case3 はじまり
市影譚への相談は、いつも問い合わせフォームから来るわけではない。
むしろ、本当に扱いに困る話ほど、もっと曖昧な場所から始まる。
消防団の集まり。
道の駅の休憩室。
農繁期の終わりに開かれる、地元の小さな飲み会。
ラーメン屋の座敷。
その滝の話も、最初はそうだったらしい。
県内の山側、とだけ書いておく。
山の名前も、滝の名前も、近くの施設名も出さない。
理由は簡単で、行ってほしくないからだ。
そこは観光地ではある。
産直施設があり、温泉があり、冬には白くなる山がある。
けれど、夜に滝を見に行く場所ではない。
後で聞いた話では、その日、地元の消防団員や道の駅の管理人、米農家、役場の若い職員が、町のラーメン屋に集まっていた。
居酒屋ではなく、ラーメン屋だったところが、その町らしいと思った。
座敷の隅で、餃子の皿と瓶ビールが空いていく。
誰かが頼んだ味噌ラーメンの湯気が、古い換気扇に吸われていく。
壁には、色あせた短冊メニューが貼ってあった。
「また昨日、駐車場に車いたべ」
最初にそう言ったのは、道の駅の管理人だった。
「滝の方さ行ったんだな」
消防団の一人が、箸を置いて言った。
「YouTubeだか何だか知らねぇけど、夜中にライト持って騒いでんだよ」
「ゴミ拾うの、こっちなんだぞ」
「役場に言えば?」
「言ってる。けど、噂だけじゃ動きづらいってよ」
役場の若い職員は、困ったようにグラスを見ていたという。
「正式に立入禁止にしたら、逆に来る人もいますから」
「隠してるって言われるやつだな」
「そうです」
その言葉に、座敷が少し黙った。
地元の人たちは、あの滝に何かが出ると言いたかったわけではない。
ただ、夜に行く場所ではないと知っていた。
足場が濡れる。
冬は凍る。
滝の音で声が届かない。
道が狭い。
何かあった時、救助に入る方も危ない。
けれど、そういう現実的な危険ほど、画面の中では広がりにくい。
広がるのは、たいてい一枚の写真だ。
夜の滝に、白い人影が写っている。
それだけで十分だった。
「市影譚って知ってますか」
若い消防団員が、そこで口を開いた。
座敷の空気が少し止まったらしい。
「なんだ、それ」
「怪談とか、変な場所の話を扱ってる有名サイトの管理人なんです。昔、ちょっと知り合って」
「心霊サイトか?」
「いや、そういう煽り方はしないです。現地見て、危ないところは危ないって書く感じです」
土産センターの管理人が、腕を組んだ。
「怖がらせないで書けるのか?」
「たぶん。あの人なら、むしろ怖がらせない方向にすると思います」
「じゃあ、連絡してみろ」
「いいんですか?」
「このまま夜中に来られるよりはいい」
それが、市影譚に話が来た最初だった。
正式な依頼書があったわけではない。
役場から委託されたわけでもない。
誰かが深刻な顔で、怪異を証明してほしいと言ってきたわけでもない。
地元の人たちが困っていた。
それだけだった。
翌日、桂一さんのところに電話が来た。
私はその時、作業部屋で前回の記録を整理していた。
換気扇の型番と録音ファイルの名前を照合しているところだった。
市影譚の仕事は、現場に行く時間より、帰ってからの方が長い。
録音を聞く。
写真を選ぶ。
公開していい情報と、伏せる情報を分ける。
相手の職業や住所が分かりすぎないように、文章を削る。
怖い話は、書きすぎると誰かを傷つける。
それを前回、私はよく分かった。
桂一さんのスマートフォンが鳴った。
表示された名前を見て、桂一さんは少しだけ首を傾げた。
「珍しいな」
「仕事ですか?」
「たぶん」
桂一さんは電話に出た。
「はい、水野です」
私は手元のファイル名を直しながら、何となく聞いていた。
最初は、ただの近況報告のようだった。
けれど、しばらくすると、桂一さんの声が少しだけ変わった。
「夜に滝?」
私は手を止めた。
「写真に人影が写るって話か」
桂一さんは、机の端にあったメモ用紙を引き寄せた。
滝。
夜。
写真。
人影。
道の駅。
駐車場。
ゴミ。
冬、足場。
短い単語が、紙の上に並んでいく。
「役場は?」
少し間があった。
「正式には動きにくい。まあ、そうだろうね」
桂一さんは、メモの端に小さく線を引いた。
「場所は記事に出さないよ」
電話の向こうで、相手が何か言ったらしい。
「出さない。写真も、たぶん載せない。載せたら来るから」
その言い方は、はっきりしていた。
通話は十分ほどで終わった。
桂一さんはスマートフォンを置き、メモを見下ろした。
「今度は滝ですか」
「うん」
「怪談ですか?」
「怪談として広がってる、危険箇所の話かな」
桂一さんは、ペン先で「人影」と書いた部分を軽く叩いた。
「夜の滝に、人が写るらしい」
「本当に人が?」
「そこは見てから」
「場所は?」
「県内の山側。地名は出さない」
「最初から?」
「最初から」
桂一さんは、迷わずそう言った。
「行ってほしくない場所だからね」
私は頷いた。
前なら、その言い方を少し冷たいと思ったかもしれない。
でも、今は分かる。
市影譚が地名を伏せるのは、隠すためではない。
現地を守るためだ。
怖い場所は、名前を出すと消費される。
消費されると、人が来る。
人が来ると、生活が壊れる。
今回は、すでにそれが起き始めているらしかった。
私たちはその日の午後、車で山の方へ向かった。
桂一さんは、いつものように黒のスラックスに、ノリの効いたワイシャツを着ていた。
現場へ行く格好としては、少しきちんとしすぎているようにも見える。
けれど、地方で人に会う時、桂一さんはだいたいこの格好を崩さない。
寒い時期になると、ワイシャツは少し厚手になる。
その上から、地味な色のダウンを羽織る。
作業着ではない。
でも、話を聞きに行く人間としては、ちょうどいい。
相手に警戒されすぎず、軽く見られすぎない。
桂一さんの服装には、そういう線引きがあるように思う。
一方で、私はもう少しラフだった。
白のカットソーに、薄手のカーディガン。
動きやすいワイドパンツ。
足元は、汚れてもいいローカットのスニーカー。
髪は後ろでまとめていた。
市影譚では、写真を撮ったり、録音機を出したり、現地でメモを書いたりする。
きちんとしすぎても動きづらいし、ラフすぎても相手に失礼になる。
事務員にも、現地スタッフにも、少し観光客にも見える。
そのくらいの曖昧さが、私にはちょうどよかった。
街を抜けると、田んぼが増えた。
水の張られていない季節だったが、区画の広さで米どころだと分かる。
道沿いには、低い建物の飲食店がぽつぽつと並んでいた。
私は助手席から外を見ながら言った。
「飲食店が意外と多いんですね」
「うん。中華系が主だね。ラーメン屋とか、町中華とか」
「何か理由があるんですか?」
「田んぼが多いだろ。米農家が多い場所では、和食屋というより、ラーメン屋が繁盛しやすいからね」
「そっか。米は家で食べられるから」
「そう。外で食べるなら、家で出にくいものがいい。ラーメン、餃子、チャーハン。そういう店が残りやすい」
言われてみれば、道沿いの店はどれも派手ではなかった。
観光客向けというより、地元の人が昼に寄る店。
作業着のまま入れる店。
軽トラが停めやすい店。
米どころの外食は、思ったより生活に近い。
山が近づくにつれて、空気が少しずつ冷たくなっていった。
産直施設の看板が見えた。
温泉の案内板もある。
冬にはスキー客も来るらしい山が、雲の下に重く見えている。
観光地ではある。
けれど、華やかではない。
観光と生活が、同じ道の上に並んでいる。
そういう場所だった。
「滝って、そんなに危ないんですか」
私が聞くと、桂一さんは少しだけ考えた。
「昼に見るだけなら、きれいな場所だと思うよ」
「夜は?」
「夜は、きれいな場所ほど意味を足される」
「意味を足される」
「人影が写る。昔から戻れなくなる場所だ。地元が隠してる。そういう言葉が乗ると、ただの滝ではなくなる」
桂一さんは、前を見たまま言った。
「でも、本当に怖いのは噂じゃない」
「何ですか?」
「噂を確かめに行く人が出ること」
その言葉で、私は窓の外を見た。
田んぼの向こうに、山が近づいている。
山は何も言わない。
滝も、まだ見えない。
それでも、そこへ向かう車の中で、私は少しだけ嫌な感じを覚えていた。
幽霊が出るかどうかではない。
見たいものを見に行く人たち。
映したいものを映しに行く人たち。
そして、それを止めたい地元の人たち。
今回の市影譚は、たぶんその間に立つことになる。
道の駅の駐車場に着くと、管理人の男性が待っていた。
年配というほどではないが、若くもない。
日に焼けた顔で、作業用のジャンパーを着ている。
私たちを見ると、軽く頭を下げた。
「市影譚の方ですか」
「水野です」
「相沢ちづるです。記録を担当しています」
名刺を渡すと、管理人さんは少し安心したように受け取った。
「わざわざすみません」
「いえ。まず、話を聞かせてください」
桂一さんが言うと、管理人さんは土産センターの裏手へ案内した。
建物の陰には、ゴミ袋がいくつか置かれていた。
「これ、昨日の夜の分です」
袋の中には、コンビニの袋、ペットボトル、菓子の空き箱、使い捨てのライトの包装が入っていた。
「滝の方へ行った人たちの?」
「たぶん。全部がそうとは言わねぇけど、夜中に車停めて、朝これがあるんですよ」
管理人さんは、ため息をついた。
「出るか出ねぇかより、来られるのが困るんだよ」
その一言で、今回の話の形が決まった気がした。
これは、幽霊を探す話ではない。
人が来てしまう話だ。
山の方から、低く水の音が聞こえた。
まだ滝は見えない。
けれど、その音だけが、白く滲むように空気の中へ混ざっていた。




