市影譚-EP1【線香の匂いがする部屋】交換
作業日は、よく晴れた午後だった。
それでも、マンションの廊下には少し湿気が残っていた。
古い建物の匂いは、天気だけでは抜けない。
桂一さんは、いつもの服装ではなかった。
薄いグレーの作業着。
胸には、有名な電材メーカーのロゴが入っている。
顔には作業用のマスク。
手には、使い込まれた工具袋。
私は思わず言った。
「ますます本職ですね」
呆れたように聞こえたかもしれない。
でも、半分以上は感心だった。
桂一さんは、自分の胸元を見て少し笑った。
「ジャケットのことか。前にバイト先で貰ったんだよ。こういうの着てると、信頼感が出るだろ?」
「確かに。着慣れてる感じもあって良いですね」
実際、その作業着は新品ではなかった。
所々が擦れている。
袖には小さな穴もある。
洗っても落ちきらなかったような薄い汚れも残っていた。
それがかえって、妙に似合っていた。
借り物の衣装ではなく、昔の仕事の続きをそのまま引っ張り出してきたような出で立ちだった。
桂一さんは、慣れた様子で電動ドライバーの調子を確かめた。
バッテリーの具合を見て、ビットを差し替える。
それから腰ベルトを身に付けて、踏み台に乗った。
小さな脚立が、ぎ、と短く軋む。
アルミの軽い音がした。
「カビやホコリが舞うから離れてろ」
そう言われて、私はすぐに一歩下がった。
黒沢さんも素直に離れる。
管理人さんは、腕を組んだまま少し後ろへ下がった。
そこから先は、あっという間だった。
ブレーカーを落とす。
検電する。
養生する。
古いカバーを外す。
黄ばんだ換気扇の奥から、埃と湿気の匂いが落ちてくる。
古い本体には、かすかにNationalのロゴが残っていた。
桂一さんは、特に驚く様子もなく手を動かしていく。
古い本体を外し、ダクトの縁を確認し、新しい換気扇を収める。
配線を確認し、接続し、固定する。
ものの三十分もしないうちに、入れ替えは終わっていた。
「しっかりサイズは合ってたな。思ったよりFケーブルも傷んでないし、流用できました」
手馴れすぎていて、こちらに解説する余裕すらある。
私は、録音機よりも桂一さんの手元を見てしまっていた。
管理人さんが、感心したように言った。
「あんた、インターネットのオカルト管理人じゃなかったのか?」
桂一さんは、脚立の上から少しだけ笑った。
「僕みたいのは、何でもできなきゃ信頼が勝ち取れませんからね」
「何でも、ねえ」
「色んな仕事を経験しておかないと、記事に違和感や齟齬が出ちゃいますし」
管理人さんは、少し黙ってから笑った。
「変わってるな」
黒沢さんが横から言った。
「だから言ったろ。こいつは変わってるんだよ」
「君に言われたくない」
桂一さんはそう返しながら、新しい換気扇の試運転をした。
音がまるで違った。
軽い。
あの低く湿った唸りがない。
「全然違いますね」
「古い方は軸が鳴ってた。湿気と水音が重なると、声っぽく聞こえたと思う」
「換気扇ひとつで、こんなに変わるんですね」
「変わるよ。怖さって、環境で増えるから」
桂一さんは、ティッシュを換気口に近づけた。
紙が、すっと吸い寄せられる。
「吸ってる」
黒沢さんが言った。
「今度はちゃんとね」
桂一さんはそう答えて、交換前後の写真を撮った。
隣室側の作業は、管理人さんと契約者さんの了承を得た上で行われた。
私は中には入らなかった。
後で聞いたところによると、隣室の換気扇も同じくらい古かったらしい。
隣人も、気にしていたそうだ。
どうしても仕事終わりは移り香がある。
部屋に籠もった臭いも、自分では分かっていた。
けれど、職業のことを言われるのが怖くて、強く相談できなかった。
管理人さんがそう教えてくれた。
それを聞いた時、私は少しだけ胸が痛くなった。
怖がっていた人がいる。
怖がられることを恐れていた人もいる。
どちらかが悪かったわけではない。
古い建物が、その間にあっただけだった。
作業が終わる頃には、待機所の空気は少し軽くなっていた。
黒沢さんが、古いエアコンを見上げた。
作業が終わる頃には、待機所の空気は少し軽くなっていた。
黒沢さんが、古いエアコンを見上げた。
「ついでに、あれも見れるか?」
桂一さんも見上げる。
「エアコン? 頼まれれば替えられるけど、やっちゃいますか?」
「今月は換気扇だけで勘弁してくれ」
管理人さんが笑って部屋を出ていった。
私も思わず言った。
「桂一さん、冗談の範囲が業者なんですよ」
「業者ではないよ」
「でも、替えられるんですよね」
「条件が合えば」
条件が合えば。
この人は、本当に何でもその調子で考える。
できること。
できないこと。
やっていいこと。
やってはいけないこと。
それを分けてから動く。
怪談の現場でも、換気扇の交換でも、それは同じだった。
黒沢さんは、新しくなった換気扇の音をしばらく聞いていた。
「これなら、女の子らも少しは落ち着くかな」
「落ち着くと思う」
桂一さんは言った。
「ただ、怖がっていたこと自体は否定しない方がいい」
「ああ。そこは分かってる」
「匂いも音も、実際にあった。原因が分かったからって、怖がった人が大げさだったわけじゃない」
黒沢さんは、少しだけ真面目な顔になった。
「分かってる。あいつらには、そう言う」
その言い方で、私は少し安心した。
この人は、怖がる人を面倒くさがっているわけではない。
働く人たちが、またこの部屋に戻れるようにしたいだけなのだと思った。
最後に浴室を確認した時、私はガラス戸の前で足を止めた。
すりガラスの下の方に、何かを拭ったような跡があった。
小さな手の形に見えた。
黒沢さんがそれを見て、眉を寄せた。
「なんか、子どもの手みたいだな」
少し間を置いて、続ける。
「ウチは赤んぼしかいねえけどな」
誰も、すぐには返事をしなかった。
桂一さんは少しだけその跡を見てから、近くにあったタオルを濡らした。
「水滴だね」
そう言って、ガラスを拭いた。
跡は、すぐに消えた。
「……だな」
黒沢さんも、それ以上は言わなかった。
新しい換気扇は、軽い音で回っていた。
さっきまで浴室に残っていた低い唸りは、もうない。
空気は、少しだけ薄くなったように感じた。
帰り支度をして、玄関へ向かった時だった。
私は、ふと浴室の方を振り返った。
「どうした?」
桂一さんが聞く。
「いえ……なんか、声がまたしたような」
黒沢さんが奥の部屋を見た。
「おいおい。普通にテレビじゃねえのか?」
奥では、小さく子ども向けの動画の音が流れていた。
私は少し黙ってから、頷いた。
「そうですね。では、ありがとうございました」
黒沢さんは笑った。
「こっちのセリフだよ」
その日の帰り道、私はあまり話さなかった。
桂一さんも、無理には聞かなかった。
新しい換気扇は、きちんと回っていた。
線香の匂いも、あの低い声のような音も、もう残っていなかった。
少なくとも、あの部屋では。
だから私は、その時点ではもう終わったのだと思っていた。
ただ、録音機の中に何が残っているかまでは、まだ知らなかった。




