろ、怪談にしないために書いていた。
場所を伏せる。
関係者を守る。
断定しない。
危険な場所へ人を行かせない。
分かることと、分からないことを分ける。
そうしているうちに、読者が増えた。
地元の人から連絡が来るようになった。
役場関係者らしき人から、匿名で情報が届くこともあった。
猟友会、土建屋、漁協、消防団、商店街。
桂一の周りに、少しずつ“知っているが話さない人たち”が増えていった。
そのたびに、桂一は思い出した。
ブルーシート。
白い石灰。
防護服。
黒いキャラバン。
灰島の名刺。
あの日、自分は何かを始めたのではない。
すでにあったものの端に、触れてしまっただけなのだと。
そう思うようになった。
そして、何年か後。
相沢が市影譚に来た。
ワトソン、募集してませんか。
そんな変な問い合わせから始まった。
相沢は、桂一の記事をよく読んでいた。
よく読んでいたからこそ、桂一が書いていない部分に気づいた。
罠猟の荷運びバイト。
その記事を、相沢が開いた時点で、桂一はいつかこの話をすることになると分かっていた。
ただ、思っていたより早かった。
そして、思っていたより、相沢は静かに聞いた。
桂一がそこまで話し終えた時、作業部屋の外はすっかり暗くなっていた。
窓ガラスには、部屋の中の明かりが映っている。
机の上には、ノートパソコン、地図、何枚かの名刺、相沢のメモ、冷めたカップ。
相沢は、しばらく何も言わなかった。
怖がっている、というより、頭の中で分類している顔だった。
近い。
似ている。
不一致。
そうやって、どこに置けばいいのかを探している。
桂一は、その顔を見て少しだけ安心した。
相沢は怖がりすぎない。
でも、軽くもしない。
そこが、市影譚には必要だった。
「それで」
相沢が、ようやく口を開いた。
「その記事には、ここまで書かなかったんですね」
「書けなかった」
「灰島さんのことも?」
「書けない」
「防護服の人たちも?」
「書けない」
「腕みたいなものを見たことも?」
「書かない方がいい」
相沢は頷いた。
納得したというより、書けない理由を理解した顔だった。
「でも、完全に伏せたわけでもない」
「うん」
「だから、あの一文なんですね」
相沢はノートパソコンの画面を見た。
袋の中身については、確認していない。
桂一は苦笑した。
「ずるい書き方だろ」
「正確ではあります」
「全部ではない」
「でも、嘘ではない」
「そういうのが、一番よくない時もある」
桂一はカップを持ち上げた。
中身はもう冷めていた。
「でも、あの時はそれしか書けなかった」
相沢は、少しだけ考えた。
「私は、分かります」
「何が?」
「全部書かないことが、逃げじゃない場合もあるんだなって」
桂一は、相沢を見た。
相沢はノートに視線を落としていた。
「怖いから伏せるんじゃなくて、現地を壊さないために伏せる。見た人を増やさないために伏せる。触ってはいけないものに、名前をつけないために伏せる」
相沢は、そこまで言ってから少し笑った。
「……言い方、合ってます?」
「合ってる」
桂一は答えた。
「かなり」
相沢は、ほっとしたように息を吐いた。
それから、少しだけ迷う顔をした。
桂一には、次に何を聞かれるか分かった。
名刺だ。
相沢は、必ずそこに戻ってくる。
「桂一さん」
「うん」
「その名刺って、まだあるんですか」
桂一は、すぐには答えなかった。
ある。
今も、机の下の引き出しにある。
だが、出すべきかは別だった。
見せることで、相沢を少しだけ向こう側に近づけてしまう気がした。
けれど、相沢はすでに市影譚の人間だった。
現場には出ている。
記録もしている。
怖さを扱う側にいる。
隠し続けることも、少し違う。
桂一は、静かに椅子を引いた。
机の一番下の引き出しを開ける。
古い地図。
通行許可証のコピー。
現場で拾ったが使わなかった紙片。
封筒に入れた写真。
そして、灰色がかった名刺。
桂一はそれを取り出した。
「これが、その時もらった名刺」
相沢は、両手で受け取った。
紙を見る時の相沢は、いつも少し真剣になる。
文章、図版、レシート、掲示案、領収書。どんな紙でも、そこに何が残っているかを見ようとする。
名刺にも、同じように目を落とした。
「灰島」
相沢が小さく読んだ。
「名前だけなんですね」
「そう」
「所属なし。肩書きなし」
「うん」
「電話番号……みたいな数字だけ」
相沢は、そこで眉を寄せた。
指先を名刺の上に置かず、空中で数字を数える。
一度目。
少し首を傾げる。
二度目。
今度は、唇だけが小さく動いた。
そして、顔を上げた。
「……これ、十五桁ありません?」
桂一は頷いた。
「あるね」
「電話番号、じゃないですよね」
「電話番号だなんて思わないだろ?」
桂一は、少しだけ笑った。
笑ってから、自分でもあまり笑える話ではないと思った。
「番号として最大の十五桁。おそらく、決して間違いでもかかってこないようにしているんだろうね」
相沢は名刺を見つめた。
「間違い電話がかかってこないように」
「うん」
「でも、用がある人は、かけられる」
「そういうものなんだと思う」
「……怖いですね」
「怖いね」
桂一は素直に認めた。
相沢は、少し意外そうな顔をした。
「桂一さんが、怖いって言うの珍しいですね」
「怖いものは怖いよ」
「怪異が?」
「いや」
桂一は名刺を見た。
「こういうものを用意している人間社会が」
相沢は黙った。
それから、ゆっくりと名刺を桂一へ返した。
桂一は受け取ったが、すぐにはしまわなかった。
机の上に置く。
灰島。
数字。
所属なし。
名刺は、ただの紙に戻ったようにも見えた。
だが、ただの紙ではない。
相沢は、少し迷ってから聞いた。
「かけてみたことはあるの?」
その問いは、ほとんど反射だったのだと思う。
聞いた直後、相沢自身も、聞いてよかったのか分からない顔をした。
桂一はすぐには答えなかった。
カップの縁に口をつける手前で、ほんの少しだけ動きを止めた。
その一瞬、部屋の音が消えたように感じた。
「……一度だけ」
桂一は言った。
「ブログには載せてないけどね」
相沢は、何かを聞きかけて、やめた。
「えっと……そっか」
「うん」
桂一はカップを口に運んだ。
冷めたコーヒーは、あまり味がしなかった。
「その時も」
相沢が小さく言った。
「何か、捕まったんですか」
桂一はカップを置いた。
相沢はすぐに続けた。
「あ、答えなくて大丈夫です」
桂一は少しだけ笑った。
その気遣いが、相沢らしかった。
「相沢」
「はい」
「狩猟にオフシーズンがあるには理由があるってことだ」
相沢は、最初その意味を考えていた。
数秒後、表情が変わった。
理解した、というより、理解してはいけない方向に少しだけ触れた顔だった。
「……それ、ブログには」
「載せない」
「ですよね」
「載せられない」
桂一は名刺を手に取った。
「それに、僕も全部を知っているわけじゃない」
「でも、番号にはかけた」
「一度だけ」
「灰島さんが出たんですか」
桂一は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
相沢はそれ以上聞かなかった。
ただ、ノートの端に短く書いた。
十五桁。
灰島。
用がある時だけ。
用がないなら、用を作らない。
桂一は、そのメモを見た。
「相沢」
「はい」
「それは、公開用にはしないで」
「もちろんです」
「あと」
桂一は名刺を引き出しへ戻した。
「絶対に、かけちゃいけないよ」
相沢は真面目に頷いた。
「はい」
「用がない場合は、関わっちゃいけない世界だから」
引き出しが閉まる音は、小さかった。
けれど相沢には、それが山の扉を閉める音のように聞こえたのかもしれない。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
外では、雨が降り始めていた。
作業部屋の窓に、細かい水滴がつく。
相沢はノートを見下ろし、ペンを持ち直した。
そして、ページの下に一行だけ書いた。
電話番号ではない。
連絡先でもない。
境界の印。
桂一は、それを見て何も言わなかった。
市影譚では、分からないものを無理に分かったことにはしない。
分からないまま、紙に置く。
その紙が、誰かを少しだけ現実側へ戻すことがある。
相沢が来てから、桂一はそれを何度か見てきた。
だから、この話もいつか紙に置かなければならないのだと思った。
全部ではない。
でも、何もなかったことにはしない。
見なかったことにされた現実を、見なかったことにしないために。
ただし、現地を壊さない形で。
怖がらせるためではなく、扱うために。
桂一は、ノートパソコンをこちらへ向けた。
「相沢」
「はい」
「この記事、今の市影譚用に直すなら、どうする?」
相沢は少し驚いた顔をした。
それから、すぐに仕事の顔になった。
「まず、場所は今よりぼかします」
「うん」
「罠猟の具体手順も、真似されない程度に削ります」
「そうだね」
「でも、山に入らない理由は強めに書きます。熊だけじゃなくて、立入禁止には“書けない理由も含まれる”ってニュアンスで」
桂一は頷いた。
「いいと思う」
「あと、最後に注意書きを入れます」
「どんな?」
相沢は少し考えた。
「山で見たものに、勝手に名前をつけないこと。写真を撮りに行かないこと。誰かの沈黙を、臆病だと決めつけないこと」
桂一は、しばらく黙っていた。
「それ、いいね」
「本当ですか」
「うん。佐原さんにも読ませたいくらいだ」
相沢は少し笑った。
「怒られません?」
「たぶん、黙って読む」
「それは怒ってるんですか?」
「佐原さんの場合、黙って読むのは、だいたい認めてる時だよ」
相沢は、ようやく少しだけ表情を緩めた。
怖い話を聞いた後でも、仕事に戻れる。
それは、相沢の強さだった。
怪異に強いのではない。
怖さを、紙の上に戻せる。
桂一は、そう思った。
雨の音が少し強くなった。
作業部屋の蛍光灯が、机の上の紙を白く照らしている。
相沢は新しいページを開き、見出しを書いた。
罠猟の荷運びバイト。
その下に、小さく副題をつける。
――山で捕まるのは、獣だけとは限らない。
桂一はそれを見て、少しだけ苦笑した。
「煽りすぎじゃない?」
「これくらいは、入口として必要です」
「市影譚っぽい?」
「怖がらせすぎないように本文で戻します」
「なるほど」
相沢はペンを置き、桂一を見た。
「桂一さん」
「うん」
「これが、始まりだったんですね」
桂一は、少し考えた。
始まり。
そう言われると、少し違う気もした。
あれは、始まりというより、すでに続いていたものに気づいた日だった。
だが、市影譚にとっては、確かに始まりだったのかもしれない。
怪異を信じるようになった日。
怪異よりも、それを処理する社会の方が怖いと知った日。
そして、自分がそれを見なかったことにできないと分かった日。
「そうだね」
桂一は言った。
「あの日から、市影譚になったのかもしれない」
相沢は、静かに頷いた。
そして、ノートの一番上にもう一度、丁寧な字で書いた。
市影譚。
その下に、こう続けた。
Case 001
罠猟の荷運びバイト
雨は、まだ降っていた。
山の方から来た雨だった。




