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市影譚-短編シリーズ  作者: 鳥ノ木剛士


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閑話 褒め合う二人

 帰りの車内で、私はしばらく黙っていた。


 録音のことも、浴室のガラスに残っていた小さな手の跡も、まだ頭の中にあった。


 けれど、それとは別に、黒沢さんのことも考えていた。


 最初に会った時は、正直に言えば怖かった。


 首元から見えるタトゥー。

 大きな体。

 低い声。

 夜の街で仕事をしている人特有の、こちらを見透かすような目。


 でも、実際に話してみると違った。


 怖がるスタッフを責めない。

 食べない子には食べろと言う。

 女性事務員を必ず置く。

 子どもがいるスタッフを追い返さない。

 そして、建物の問題だと分かれば、すぐに動く。


 見た目より、ずっと人を見ている人だった。


 そんなことを考えていると、桂一さんが前を見たまま言った。


「あの店長な」


「はい」


「慈善団体や、こども食堂に寄付してるんだよ」


 私は少し驚いて、桂一さんの横顔を見た。


「そうなんですか」


「うん。自分の服とか車にはあまり金を使わないのに、そういうところには出す」


「黒沢さんらしいですね」


「そう見えた?」


「はい。最初は怖かったですけど」


「それは本人も分かってる」


 桂一さんは、少しだけ笑った。


「むしろ、怖く見せてるところもあると思うよ」


「女の子たちを守るためですか」


「たぶんね。夜の街では、優しいだけだと守れない時がある。彼は、それを知ってる」


 少し間があった。


 車のライトが、前方の道路標識を白く照らして通り過ぎる。


「黒沢は、震災で身内を失ってる」


 桂一さんは、詳しくは言わなかった。


 私も、聞き返さなかった。


「若い頃は、本当に飯を食えてなかった時期もある。だから、お金の本当の価値を知ってるんだと思う」


「本当の価値」


「見栄を張るためでも、強く見せるためでもなくて、人が今日を越えるためのものとして見てる」


 桂一さんの声は、静かだった。


「だから、必要な場所には出す。こども食堂とか、行き場のない人を支える団体とか。自分が昔、欲しかったものに近い場所なんだと思う」


 私は、昼間の待機所を思い出した。


 ゼリー飲料。

 サプリメント。

 子どもの声。

 食べないスタッフに、食えと言っていた黒沢さん。


 あれは、ただの管理ではなかったのかもしれない。


「善人ですね」


 私がそう言うと、桂一さんは少しだけ首を振った。


「本人は嫌がると思うよ」


「そうなんですか」


「善人って言葉は、少しきれいすぎる。彼はたぶん、放っておくと戻れなくなる人を知ってるだけだよ」


 その言い方に、私はしばらく黙った。


 桂一さんは、あまり人を褒めない。


 褒める時も、分かりやすく言わない。


 でも今の言葉は、たぶん褒めていた。


 私は、さっき別れ際に黒沢さんから言われたことを思い出した。


 桂一さんが管理人さんと話している間、黒沢さんが私に近づいて、小さな声で言った。


「桂一のこと、頼むな」


 私は少し驚いた。


「頼む、ですか」


「あいつ、誤解されやすいだろ」


「そう……ですね」


「昔、色々あったんだよ。詳しくは俺が言うことじゃねぇけど」


 黒沢さんは、店の奥を一度見てから続けた。


「大切なものを持たないようにしてる節がある。持つと失くすと思ってんのか、壊すと思ってんのか知らねぇけどな」


 その言葉に、私は返事ができなかった。


「でも、あいつは人を見捨てるやつじゃねぇ」


 黒沢さんは、照れ隠しのように少し笑った。


「だから、見守ってやってくれ。近づきすぎなくていい。あいつは近づかれすぎると逃げるから」


「……分かります」


「分かるのかよ」


「少しだけ」


 黒沢さんは、それを聞いて笑った。


「なら大丈夫だな」


 その時の声が、なぜか耳に残っていた。


 車は、夜の国道を走っている。


 窓の外には、コンビニの明かりと、閉まった店の看板が流れていく。


 私は、桂一さんに言った。


「黒沢さんも、桂一さんのことを褒めていましたよ」


「何を?」


「言いません」


「なんで」


「本人同士で言ってください」


 桂一さんは、少しだけ嫌そうな顔をした。


「それは面倒だな」


「そう言うと思いました」


 私は、少し笑ってしまった。


 二人は、たぶんお互いを面と向かって褒めることはない。


 片方は、相手が慈善団体やこども食堂に寄付していることを、本人には言わない。

 もう片方は、大切なものを持たないようにしていることを心配しているのに、本人には言わない。


 どちらも、相手のいないところでだけ、相手のことを少し話す。


 それを聞かされる私は、少し困る。


 けれど、悪い気はしなかった。


 こういう関係を、友人と言うのだろう。


 そう思った。


 市影譚の記録には、たぶん残らない。


 でも、私はその夜のことを、しばらく忘れないと思う。

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