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市影譚-短編シリーズ  作者: 鳥ノ木剛士


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市影譚-EP1【線香の匂いがする部屋】見積

 その場で換気扇を替える、という話にはならなかった。


 桂一さんは、そういうところを急がない。


 原因が見えてきたからといって、その場の勢いで設備に触ることはしない。

 建物には所有者がいて、契約者がいて、使っている人がいる。

 それぞれに確認しなければならないことがある。


「今日できるのは、ここまでです」


 桂一さんは、管理人さんにそう言った。


「換気扇の交換自体は難しくないと思います。ただ、型番、開口寸法、ダクト径、電源の取り回し、電線ケーブルの長さを見てから決めます。あと、ダクト内の清掃も必要かもしれません」


 管理人さんは、浴室の方を見た。


「そんなに見るもんなのか」


「古い建物ほど、見た方がいいです。型番だけで代替品を選ぶと、入らないことがあります」


「面倒だな」


「面倒です」


 桂一さんは即答した。


「でも、面倒を省くと後で高くつきます」


 黒沢さんが、浴室の方を見て小さく息を吐いた。


「なんか、原因が分かると拍子抜けだな」


「そう?」


「線香の匂いだの、シャワー室の声だの言われたら、もっとこう、出るもんだと思うだろ」


「何が出ると思ってたの」


「知らねぇよ。だから怖かったんだろ」


 桂一さんは少しだけ笑った。


「知らないものは、だいたい怖いよ」


「換気扇でも?」


「換気扇でも」


 黒沢さんは、納得したような、していないような顔で浴室を見た。


「でも、女の子らがシャワー使えるようになるなら、それでいい」


「そこが一番大事だね」


 管理人さんは、二人のやり取りを聞いてから、少し考えるように腕を組んだ。


「うちで契約してる業者もいるにはいる」


「はい」


「ただ、ここの部屋も、隣の部屋も、使い方が少し特殊だ」


 管理人さんは、言葉を選んでいた。


 待機所。

 葬祭関係の仕事道具を置く部屋。


 どちらも、表に出して騒ぐ話ではない。


 管理人さんは、この部屋がどう使われているかを知っている。

 知っていて、それ以上は踏み込まないでいる。


 黒沢さんのことも、きっと分かっているのだと思った。


 見た目だけなら怖い。

 けれど、この部屋を雑に使っている人ではない。

 働いている女性たちを守ろうとしている。


 だから管理人さんは、そこには触れなかった。


「契約している業者さんがいるなら、もちろんそちらで構いません」


 桂一さんは言った。


「ただ、双方特殊な仕事なので、僕でよければこちらでやります。作業内容と見積は、数日ください。商品取り寄せの時間もあります」


「見積には何を入れる?」


「換気扇本体、代替品の型番、材料費、電線ケーブルの延長が必要ならその分、ダクト清掃の簡易作業、作業費、交換前後の写真。相場は、知り合いの電気工事店に確認して出します」


「知り合いがいるのか」


「昔、手元をやっていたところです」


 私は思わず桂一さんを見た。


「電気工事のバイトもしていたんですか?」


「少しだけ」


「少しだけで換気扇を替えるところまで行くんですか?」


「資格は取ったから」


「情報がまた増えました」


 桂一さんは、少しだけ苦笑した。


「いろいろやってたんだよ」


 黒沢さんが横から言った。


「こいつ、昔から変なバイトばっかしてたからな」


「君に言われたくない」


「俺は真面目に生きてるだろ」


「真面目の方向が独特なんだよ」


 管理人さんは二人を見て、少しだけ笑った。


「じゃあ、見積を待つ。こっちでも税理士に確認する。修繕費でいけるか、設備更新扱いか」


「それがいいです」


 桂一さんは頷いた。


「職業の問題にしない方がいいです。これは主に施設の古さが原因です。設備として処理した方が、誰も傷つかない」


 管理人さんは、静かに頷いた。


「そうだな」


 それから、黒沢さんの方を見た。


「おまえ、また酒持って来いよ」


 黒沢さんは、少し眉を上げた。


「この流れで酒の催促かよ」


「この前のやつ、うまかったんだよ」


「分かったよ。今度持ってくる」


「高いやつな」


「図々しいな」


 そのやり取りで、二人の距離が少し分かった。


 管理人さんは、黒沢さんをただの入居者として見ているわけではない。

 この場所の事情も、働いている人たちのことも、ある程度は知っている。


 それでも、必要以上には踏み込まない。


 放置ではない。

 見て見ぬふりでもない。


 信頼に近い距離の取り方なのだと思った。


 怪談として始まった相談が、少しずつ見積書の形になっていく。


 それは不思議な流れだった。


 でも、たぶん市影譚らしい流れでもあった。


 怖さを否定しない。

 でも、怖いまま放置しない。


 名前をつける前に、設備を見る。

 誰かを責める前に、建物を見る。


 桂一さんは最後に、浴室の換気扇をもう一度見上げた。


「今日は、ここまでにしましょう」


 黒沢さんが言った。


「女の子らには、どう説明する?」


「音については、条件が揃うと声に近く聞こえる可能性がある。匂いについては、隣接する部屋と換気経路の影響があるかもしれない。ただし、誰かの職業が悪いわけではない」


「分かった」


「それと、怖がってる子を責めないで」


 黒沢さんは、少しだけ眉を寄せた。


「責めねぇよ」


「分かってる。でも、言葉にしておいた方がいい」


「ああ」


 私はノートを閉じた。


 その下に、一行だけ書き足した。


 職業を責めない。

 建物を直す。


 それだけで、少しだけ話の行き先が見えた気がした。

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