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市影譚-短編シリーズ  作者: 鳥ノ木剛士


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市影譚-EP1【線香の匂いがする部屋】録音

 作業部屋に戻った時には、外はすっかり暗くなっていた。


 車の中では、ほとんど話さなかった。


 桂一さんは、何も聞かなかった。

 私も、何を言えばいいのか分からなかった。


 換気扇は新しくなった。

 線香の匂いも、シャワー室の声も、原因はほとんど見えていた。


 古い設備。

 湿気。

 水音。

 換気経路。

 別々の仕事の匂い。


 怖がっていた人たちは、たぶんまたあの部屋に戻れる。

 それなら、十分なはずだった。


 それでも、帰り際に聞こえた気がした声が、耳の奥に残っていた。


 作業部屋の蛍光灯をつけると、机の上が白く照らされた。


 桂一さんは、現場用のバッグから録音機を取り出した。


「聞いておこうか」


「はい」


 私は椅子に座り、ノートを開いた。


 今日の録音は、いくつかに分かれていた。


 聞き取り。

 浴室の再現。

 換気扇交換前の作動音。

 交換後の試運転。

 玄関先での会話。


 桂一さんは、音声ファイルを順番に再生した。


 最初に流れたのは、女性スタッフの声だった。


 線香みたいな匂いがする。

 シャワー室の方から、誰かが話しているように聞こえる。

 一人で入るのが怖い。


 次に、浴室の再現音。


 水音。

 古い換気扇の低い唸り。

 給湯器の作動音。

 狭い空間に反響する音。


 録音で聞いても、たしかに声に近かった。


 言葉にはならない。

 けれど、人が二人くらいで、ぼそぼそ話しているように聞こえる。


「これなら、怖がるのも無理ないですね」


「うん」


 桂一さんは短く答えた。


「怖がったことは、間違いじゃない」


 その言い方に、少し安心した。


 市影譚では、怖がった人を否定しない。

 でも、怖さをそのまま放置もしない。


 次に、交換後の試運転音が流れた。


 新しい換気扇の音は軽かった。


 同じ浴室とは思えないほど、音の輪郭が違う。

 低い唸りが消えただけで、空間の印象まで変わっていた。


「こうして聞くと、全然違いますね」


「古い方は、ずっと喋る直前みたいな音を出してたからね」


「喋る直前」


「言葉にならない声が、一番怖い」


 桂一さんは、そう言って波形を少し進めた。


「何か聞こえたって言ってたのは、このあたり?」


「たぶん、その少し後です。玄関に向かう前くらい」


 私は記憶をたどった。


 浴室の方を見た。

 何かが聞こえた気がした。

 黒沢さんが、テレビじゃねえか、と言った。


 奥の部屋では、子ども向けの動画の音が流れていた。


 そうだった。

 そういうことにした。


 桂一さんは、録音を数秒戻した。


 新しい換気扇の軽い音。

 遠くのテレビ。

 玄関で誰かが靴を動かす音。

 黒沢さんの笑い声。

 私の「ありがとうございました」という声。


 その奥に、何かがあった。


 とても小さい。


 最初は、テレビの音かと思った。

 次に、子どもの声かと思った。

 その次に、圧縮されたノイズかもしれないと思った。


 桂一さんが、何も言わずにもう一度戻す。


 再生。


 新しい換気扇の音。

 遠くのテレビ。

 靴音。


 そして、奥の奥に、細い声。


「……ありがとう。ばいばい」


 私は、ペンを持ったまま固まった。


 桂一さんは、画面を見ていた。


 表情は変わらない。

 でも、すぐには何も言わなかった。


「今の」


 私が言うと、桂一さんは静かに頷いた。


「聞こえたね」


「声、ですよね」


「声に近い」


「……近い」


「断定はしない」


 その言葉を聞いて、私は少しだけ息を吐いた。


 断定はしない。

 でも、なかったことにもしない。


 市影譚のいつもの場所に、ようやく戻ってきた気がした。


 私は録音時間をメモした。


 換気扇交換後。

 玄関退出前。

 声様ノイズ。

 内容は「ありがとう。ばいばい」に近い。


 そこまで書いて、手が止まった。


「公開用には、入れない方がいいですよね」


「うん」


 桂一さんは、すぐに答えた。


「入れたら、全部そっちに引っ張られる」


「ですよね」


「今回必要なのは、古い換気設備で不安が増幅されること。職業や人を責めないこと。怖がっていた人たちが戻れるようになったこと」


「最後の声は?」


「内部記録」


 私は頷いた。


 公開用の文章には、きっと書かない。


 あの声を書けば、読者はそこだけを見る。

 線香の匂いも、換気扇も、納棺師の女性も、黒沢さんが守ろうとしていた待機所も、全部“最後の怪異”のための前振りになってしまう。


 それは違う。


 少なくとも、今回の市影譚では違う。


「でも」


 私は、小さく言った。


「もし本当に何かだったなら、怒ってる感じじゃなかったですね」


 桂一さんは、少しだけ考えた。


「そうだね」


「出ていったんでしょうか」


「換気されたのかもね」


 冗談のようで、冗談ではない声だった。


 古い換気扇。

 籠もった匂い。

 低い声のような音。

 誰かの仕事の気配。

 誰かの不安。

 小さな手の跡。


 それらが全部、あの部屋の中に溜まっていた。


 新しい換気扇が回ったことで、ただ空気が入れ替わっただけなのかもしれない。


 けれど、空気が入れ替わることでしか出ていけないものも、あるのかもしれない。


 私は、録音ファイルに名前をつけた。


 EP1_交換後_退出前_声様ノイズ。


 それから、内部メモの最後に一行だけ書いた。


 以後、同様の現象なし。


 数日後、黒沢さんから桂一さんに連絡があった。


 匂いは、ほとんどしなくなった。

 シャワー室の声も、聞こえなくなった。

 女性スタッフたちは、少しずつ普通に浴室を使うようになった。


 ただ、黒沢さんは最後にこう言ったらしい。


『なんかさ、前より部屋が軽いんだよ』


 桂一さんは、それを聞いて、


『換気が良くなったからだよ』


 と答えた。


 黒沢さんは笑って、


『そういうことにしとくわ』


 と言ったそうだ。


 公開用の記録には、こう書いた。


 原因は、主に古い換気設備と建物構造にあった。

 線香の匂いは、隣接する部屋の仕事道具や布類、化粧品、消毒臭、湿気などが混ざり、換気経路を通じて待機所側に流れ込んだ可能性が高い。

 話し声については、常時換気、シャワー使用時の湿度上昇、水音、古い換気扇の軸ブレによる低音が重なり、人の声に近い音として聞こえた可能性がある。

 待機所側と隣室側の換気扇交換後、現象は収束した。


 そこまでが、書けることだった。


 書かなかったこともある。


 浴室ガラスの小さな手の跡。

 帰り際に聞こえた気がした声。

 録音に残った「ありがとう。ばいばい」。


 それらは、公開しない。


 怖がらせるためにあるものではないからだ。


 市影譚がしたことは、除霊ではない。


 古い換気扇を替えただけだ。


 けれど、その部屋では、それで人が戻れるようになった。


 線香の匂いがしていた部屋は、今もどこかの街にある。


 地名は書かない。

 建物名も書かない。

 働いている人たちの名前も、隣人の職業も、必要以上には書かない。


 ただ、ひとつだけ残す。


 怖かったことは、間違いではなかった。

 でも、誰かを責める必要もなかった。


 古い建物は、ときどき別々の生活を混ぜてしまう。


 その混ざったものが、声になることもある。

 匂いになることもある。

 誰かの恐怖になることもある。


 だからこそ、まず見る。


 音を聞く。

 匂いを分ける。

 人を責める前に、建物を見る。


 それが、今回の市影譚だった。

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