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市影譚-短編シリーズ  作者: 鳥ノ木剛士


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市影譚-EP1【線香の匂いがする部屋】聞き取り

 最初に話を聞かせてくれた女性は、私が勝手に想像していたような人ではなかった。


 派手な服を着ているわけでもない。

 濃いメイクでもない。

 香水の匂いが強いわけでもない。


 薄いメイクに、あどけなさが少し残る髪型。

 髪はゆるく整えられていて、服装も部屋着に近い。

 ただ、爪や肌の手入れはきちんとしていて、清潔感があった。


 正直に言えば、すごく可愛い人だった。


 華やかというより、親しみやすい。

 夜の街の人、というより、少し人見知りする普通の女の子に見える。


 どこかのカフェにいても、病院の待合室にいても、たぶん違和感はない。


 その普通さと可愛さに、私は少し戸惑った。


 けれど、桂一さんを見ると、特に意識している様子はなかった。


 可愛いとも、珍しいとも、場違いだとも思っていない。

 ただ、これから話を聞く相手として、静かに距離を測っている。


 それが、少し意外だった。


 男性向けのサービスを扱う待機所。

 そこで働く、可愛い女性。


 そういう場所に来れば、男の人は多少なりとも反応するものだと、私はどこかで思っていたのかもしれない。


 でも桂一さんは、そういう目で見ていなかった。


 店長さんが、私の表情に気づいたのか、低く笑った。


「イメージと違うか?」


「……少し」


「ウチは若いやつが多いからな。シングルもいるし、可愛い系で売ってる。今は、いかにも夜職って感じの派手さより、普通っぽい子の方がウケるんだよ」


 私は返事に迷った。


 その言い方に少しだけ引っかかりながらも、目の前の女性が商品ではなく、ここで働いている一人の人間だということも分かったからだ。


 桂一さんが横から言った。


「相沢、無理に分かった顔しなくていい」


「すみません」


「知らないものは、知らないでいい。見て覚えればいい」


 女性は、そのやり取りを聞いて少し笑った。


 緊張が、ほんの少しだけほどけたように見えた。


 私は録音機を机の上に置いた。


「録音しても大丈夫ですか? 名前や個人が分かる内容は使いません」


 女性は、隣に座っている女性事務員さんの方を一度見た。


 事務員さんが小さく頷く。


 それを見てから、彼女も頷いた。


「大丈夫です」


「ありがとうございます」


 桂一さんは、少し離れた椅子に座った。


 店長さんは、さらに一歩下がって壁際に立った。


 怖がっている本人に、圧をかけないためだと思った。


 最初に話すのは私。

 必要なところだけ、桂一さんが補足する。


 自然にそういう配置になっていた。


 私はノートを開いた。


「まず、匂いのことから聞いてもいいですか?」


 女性は、浴室の方をちらりと見た。


「はい。最初は、誰かがお香でも焚いてるのかと思ったんです」


「線香みたいな匂い?」


「はい。お寺とか、お葬式の時みたいな」


 お葬式。


 その言葉を出した時、女性の声が少しだけ小さくなった。


「いつ頃が多いですか?」


「夜です。十一時過ぎとか、もっと遅い時もあります」


「毎日ですか?」


「毎日じゃないです。でも、続く時は続きます」


「どこが一番強いですか?」


 女性は、また浴室の方を見た。


「あっちです。シャワー室の前。あと、洗濯機のあたり」


 桂一さんは、その言葉を聞いても、まだ浴室の方へは行かなかった。


 先に現象を決めつけない。

 まず、人の話を聞く。


 市影譚では、そこが最初になる。


「匂いがした時、誰かが火を使っていた可能性はありますか?」


 女性は首を振った。


「ないと思います。ここ、火気厳禁なので」


 店長さんが壁際から言った。


「タバコも外。お香なんか焚かせねぇ」


 声は低いけれど、乱暴ではなかった。


 決まりごとを確認する声だった。


「その匂いがしたあとに、話し声が聞こえるんですね?」


 私が聞くと、女性は少し表情を曇らせた。


「はい」


「どこから聞こえますか?」


「シャワー室の方です」


「男の人の声ですか? 女の人の声ですか?」


「分からないです。二人くらいで、ぼそぼそ話してる感じで」


「言葉は聞き取れますか?」


「聞き取れないです。でも、人が話してる感じはします」


 女性は、スマートフォンを両手で握り直した。


「最初は、隣の部屋かなって思ったんです。でも、シャワー室の中にいると、すぐ近くで聞こえる感じがして」


「シャワー中ですか?」


「シャワー中もあります。あと、浴びようとして服を置いてる時とか」


 そこで、女性は一度黙った。


 女性事務員さんが、そっと水のペットボトルを差し出す。


 女性は一口飲んでから、続けた。


「一人でシャワーに入るのが怖くなって。水を出すと、外の音が聞こえないじゃないですか。でも、その中で、別の声だけ混ざる感じがして」


 私は、想像してしまった。


 狭い浴室。

 曇る鏡。

 換気扇の音。

 水音。

 服を脱いでいる状態。

 逃げにくい場所。


 そこに、線香の匂い。


 怖くない方が難しい。


 桂一さんが、静かに聞いた。


「その時、換気はしていましたか?」


「たぶん、いつもついてます」


 店長さんが答える。


「衛生上、基本は回しっぱなしにしてる。シャワーも使うし、湿気がこもるからな」


 桂一さんは頷いた。


 けれど、その時点では何も言わなかった。


 換気扇を見るのは、まだあとだった。


 今は、聞き取りを続ける。


「匂いがする日は、シャワーを使ったあとが多いですか?」


 女性は少し考えた。


「多いかもしれません。でも、使う前から匂う時もあります」


「話し声は?」


「シャワーを使った後の方が多い気がします」


 私はノートに書いた。


 匂い。

 夜。

 浴室前。

 洗濯機周辺。

 シャワー使用後に声が多い。

 換気は常時。


 怖い話が、少しずつ条件に分かれていく。


 女性も、私が書いているノートを見て、少し落ち着いたようだった。


「こういうの、書いた方がいいんですか?」


「はい」


 私は頷いた。


「怖かったことを否定するためではありません。何が起きているかを分けるためです」


「分ける……」


「匂いがすることと、声が聞こえること。シャワーを使った時と、使っていない時。誰かがいた時と、一人だった時。それを分けると、少し見え方が変わります」


 女性は小さく頷いた。


「怖くなくなりますか?」


 私は、すぐには答えられなかった。


 代わりに、桂一さんが言った。


「怖くなくなるかは分からない。でも、怖さの形は分かる」


 女性が桂一さんを見た。


「形?」


「何が怖いのかが分かると、対策を置ける。全部を幽霊にすると、何もできなくなるから」


 その言葉で、女性の表情が少し変わった。


 安心した、というほどではない。

 でも、今までより少しだけ、足元がある場所に戻ったように見えた。


 その時、別のスタッフが部屋に入ってきた。


 髪をまとめながら、店長さんに言う。


「昨日どうだったって聞かれたんですけど、五万しか稼げなかったです」


 私は、思わず顔を上げた。


 五万。


 しか。


 桂一さんが、すぐに小声で言った。


「相沢、顔に出てる」


「すみません」


 店長さんは苦笑した。


「普通の感覚だとそうなるよな」


 そのスタッフは、悪気なく首を傾げた。


「え、変ですか?」


「変じゃない。ただ、数字だけ聞くと驚く人もいる」


 桂一さんが言った。


「売上と手取りは違うし、待機時間も移動もある。体調も削る。数字だけで判断しない方がいい」


 店長さんは頷いた。


「そういうこと。あと、お前は飯食え」


「この後あるんで」


「ゼリーでいいから」


「お腹出るじゃないですか」


「倒れたら腹どころじゃねぇだろ」


 会話は慣れていた。


 注意というより、日常のやり取りだった。


 私は、そのやり取りを見ながら、この場所への印象がまた少し変わるのを感じていた。


 怖い相談が来た場所。

 男性向けの派遣型サービスの待機所。


 そう聞いて、私は確かに身構えた。


 けれど、ここで起きていることは、もっと普通で、もっと切実だった。


 働く。

 待つ。

 食べる。

 休む。

 怖がる。

 それでも次の予定が来る。


 桂一さんは、スタッフたちの会話を邪魔せず、浴室の方へ目を向けた。


「そろそろ、見てもいい?」


 店長さんが頷いた。


「頼む」


 桂一さんは、バッグからライトと手袋を取り出した。


「相沢、録音機はそのまま。あと、今から浴室側の音を取って」


「はい」


 私は録音機の向きを変えた。


 浴室の方から、低い音が続いている。


 水を流しているわけではない。

 誰もいないはずなのに、そこだけがずっと、何かを喋る前のように鳴っていた。

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