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市影譚-短編シリーズ  作者: 鳥ノ木剛士


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市影譚-EP1【線香の匂いがする部屋】数日後

 見積が出たのは、三日後だった。


 桂一さんは、その間に古い換気扇の型番を調べ、現行品の代替候補を探し、知り合いの電気工事店にも電話をしていた。


「このくらいの浴室換気扇で、材料と作業込みなら相場どれくらい?」


 そんなふうに、淡々と聞いていた。


 私は横で作業内容のメモを整理していた。


 換気扇本体。

 取付部材。

 必要なら電線ケーブルの延長。

 ダクト接続部の確認。

 簡易清掃。

 交換前後の写真。

 試運転。

 作業費。


 怪談の調査だったはずなのに、目の前にあるのはほとんど工事の見積書だった。


「相沢」


「はい」


「金額、見て違和感ある?」


 桂一さんに見せられた見積書には、材料費と作業費が分けて書かれていた。


 待機所側と、隣室側。

 それぞれの換気扇交換。

 ダクト内の簡易清掃。

 商品取り寄せに数日かかること。

 作業は管理人立ち会いの上で行うこと。


「思ったより、ちゃんとしてます」


「ちゃんとしてるよ」


「すみません。怪談の続きを見ている気分だったので」


「怪談の続きだよ。見積書が出るタイプの」


 桂一さんは、そう言って少し笑った。


 その日の夕方、私たちはもう一度、あのマンションへ向かった。


 黒沢さんは、待機所の入口で待っていた。


「本当に見積書持ってきたのか」


「持ってきたよ」


「なんか、怪談ってもっとこう、塩とか札とか出るもんじゃねぇの」


「今回は換気扇」


「地味だな」


「地味な方がいい」


 黒沢さんは、納得したような、していないような顔で笑った。


 管理人さんもすぐに来た。


 桂一さんは、見積書をテーブルに置いた。


「待機所側と隣室側、両方です。片方だけ替えても、匂いの流れが残る可能性があります」


 管理人さんは眼鏡をかけ、見積書をゆっくり読んだ。


「この、ダクト清掃ってのは?」


「簡易です。奥まで本格的にやるなら専門業者の方がいいです。ただ、今回は換気扇周りと接続部に埃や汚れが溜まっている可能性が高いので、交換時に見える範囲は清掃します」


「電線ケーブルの長さは?」


「開けてみないと確定しません。足りなければ延長が必要です。そこは追加ではなく、見積内に少し余裕を入れています」


 管理人さんは頷いた。


「相場は?」


「知り合いの電気工事店に確認しました。かなり安くも高くもしていません」


「なら、いい」


 管理人さんは見積書を畳んだ。


「こっちで払う。設備の話だからな」


 黒沢さんが口を挟んだ。


「いいのか?」


「いいも悪いも、建物が古いのはこっちの責任だ」


 管理人さんは、そう言ってから黒沢さんを見た。


「おまえは、また酒持って来い」


「まだ言ってんのかよ」


「この前のやつ、うまかったんだよ」


「分かったよ。高くないやつな」


「高いやつだ」


「図々しいな」


 二人は、そんなふうに言い合った。


 私は、そのやり取りを見て少し安心した。


 このマンションには、説明しづらい仕事がいくつか入っている。

 けれど、管理人さんはそれをただ見ないふりをしているわけではない。


 人を見て、距離を取っている。


 黒沢さんがどういう人なのかを知っているから、必要以上に踏み込まない。

 それは放置ではなく、信頼に近かった。


「隣の契約者さんには?」


 桂一さんが聞いた。


 管理人さんは頷いた。


「話した。こっちから責める話ではない、とも伝えた」


「反応は?」


「むしろ、安心してたよ」


「安心?」


「自分でも気にしていたらしい」


 管理人さんは、少し声を落とした。


「どうしても仕事終わりは移り香があるし、部屋に籠もった臭いは気になっていました、ってな」


 私は、その言葉をノートに書いた。


 隣人もそう言っていたらしい。


 その一文を書いた時、少しだけ胸の奥が軽くなった。


 怖がっていた人たちだけではなかった。

 怖がられるかもしれない人も、きっとずっと気にしていた。


 黒沢さんが、短く息を吐いた。


「そうか」


「職業の問題じゃありません」


 桂一さんは、あらためて言った。


「主に施設が古いのが原因です。匂いが籠もる。ダクトに残る。別の部屋に落ちる。そういう構造の話です」


 管理人さんは、深く頷いた。


「なら、建物で処理する」


「それが一番いいです」


 作業日は、さらに数日後になった。


 商品取り寄せの時間が必要だったからだ。


 黒沢さんは、少し落ち着いた顔をしていた。


「スタッフには伝えた?」


 桂一さんが聞いた。


「ああ。女の子らも、原因が分かって少し安心してたよ」


「誰かが悪い話じゃないってことも?」


「そこはちゃんと言った。隣の人の仕事のことも、余計には話してねぇ」


「それでいい」


 桂一さんは頷いた。


「怖さは、全部を消せなくてもいい。責める相手を間違えなければ、だいぶ扱いやすくなる」


 黒沢さんは、浴室の方を見た。


「……換気扇で済むなら、安いもんだな」


「安いかどうかは、管理人さん次第だけどね」


「そういう意味じゃねぇよ」


 黒沢さんは苦笑した。


「女の子らが、また普通にシャワー使えるならって意味だ」


 桂一さんは、少しだけ表情を緩めた。


「そうだな。安心の値段と言うなら、たぶん安い」


 私は、その会話を聞きながら浴室の方を見た。


 まだ古い換気扇は回っている。


 低く、湿った音で。


 それでも、もう最初に来た時ほど怖くはなかった。


 名前のない声だったものが、少しずつ、音と匂いと設備の話に分かれてきている。


 完全に安心したわけではない。

 けれど、戻るための道は見え始めていた。

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