市影譚-EP1【線香の匂いがする部屋】浴室
浴室は、部屋の奥にあった。
控え室から数歩進むと、左手に洗濯機置き場があり、その先に脱衣スペース、さらに奥がシャワー室になっている。
桂一さんは、すぐには中へ入らなかった。
まず、脱衣スペースの前で足を止める。
「このあたりで匂う?」
さっき話を聞かせてくれた女性が、小さく頷いた。
「はい。シャワー室の前が一番強い時があります」
「洗濯機の周りは?」
「します。あと、シャワーのドアを開けた時とか」
桂一さんは、ライトをつけずに周囲を見た。
床。
壁紙。
洗濯機の排水口。
浴室ドアの隙間。
天井。
空気の流れ。
見ている場所が、細かい。
怖いものを探しているというより、まず建物を見ているようだった。
店長さんが、少し離れたところから聞いた。
「なんか分かるか?」
「まだ何も」
「お前の“まだ”は怖いんだよ」
「便利だよ。決めつけてないって意味だから」
桂一さんはそう言って、洗濯機の横にしゃがんだ。
排水口の周りにライトを当てる。
湿気はある。
ただ、強い異臭がするわけではなかった。
「排水口ですか?」
私が聞くと、桂一さんは頷いた。
「匂いの相談なら、水回りは見る。下水、洗剤、湿った布、排水トラップ。あと、換気」
「換気」
「匂いも音も、空気の動きで変わるから」
桂一さんは、まだ天井の換気扇には触れなかった。
先に足元を見る。
水回りを見る。
壁を見る。
空気の流れを見る。
原因を決める前に、可能性を順番に消しているようだった。
「シャワー、少し出してもいい?」
店長さんが頷いた。
「今は使ってねぇから大丈夫だ」
桂一さんは、浴室のドアを開けた。
中は狭かった。
白い壁。
曇りやすそうな鏡。
シャワーヘッド。
小さな棚。
床には、少しだけ水気が残っている。
天井の換気口から、低い音がしていた。
そこで初めて、桂一さんは天井を見上げた。
黄ばんだカバー。
古い換気扇。
ただ、その時点では何も言わなかった。
蛇口をひねる。
シャワーから水が出た。
最初は冷たい音だった。
すぐに給湯器が動いたのか、どこかで小さく機械音がした。
水音が浴室の壁に当たり、狭い空間で反響する。
その上に、換気扇の低い音が重なった。
ぶうん、というより、ううん、に近い。
一定ではない。
ほんのわずかに揺れている。
私は録音機を持ったまま、息をひそめた。
水音。
換気扇。
給湯器。
外の部屋の小さな声。
遠くの車の音。
それらが重なった時、たしかに何かに似ていた。
人の声。
言葉にはならない。
でも、二人くらいが浴室の向こうで、ぼそぼそ話しているように聞こえる瞬間があった。
私は思わず、女性スタッフの方を見た。
彼女は、少し肩をすくめていた。
「これです」
小さな声だった。
「こういう感じで聞こえるんです」
桂一さんは、蛇口を閉めた。
水音が止まる。
けれど、換気扇の低い音だけが残った。
さっきまで声のように聞こえていたものは、水音が消えると急にただの機械音に戻る。
「なるほど」
桂一さんは短く言った。
店長さんがすぐに聞く。
「分かったのか?」
「少しだけ」
「声じゃない?」
「声に近い音は作れる」
「作れる?」
「条件が揃うとね」
桂一さんは浴室から出た。
「衛生上、換気はずっと回してるんだよね」
「ああ。シャワーも使うし、湿気がこもるからな」
「シャワーを使うと湿度が上がる。浴室内の空気が重くなる。ドアの開閉、部屋全体の換気、外との気圧差で、ダクト内の空気の流れが少し変わる」
店長さんは眉を寄せた。
「つまり?」
「古い換気扇が、安定して回ってない可能性がある」
桂一さんは、天井の換気口を指した。
「軸が少しブレてる。そこに湿気と水音が重なると、人の声っぽい低音が出ることがある」
私は録音機を見た。
「今のも、それですか?」
「近いと思う。でも、断定はまだしない」
「まだ?」
「匂いの説明がついてない」
そうだった。
声のような音は、今の再現で少しだけ見えた。
けれど、線香の匂いはまだ出ていない。
浴室には湿った水回りの匂いがある。
でも、線香とは違う。
桂一さんは、洗濯機の横に戻った。
「匂いが出る時、ここの洗濯機は使ってる?」
女性スタッフは首を振った。
「夜はあまり使わないです。音が響くので」
女性事務員さんも頷いた。
「洗濯は昼間にまとめることが多いです」
「なるほど」
桂一さんはメモを取る。
「線香の匂いがする時、外の廊下も匂う?」
店長さんが答えた。
「たまにする。部屋の外に出ると薄い時がある」
「共用廊下?」
「ああ。でも、いつもじゃない」
「隣室は?」
「片方は空きって聞いてた。もう片方は……よく分からん。住居なのか、物置なのか」
「管理人に確認した方がいい」
店長さんは、少し嫌そうな顔をした。
「やっぱり必要か」
「必要。勝手に隣を疑うのはよくない」
「分かってる」
「それに、原因が隣とも限らない」
桂一さんは、天井を見た。
「この建物、ダクトが古いかもしれない。どこかで籠もった匂いが、別のタイミングで落ちてきてる可能性もある」
「匂いが落ちるって、どういうことですか?」
私が聞くと、桂一さんは少し考えてから答えた。
「空気は、きれいに一方向へ流れてくれるとは限らない。特に古い建物だと、換気扇の強さ、外気、温度差、ドアの開け閉めで流れが変わる。どこかで残った匂いが、時間差で別の場所に出てくることがある」
「それが線香の匂いに?」
「線香そのものか、線香に似た匂いか。そこを分けたい」
桂一さんは、浴室の換気扇にライトを当てた。
カバーの端に、小さなロゴがある。
黄ばんでいて見えにくい。
「古いね」
「どこのですか?」
「たぶん、National」
「ナショナルって、今のパナソニックですよね」
「うん」
店長さんが、少し驚いた顔をした。
「換気扇って、メーカーまで見るのか」
「見るよ。古い設備は、音と匂いの原因になりやすい」
「幽霊じゃなくて換気扇かよ」
「今のところは、換気扇の方がよく喋ってる」
店長さんは一瞬黙って、それから笑った。
「嫌な言い方すんな」
女性スタッフも、少しだけ笑った。
笑えたことが、よかった。
怖さが完全に消えたわけではない。
でも、さっきまで“誰かが話している”だけだったものが、“声に近い音”として少しだけ分かれた。
その差は大きい。
ただ、桂一さんはすぐに付け足した。
「でも、匂いは別だ」
空気が、少し戻る。
「匂いは、音より嘘をつきにくい。誰かが感じたなら、何かはある」
女性スタッフが、不安そうに聞いた。
「じゃあ、やっぱり何かいるんですか?」
桂一さんは首を振った。
「いる、とはまだ言わない。匂いの元がある、というだけ」
「匂いの元……」
「線香そのものかもしれないし、線香に似た別のものかもしれない。消毒、古い布、化粧品、湿った洗濯物。混ざると、人によっては線香に感じることがある」
女性は少し考えた。
「でも、本当にお葬式みたいな匂いなんです」
「うん」
桂一さんは否定しなかった。
「だから、ちゃんと探す」
その言い方で、女性は少しだけ安心したようだった。
店長さんは、スマートフォンを取り出した。
「管理人に聞くか」
「うん。できれば今」
「お前、本当に面倒くさいな」
「呼んだのはそっちだよ」
「そうだった」
店長さんは苦笑しながら、部屋の隅で電話をかけた。
その間に、桂一さんは私に言う。
「相沢、今の再現条件を書いて」
「はい」
私はノートにまとめた。
常時換気。
シャワー使用。
湿度上昇。
水音。
古い換気扇の低音。
声に近い揺れ。
匂いは未確認。
書きながら、私は浴室を見た。
ただの狭いシャワー室だった。
でも、条件が重なると、人はそこに誰かの気配を感じる。
水音で外の音が消える。
換気扇が低く鳴る。
鏡が曇る。
線香のような匂いがする。
それを、怖がるなという方が無理だと思った。
女性スタッフが、私のノートを見ながら聞いた。
「これで、怖くなくなりますかね」
私はすぐには答えられなかった。
桂一さんも、少し黙った。
それから言った。
「怖いままでもいいよ」
女性が顔を上げた。
「え?」
「怖いものを、無理に怖くないことにしなくていい。ただ、怖い理由を分ければ、対策はできる」
桂一さんは浴室の天井を見た。
「音は、少し見えてきた。匂いは、これから。順番にやろう」
女性は、小さく頷いた。
しばらくして、店長さんが戻ってきた。
「管理人、近くにいるってよ。二、三十分で来る」
「助かる」
「隣の部屋についても聞いた」
「どうだった?」
「空きじゃなかった。倉庫みたいに使ってるらしい」
「誰が?」
「そこまでは、電話じゃ濁された。契約者はいる。人は住んでない。夜に出入りすることはあるかもしれない、だと」
桂一さんは、そこで少しだけ目を細めた。
「業種は?」
「言わなかった」
「言えないのか、知らないのか」
「そこまでは分からん」
「分かった」
桂一さんは、メモに一行足した。
隣室。
倉庫利用。
夜間出入りあり。
契約者詳細不明。
ここで、葬儀や線香という言葉は出なかった。
それでも、部屋の空気は少し重くなった。
何かが隣にある。
それだけで、人は想像してしまう。
桂一さんは、すぐに言った。
「まだ決めない」
店長さんが頷いた。
「だな」
「隣が何であれ、勝手に原因にしない。職業や生活を疑う前に、建物を見る」
私はノートの端に、小さく書いた。
怖がる人を責めない。
隣を責めない。
古い建物を見る。
その三行を書いた時、少しだけこの相談の形が見えた気がした。
これは、ただの心霊話ではない。
この部屋に流れ込んでいるものがあるとすれば、それは誰かの悪意ではないのかもしれない。
別の仕事。
別の生活。
別の夜。
それらが古い建物の中で混ざり、誰かの恐怖になっている。
桂一さんは浴室の換気扇を見上げたまま、静かに言った。
「たぶん、建物の話になる」
店長さんが聞いた。
「怪談じゃなくて?」
「怪談として始まった、建物の話だね」
浴室の奥で、古い換気扇が低く鳴り続けていた。




