市影譚-EP1【線香の匂いがする部屋】黒いアタッシュケース
管理人が来たのは、それから二十分ほど後だった。
年配の男性だった。
薄いジャンパーを羽織り、手には古い鍵束を持っている。
店長さんとは顔見知りらしく、部屋に入るなり少しだけ顔をしかめた。
「また何かあったのか」
「またって言うなよ」
「ここは人の出入りが多いからな」
「だから、ちゃんと話を聞いてくれる人を呼んだんだろ」
管理人は桂一さんと私を見た。
桂一さんは名刺を差し出した。
「市影譚の水野です。今日は、こちらの部屋で起きている匂いと音の件で、確認に来ています」
私も続けて頭を下げた。
「記録担当の相沢ちづるです」
管理人は名刺を見て、すぐには何も言わなかった。
市影譚の名前を知っているのか、知らないのか、判断がつかない顔だった。
「怪談の人か」
「そう言われることもあります」
桂一さんは否定しなかった。
「でも今日は、建物の話です」
「建物?」
「浴室の換気、隣室、ダクト、匂いの流れを確認したいんです。勝手に設備には触りません。必要なら許可を取ります」
管理人は少しだけ目を細めた。
怪談の人間が、最初に許可の話をしたことが意外だったのかもしれない。
「そういうことなら、まあ」
管理人は、洗濯機置き場と浴室の方を見た。
「隣の部屋について聞いてもいいですか」
桂一さんが言った。
「隣?」
「こちら側です。さっき、倉庫のように使っていると聞きました」
「ああ」
管理人は少し言いにくそうにした。
「住んではいない。契約はある。物置みたいな使い方だな」
「何を置いているかは?」
「そこまでは、こっちも全部は把握してない」
「夜に出入りはありますか」
「たまにある。昼より夜の方が多いかもしれん」
「業種は?」
管理人は、一度だけ店長さんを見た。
店長さんは何も言わなかった。
「すまんが、契約者のことはあまり言えない」
「分かりました」
桂一さんは、それ以上踏み込まなかった。
聞けるところまで聞く。
でも、相手が言えないところは無理に押さない。
その線引きは、いつもはっきりしている。
「換気経路は分かりますか?」
「古い建物だからな。図面はあると思うが、すぐには出せない」
「浴室換気は、各部屋で独立していますか。それとも、どこかで合流していますか」
「たしか、一部は共用の縦管に入っていたはずだ」
桂一さんは、そこで小さく頷いた。
「なるほど」
「それが原因なのか?」
「可能性のひとつです」
「また曖昧だな」
「断定できるほど、まだ見ていません」
管理人は少し困ったように笑った。
「でも、こういう言い方をする人間の方が、まだ信用できるか」
店長さんが横から言う。
「こいつは昔から面倒くせぇんだよ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めてねぇ」
二人の会話に、管理人が少しだけ笑った。
空気が軽くなったところで、桂一さんは言った。
「外側も見ていいですか」
「外側?」
「換気口の位置を確認したいです。ベランダ側と共用廊下側。あと、隣室の換気口がどこに出ているか」
「鍵は開けられないぞ」
「中には入りません。外から見える範囲で大丈夫です」
管理人は頷いた。
「それならいい」
私たちは一度、部屋を出た。
共用廊下には、古い消臭剤の匂いがあった。
蛍光灯は少し暗く、床の長尺シートはところどころ擦れている。
非常階段へ続く扉の近くに、いくつかの換気口が並んでいた。
桂一さんは、ライトで壁の上部を照らした。
小さな丸い通気口。
古い金属カバー。
埃のついた排気口。
いくつかは黒ずんでいて、いくつかは比較的新しい。
「相沢、写真」
「はい」
「場所が分かりすぎないように、アップだけで」
「分かりました」
私は換気口だけを撮った。
通路全体や部屋番号が写らないように、角度を調整する。
桂一さんは、待機所側の換気口と、隣室側と思われる換気口の位置を目で測っていた。
「近いですね」
「うん。近い」
「匂い、移りますか?」
「条件が揃えば。特に、どちらかの換気が弱っていると、流れが負ける」
「負ける?」
「空気の綱引きみたいなものだよ」
桂一さんは、そう言ってから、廊下の奥を見た。
エレベーターの方から、足音がした。
軽い足音だった。
私たちは、自然にそちらを見る。
エレベーターの扉が開いた。
出てきたのは、細身の女性だった。
黒のパンツスーツ。
髪は後ろできっちりまとめられている。
靴は低めの黒いパンプス。
派手な装飾はない。
手には、横幅のある黒いアタッシュケースを持っていた。
夜の街の人にも見えなくはない。
けれど、どこか違った。
店へ向かう人というより、仕事先へ向かう人の歩き方だった。
急いでいるのに、乱れていない。
人に見られることに慣れているようで、でも見せるために歩いているわけではない。
すれ違う時、その人から特別な匂いはしなかった。
線香の匂いもない。
消毒薬の匂いもない。
ただ、きれいに整えられた服と、少しだけ冷たい夜の空気の匂いがした。
桂一さんは、その女性のケースを見て、ほんの少し目を細めた。
女性は管理人に軽く会釈して、外階段の方へ向かった。
管理人も会釈を返す。
女性が見えなくなってから、私は小声で言った。
「夜職の人専用の美容師とか?」
桂一さんは、いや、と首を振った。
「恐らく、納棺師だ」
「納棺師……ですか?」
「まだ断定はしない。でも、近い」
「どうして分かるんですか?」
「僕の経験上、黒のパンツスーツに、幅広のアタッシュケースって組み合わせは、特殊な職業の人って可能性が高い」
桂一さんは、女性が消えた階段の方を見た。
「中に化粧道具が入っているなら、なおさらね」
「美容師さんとは違うんですか?」
「美容師なら、道具の持ち方が少し違う。夜の店のヘアメイクとも違う。あの人は、誰かを飾りに行くんじゃなくて、整えに行く人の歩き方をしてた」
整えに行く人。
その言い方に、私は少し黙った。
納棺師という言葉を聞くと、どうしても死を連想する。
でも、桂一さんの言い方は、怖がらせるためのものではなかった。
誰かを最後に整える仕事。
そう言っているように聞こえた。
管理人は、明らかに驚いた顔をしていた。
「なんで分かった?」
その一言で、ほとんど答えが出た。
店長さんも、少し眉を上げる。
「マジか」
桂一さんは、すぐに言った。
「職業の問題ではありません」
先に置くような言い方だった。
「ここで間違えると、ただの偏見になります」
管理人は、少し気まずそうに頷いた。
「あの人は、ちゃんとしてるよ。家賃も遅れないし、挨拶もする。トラブルもない」
「分かっています」
「部屋は、仕事道具の一時置きと、着替えみたいな使い方だと聞いてる。住んではいない」
「洗濯は?」
「たまにしているかもしれん。詳しくは知らない」
「浴室か、洗濯機置き場はありますか」
「ある」
「換気扇は古いですか」
「たぶん、この部屋と同じくらい古い」
桂一さんは、小さく息を吐いた。
納得した、というより、ようやく線が一本つながったように見えた。
「匂いの元は、彼女個人じゃない」
桂一さんは言った。
「仕事道具、布類、化粧品、消毒、洗濯物。そういうものが部屋に残って、古い換気で抜けきらず、ダクトに籠もる。条件が合うと、隣の浴室側に落ちてくる」
「線香の匂いになるのか?」
店長さんが聞く。
「線香そのものとは限らない。でも、葬祭関係の匂いに近いものが、湿気と古い布の匂いと混ざれば、人は線香として受け取ることがある」
私は、さっきの女性スタッフの顔を思い出した。
お葬式みたいな匂い。
その言葉は、間違いではなかったのかもしれない。
ただ、その匂いの意味を、部屋が変えてしまっていた。
「じゃあ、やっぱり隣が原因か」
店長さんが言いかけた。
桂一さんは、すぐに首を振った。
「違う」
「違うのか?」
「主に施設が古いのが原因だよ」
その言葉は、はっきりしていた。
「彼女の仕事が悪いわけじゃない。君たちの仕事が悪いわけでもない。古い建物が、別々の仕事の匂いを混ぜてる」
管理人は黙った。
店長さんも、何も言わなかった。
廊下には、換気扇の低い音が薄く漏れていた。
どの部屋のものかは分からない。
でも、壁の向こうで何かがずっと回っていることだけは分かった。
「対応するなら」
桂一さんは、管理人を見た。
「待機所側だけじゃなく、向こう側の換気も見た方がいいです。匂いが籠もる側を改善しないと、また落ちてきます」
「換気扇の交換か?」
「可能性は高いです。ただ、勝手には触れません。管理人さんの許可と、契約者さんへの説明が先です」
「見積は出せるのか」
「出せます」
管理人は少し目を丸くした。
「本当に怪談の人なのか?」
店長さんが横から笑った。
「こいつ、こういう時の方が本職っぽいんだよ」
「本職ではないよ」
「でもできるんだろ?」
「できる範囲なら」
桂一さんは淡々と答えた。
「第二種電気工事士は持っています。固定配線が絡む作業なら、資格者がやった方がいい。交換前後の写真、型番、作業内容、材料費と作業費の見積は出します」
管理人は、しばらく考えた。
「設備更新だな。減価償却か修繕費かは、こっちで税理士に聞く」
「それがいいです」
「怪談の調査で税理士の話が出るとは思わなかった」
「僕もです」
相沢、と桂一さんが私を見た。
「今の流れ、記録して」
「はい」
私はノートに書いた。
納棺師と思われる女性。
黒パンツスーツ。
幅広アタッシュケース。
匂いなし。
隣室は仕事道具の一時置き場。
職業ではなく、施設の古さが主因。
待機所側・隣室側、双方の換気確認が必要。
書きながら、私はさっきの女性の後ろ姿を思い出していた。
あの人は、ただ仕事に向かっていただけだった。
それなのに、古い建物の中で、彼女の仕事の気配が別の部屋へ流れ込み、怖いものになっていた。
それは少し、悲しいことのように思えた。
桂一さんは、廊下の換気口をもう一度見上げた。
「人を責める話にしない方がいい」
店長さんが頷いた。
「分かってる」
「怖がってる子たちにも、そこは伝えて」
「ああ」
「ただし、怖がるなとは言わない」
「それも分かってる」
店長さんの声は、さっきより少し低かった。
彼もまた、この話の扱い方を間違えると誰かを傷つけると分かっているのだと思った。
私たちは、もう一度待機所へ戻った。
部屋の中では、女性スタッフたちがこちらを見た。
不安そうな顔。
知りたいけれど、知るのも怖い。
そういう顔だった。
桂一さんは、浴室の方を一度見てから、静かに言った。
「原因は、かなり建物に寄ってきました」
店長さんが続ける。
「誰かが悪いって話じゃねぇ。隣も、ここもな」
女性スタッフたちは、少しだけ顔を見合わせた。
私はそこで、ようやく分かった。
この部屋で本当に必要だったのは、原因を当てることだけではない。
誰かを責めなくていい形に、怖さを置き直すことだった。




