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市影譚-短編シリーズ  作者: 鳥ノ木剛士


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市影譚-EP0【罠猟の荷運びバイト】ブルーシート

 ブルーシートは、安いものではなかった。


 ホームセンターで売っている薄い青ではない。厚手で、防水の効いた、土木現場で資材を覆う時に使うようなものだった。端には金属のハトメがあり、何か所かをロープで縛ってある。


 その縛り方が、妙だった。


 獣を包んだにしては、きれいすぎる。


 雑に巻いたのではない。運びやすいように、外から形を整えたように見えた。


 桂一は、その場から動かずに周囲を見た。


 踏み荒らされた草。

 泥に残った長靴の跡。

 伸びたワイヤー。

 折れた細い枝。

 白く撒かれた石灰。


 確かに、ここで何かが暴れた痕跡はあった。


 だが、それはイノシシが罠に掛かって暴れた跡と、少し違っていた。


 イノシシが暴れた時の跡は、もっと荒い。地面を削る。泥を跳ね上げる。周囲の草を押し倒し、鼻先や牙で土を掘る。何より、匂いが残る。


 獣の匂い。

 血の匂い。

 泥と脂の混ざった、山の奥でしか嗅がない匂い。


 それが、ない。


 代わりにあるのは、消毒薬の匂いだった。


 桂一はマスクをつけていたが、それでも分かった。


 山にある匂いではない。


 病院ほど清潔ではなく、食品工場ほど乾いてもいない。もっと中途半端な、現場で急いで撒いた薬品の匂いだった。


 佐原は、ブルーシートから少し離れた場所で立ち止まった。


「ここからは、俺が言った通りにしろ」


「分かりました」


「触れと言うまで触るな。覗くな。ほどくな」


「はい」


「あと、名前をつけるな」


 桂一は、そこで佐原を見た。


「名前?」


「イノシシとか、熊とか、人とか。そういうことを言うな」


 佐原の声は低かった。


 怒っているのではない。


 怯えている、というのとも違う。


 ただ、決まりごとを確認しているような声だった。


「じゃあ、何て呼べばいいんですか」


「荷物でいい」


 桂一は返事をしなかった。


 荷物。


 そう呼んだ瞬間に、目の前のものが少し遠くなる気がした。


 佐原は腰を落とし、ブルーシートの端を確認した。手袋を二重にしている。外側は厚手の作業手袋、その下に薄いニトリル手袋をつけていた。


 桂一もそれに倣って、持ってきた薄手の手袋を作業手袋の下に入れた。


 佐原はそれを見て、小さく頷いた。


「いい」


 褒めたわけではない。

 必要な手順を満たした、というだけの反応だった。


 桂一は一歩近づいた。


 ブルーシートの包みは、思っていたより小さかった。


 大きなイノシシではない。

 かといって、子どものイノシシとも違う。


 長さはある。

 だが、胴が細い。


 横から見た時、イノシシ特有の丸みがなかった。背の厚みも、腹の張りもない。四肢にあたる部分があるように見えるが、その位置が揃いすぎている。


 まるで、誰かが膝を抱えているようにも見えた。


 桂一は、その考えをすぐに追い払った。


 佐原が言ったからではない。


 自分で、そう考えたくなかった。


「これ、もう死んでるんですか」


 口にしてから、桂一はその質問がよくなかったことに気づいた。


 佐原の手が一瞬だけ止まった。


「動かねぇなら、その方がいい」


「死んでるかどうかじゃなくて?」


「そうだ」


 佐原は、シートの結び目を確認していた。


 ほどくわけではない。むしろ、ほどけないように確かめている。


 桂一は視線を下げた。


 シートの下から、何かが染み出している様子はなかった。血も、体液も、泥水もない。濡れているのは地面だけだ。


 罠に掛かった獣を血抜きして、袋に入れ、ブルーシートで巻く。


 手順としてはありえなくない。


 ただ、それなら普通、もっと汚れる。


 何かが出る。

 何かが匂う。

 何かが残る。


 目の前の包みには、それがない。


 ただ、そこにある。


「水野」


 佐原が言った。


「こっちを持て」


 桂一は、指示された側へ回った。


 シートの端には、ロープが輪のように通してある。そこを二人で持ち上げるらしい。


「腰で持て。腕だけで行くな」


「はい」


「滑ったら落とせ。支えようとするな」


「落としていいんですか」


「お前が落ちるよりいい」


 それは山仕事としては正しい。


 足場の悪い場所で、重いものを無理に支えると、人間の方が落ちる。荷物より人間の方が大事だ。佐原は、そういう基本を外さない。


 だからこそ、桂一は余計に嫌だった。


 基本を外さない人間が、今日だけ何かを隠している。


「せーので行くぞ」


 佐原が言った。


 桂一はロープを握った。


 厚手の手袋越しに、ロープの湿り気が伝わってくる。


「せーの」


 二人で持ち上げた。


 軽かった。


 桂一は、思わず力を余らせた。


 イノシシなら、この軽さはおかしい。


 もちろん個体差はある。小さな個体なら軽い。だが、それでも獣の体には重さの芯がある。肉と骨と内臓の詰まった、低い重心がある。


 これは違った。


 軽い。

 だが、空ではない。


 重心が読めない。


 持ち上げた瞬間、包みの中で何かがわずかにずれた。液体が動くような重さではない。砂袋のようでもない。


 もっと、関節のあるものが姿勢を変えたような重さだった。


 桂一の手に、嫌な力が入った。


「止まるな」


 佐原が言った。


「はい」


 二人は歩き出した。


 林道までは遠くない。


 だが、足場が悪い。


 踏み跡はぬかるみ、草の下に石が隠れている。片側は斜面で、もう片側は沢へ下っている。包みを持ったまま足を滑らせれば、簡単に転ぶ。


 桂一は足元だけを見るようにした。


 ブルーシートを見ない。

 中身を考えない。

 持っているものを、ただ荷物として扱う。


 そうしようとした。


 だが、無理だった。


 手に伝わる感触が、考えるなと言っても考えさせた。


 包みの中身は、硬い部分と柔らかい部分があった。


 骨のような芯。

 肉のような沈み。

 そして、持ち上げるたびに、どこかがほんの少し遅れてついてくる。


 獣なら、もっと全体が一つの塊として動く。


 これは、違う。


 桂一は口を開きかけた。


「喋るな」


 佐原が先に言った。


 桂一は口を閉じた。


 佐原は前を向いていた。足元も見ているが、それ以上に、周囲を気にしていた。


 右の斜面。

 左の沢。

 後ろの林道。

 頭上の枝。


 何かを警戒している。


 熊ではない。


 熊を警戒する時の見方ではなかった。


 もっと、来る方向が分からないものを警戒しているように見えた。


 包みを持ったまま、二人はゆっくり進んだ。


 途中で、桂一の長靴が泥に沈んだ。


 足首までではない。だが、抜く時に音がした。


 その瞬間、ブルーシートの中で何かが動いた。


 大きくではない。


 ほんの少し、内側から押したような動き。


 桂一は反射的に手を止めた。


「動くな」


 佐原の声が低く落ちた。


「今、動きました」


「風だ」


「風じゃないです」


「風だ」


 佐原は言い切った。


 桂一は、それ以上言えなかった。


 山の中には、たしかに風があった。杉の枝がわずかに揺れ、湿った空気が斜面を下りてくる。


 だが、今の動きは外からではない。


 中からだった。


 桂一は、ロープを握り直した。


 シートの中身が、また静かになる。


 静かになったことが、逆に嫌だった。


 林道が見えてきた。


 佐原の軽トラックが、木々の間に見える。


 そこまで来て、桂一はようやく息を吐いた。思っていた以上に、呼吸が浅くなっていた。


「一回置きますか」


「置くな」


「でも」


「置いたら、また持つことになる」


 佐原の言い方は、理屈としてはおかしかった。


 置けば休める。

 休めば持ち直せる。

 荷運びなら、それが普通だ。


 だが佐原は、置くことを嫌がっていた。


 地面に戻したくないのだ。


 桂一は、それに気づいた。


 包みは、山から下ろさなければならない。


 途中で置いてはいけない。


 その理由を、桂一は聞かなかった。


 聞いても答えないことが分かっていた。


 軽トラックの荷台まであと数歩というところで、佐原が先に言った。


「ゆっくり上げるぞ」


「はい」


「角に引っ掛けるな」


「分かってます」


「分かってねぇから言ってる」


 佐原の声が、わずかに荒れた。


 桂一は言い返さなかった。


 荷台のあおりは下ろされていた。

 その上に、古いゴムマットが敷かれている。


 獣を運ぶ時のための準備としては、普通だった。


 ただ、荷台の隅にも、白い粉が薄く撒かれていた。


 桂一はそれを見ないふりをした。


「せーの」


 二人で包みを荷台へ持ち上げた。


 その瞬間だった。


 ブルーシートの端が、荷台の金具に引っかかった。


 ほんの少しだけ、めくれた。


 時間にすれば、一秒もなかったかもしれない。


 だが、桂一は見た。


 泥のついた、細いもの。


 腕のように見えた。


 人間の腕、と言い切るには細すぎた。

 獣の前脚、と言うには関節の向きが違った。

 毛はない。

 皮膚のようなものは、灰色がかった薄い色をしていた。

 手首にあたる部分があり、その先に、指のようなものが折りたたまれていた。


 本数までは分からなかった。


 数えようとした瞬間、佐原がシートを叩きつけるように戻した。


 乾いた音がした。


 桂一は息を止めていた。


 佐原は、桂一を見なかった。


 ただ、低い声で言った。


「今見たことは忘れるように努力しておけ」


 桂一は、すぐには返事ができなかった。


「……え?」


「お前にもこの先、出会う機会があるかもしれねぇが」


 佐原はロープを取り、包みを荷台に固定し始めた。


 その手つきは速かった。


 慣れている。


 嫌になるほど、慣れている。


「俺みたいに、しばらく眠れなくなるぞ」


 桂一は、自分の手を見た。


 手袋をしている。

 何もついていない。

 血も、泥も、体液も。


 それでも、何かが触れたような気がした。


「はい」


 桂一は言った。


 声が少し遅れて出た。


「分かりました」


「分かってねぇよ」


 佐原は、ロープを強く引いた。


 荷台の中で、ブルーシートの包みがわずかに沈んだ。


「分かる必要もねぇ」


 桂一は、それ以上何も言わなかった。


 佐原は包みを固定し終えると、荷台のあおりを上げた。


 金具がはまる音が、林道にやけに大きく響いた。


 その音の後、山がまた静かになった。


 沢の音だけが聞こえる。


 桂一は、助手席に戻ろうとして、ふとブルーシートを見た。


 包みは動いていなかった。


 ただ、さっきより少しだけ形が変わっているように見えた。


 丸くなっていた。


 荷台の隅で、膝を抱えるように。


「乗れ」


 佐原が言った。


 桂一は、黙って助手席に乗った。


 ドアを閉める。


 車内に戻ると、土と煙草の匂いがした。


 その匂いが、さっきよりずっと人間のものに感じられた。


 佐原はエンジンをかけた。


 すぐには発進しなかった。


 ハンドルを握ったまま、前を見ている。


「佐原さん」


「何だ」


「これ、生きてるんですか」


 佐原は、少しだけ目を閉じた。


 それから、答えた。


「生きてる」


 桂一は、喉の奥が詰まるのを感じた。


「でも、血抜きは済んでるって」


「あれは、そう言えって言われただけだ」


「誰に」


「聞くな」


 佐原はギアを入れた。


 軽トラックがゆっくり動き出す。


 タイヤが泥を噛む。


 荷台で、ロープが小さく軋んだ。


 桂一は、バックミラーを見ないようにした。


 だが、視界の端に映る。


 青い包み。

 白い粉。

 濡れた荷台。


 そして、その内側で、何かがゆっくりと姿勢を変えたような気がした。


 獣の暴れ方ではなかった。


 逃げようとしているのでもない。


 まるで、自分の体がまだそこにあるのかを、確かめているような動きだった。


 佐原は前だけを見ていた。


 桂一も、前を見るしかなかった。


 林道は、来た時よりも狭く見えた。

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