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市影譚-短編シリーズ  作者: 鳥ノ木剛士


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市影譚-EP0【罠猟の荷運びバイト】山を下りる

 林道は、来た時よりも狭く見えた。


 実際に道幅が変わったわけではない。

 軽トラック一台分の砂利道。左は斜面、右は沢。両側から草が伸び、枝が車体をこする。


 ただ、荷台にあれを乗せたことで、道の意味が変わっていた。


 行きは、山へ入る道だった。

 帰りは、山から何かを連れ出す道だった。


 佐原は、行きよりも慎重に運転していた。


 速度は出さない。

 ハンドルも切りすぎない。

 ぬかるみに入る前に、少しだけ車体をずらす。

 落石を避ける時も、荷台が大きく揺れないようにしている。


 獣を運ぶ時の運転ではある。


 だが、獣を運ぶ時なら、ここまで気を遣うだろうか。


 桂一は、助手席の窓の外を見るようにした。


 バックミラーは見ない。

 荷台も見ない。

 青い包みのことを考えない。


 そう決めたのに、音が後ろから来た。


 きし。


 ロープが鳴った。


 軽トラックの揺れに合わせた音ではない。


 少し遅れて、ブルーシートが擦れる音がした。


 ずる、と。


 桂一は、視線だけを動かしかけた。


「見るな」


 佐原が言った。


 桂一は、前を向いた。


「今、動きました」


「揺れただけだ」


「揺れ方が違います」


「違っても、見るな」


 佐原の声は落ち着いていた。


 落ち着きすぎていた。


 桂一はそれが嫌だった。


 初めてではない人間の声だった。


 林道の上に、雨粒が落ち始めた。


 最初は小さかった。フロントガラスに、点のような跡がつく。それが数秒おきに増えていく。佐原はワイパーを一度だけ動かした。


 濡れたガラスの向こうで、杉林が少し歪んだ。


 車内には、土と煙草の匂いがあった。

 それに、さっきから薬品の匂いが混ざっている。


 荷台から入ってきているのか。

 それとも、手袋や服に染みたのか。


 桂一には分からなかった。


「佐原さん」


「何だ」


「これは、どこに運ぶんですか」


「下だ」


「下って」


「聞いてねぇ」


 佐原は短く答えた。


 その答えが嘘ではないことは分かった。


 佐原も、おそらく全ては知らされていない。


 ただ、山から下ろせと言われた。

 それだけなのだろう。


「誰から頼まれたんです」


「俺に直接来たわけじゃねぇ」


「じゃあ、誰に」


「猟友会の上の方だ」


「役場ですか」


「役場かどうかも知らねぇ」


「でも、関わってますよね」


 佐原は答えなかった。


 雨が少し強くなった。


 ワイパーが、今度は一定の間隔で動き始めた。


 ぎゅっ、ぎゅっ、とゴムがガラスを拭く音がする。


 その合間に、荷台からまた音がした。


 今度は、はっきりと分かった。


 内側から、ブルーシートを押す音だった。


 ばたつくのではない。

 暴れるのでもない。


 手のひらのようなものが、ゆっくりと布越しに形を確かめる。


 そんな音だった。


 桂一は息を止めた。


 佐原は速度を落とさなかった。


 ただ、左手でハンドルを握ったまま、右手でシフトノブを押さえた。


「佐原さん」


「喋るな」


「でも」


「声を聞かせるな」


 桂一は口を閉じた。


 声を聞かせるな。


 その言い方は、獣に対するものではなかった。


 獣は、人間の声に反応することがある。

 熊も、鹿も、イノシシも、音には反応する。


 だが、佐原の言い方は違った。


 言葉を理解するものに対して、話しかけるなと言っているように聞こえた。


 車は、林道のカーブをゆっくり曲がった。


 右側に沢が見えた。


 雨で水量が増えているのか、白く泡立っている。細い沢のはずなのに、音だけは大きかった。山の中では、沢の音が距離を消す。


 桂一は、ふと気づいた。


 鳥の声がしない。


 行きにも少ないとは思ったが、今はほとんど聞こえなかった。雨のせいだけではない。山全体が、息を止めているようだった。


 佐原が突然、ブレーキを踏んだ。


 車体が小さく前へ沈む。


 荷台でロープが軋んだ。


「どうしました」


 佐原は答えない。


 前方の路面に、白いものが落ちていた。


 石灰ではない。


 紙だった。


 雨で濡れて、泥に貼りついている。A4くらいの大きさで、片隅だけがめくれていた。印刷された文字が見えたが、泥と雨で読めない。


 佐原は車を止めたまま、しばらくそれを見ていた。


「降りますか」


「降りるな」


「紙ですよ」


「だから降りるな」


 佐原は、ゆっくりハンドルを切った。


 紙を踏まないように、避けて通る。


 桂一はそれを見ていた。


 車が横を通る瞬間、紙の一部が見えた。


 黒い文字が二つだけ読めた。


 接触。


 禁止。


 それだけだった。


 通り過ぎたあと、桂一は振り返りそうになった。


 やめた。


 見るな、と言われたからではない。


 見たら、戻れなくなる気がした。


 車内はしばらく無言だった。


 雨は強くも弱くもならず、林道を湿らせ続けている。ワイパーの音、タイヤが泥を踏む音、荷台のロープが鳴る音。


 その中で、桂一は自分の手が震えていることに気づいた。


 寒いわけではない。


 怖い、という言葉も少し違う。


 現場で危険を感じた時の緊張に近い。

 けれど、何に対して危険なのかが分からない。


 熊ではない。

 崩落でもない。

 罠でもない。


 もっと手前の、分類できないものだった。


「佐原さん」


 桂一は、声を低くした。


「このまま下ろして、本当に大丈夫なんですか」


「俺に聞くな」


「でも、山から出していいものなんですか」


 佐原の横顔が、わずかに動いた。


 答えが来るまで、少し時間があった。


「昔はな」


 佐原は言った。


「こういう時は、戻した」


「戻した?」


「山のもんは、山に戻す。そういう考え方をする年寄りがいた」


「今は違うんですか」


「今は、戻したら問題になる」


「何の問題です」


「人が見つける。写真を撮る。ネットに上げる。子どもが入る。役場に苦情が行く。警察が来る。新聞が嗅ぎつける」


 佐原は、そこで少しだけ口を歪めた。


 笑ったわけではなかった。


「山より、人間の方が面倒になったんだ」


 桂一は、何も言えなかった。


 その言葉は、妙に現実的だった。


 怪異を恐れているというより、社会の処理の方を恐れている。


 それが、佐原らしかった。


 林道の出口が近づいてきた。


 行きに通った白い軽バンは、まだ停まっていた。


 ただ、位置が少し変わっているように見えた。


 行きは林道の脇に寄せてあったはずだ。

 今は、少しだけ道側へ出ている。


 桂一は、それに気づいた。


 佐原も気づいたはずだった。


 だが何も言わず、軽トラックをゆっくり横に寄せた。


 白い軽バンの横を通る。


 サンシェードはそのままだ。

 ナンバーは泥で読めない。

 助手席側の傷も、雨に濡れて黒く見える。


 ただ、行きにはなかったものがあった。


 軽バンの後部ドアの下。


 そこに、白い粉がこぼれていた。


 小さな山になっている。


 石灰だ。


 桂一は、見ないようにした。

 だが、目に入った。


 佐原は窓の外を見ない。


 ハンドルを握る手に、少しだけ力が入っていた。


 ゲートまで戻った時、雨はさらに細かくなっていた。


 佐原は車を降り、チェーンを開けた。


 桂一も降りようとしたが、佐原が手で制した。


「乗ってろ」


「手伝います」


「いい」


 佐原は一人でゲートを開けた。


 その背中が、少しだけ小さく見えた。


 山を知っている男の背中ではなく、山から逃げようとしている男の背中だった。


 チェーンが外れ、ゲートが軋みながら開く。


 その音に重なるように、荷台で何かが動いた。


 今までで一番、大きかった。


 ブルーシートの包みが、内側からゆっくり膨らんだ。


 ロープが張る。


 荷台が、ぎし、と鳴る。


 桂一は、反射的にドアを開けかけた。


 その瞬間、佐原が怒鳴った。


「開けるな!」


 桂一は止まった。


 佐原の声を荒げるところを、桂一はほとんど見たことがなかった。


 山の中でも、現場でも、佐原は声を張らない。

 必要なことを低く言うだけの男だった。


 その佐原が、今ははっきり怒鳴った。


 桂一はドアノブから手を離した。


 荷台の動きは、すぐに収まった。


 ブルーシートは、また静かになった。


 佐原はしばらく荷台を見ていた。


 それから、ゲートを開けたまま運転席に戻ってきた。


 顔色が悪かった。


「大丈夫ですか」


「行くぞ」


「佐原さん」


「行くぞ」


 佐原はエンジンをかけた。


 軽トラックはゲートを抜けた。


 チェーンは開いたままだった。


「閉めなくていいんですか」


「あとで閉まる」


「誰が」


「知らん」


 桂一は、それ以上聞かなかった。


 ゲートを抜けると、空気が変わった。


 山の内側から、外側へ出た。


 それだけのことなのに、呼吸が少しだけ楽になった。


 道はまだ山道だったが、林道ではない。舗装されている。側溝がある。電柱がある。ガードレールがある。


 人間の作ったものがある。


 桂一は、それだけで安心している自分に気づいた。


 普段なら、山の中の方が落ち着くこともある。

 街より、林道の静けさの方が好きな時もある。


 だが、その日は違った。


 ガードレールがあること。

 電柱が立っていること。

 カーブミラーがあること。

 それらが、境界線のように感じられた。


 佐原は、そのまま山道を下っていった。


 しばらく走ると、前方が不自然に明るくなった。


 雨の日の午後にしては、光が強い。


 工事現場かと思った。


 だが、そこに工事予定はなかったはずだ。


 カーブを曲がると、広い待避所が見えた。


 黒い車が停まっていた。


 キャラバンだった。


 黒の車体に、雨粒が細かくついている。

 横にもう一台、同じような車がある。

 さらに奥には、白いワゴン車と、発電機らしいものが置かれていた。


 照明が焚かれている。


 夜の工事現場で使うような投光器が、いくつも立てられていた。白い光が雨に反射して、待避所全体を昼間よりも明るくしている。


 まぶしかった。


 明るすぎて、逆に見えにくい。


 光の外側は、ひどく暗く見えた。


 佐原は軽トラックをゆっくり止めた。


 エンジンは切らない。


 待避所には、白い防護服の人間がいた。


 一人や二人ではない。


 十人ほど。


 全員が、顔を覆い、手袋をし、長靴を履いている。

 誰も慌てていない。

 誰も騒がない。

 誰も、荷台を見て驚かない。


 そのことが、桂一には一番嫌だった。


 慣れている。


 この人たちは、慣れている。


 軽トラックが止まると、防護服のうち数人がすぐに動いた。荷台の方へ近づいてくる。手には担架のようなものと、さらに大きな防水袋を持っていた。


 佐原が小さく言った。


「降りるな」


「でも」


「お前は、もう十分だ」


 桂一は助手席に座ったまま、前を見た。


 防護服の人間たちが荷台を囲む。


 ロープをほどく手つきが早い。


 だが、誰も声を出さない。


 指示は、手振りだけで通っているようだった。


 その中で、一人だけ、防護服ではない男がいた。


 スーツ姿だった。


 黒ではなく、濃い灰色のスーツ。

 雨の中なのに傘を差していない。

 顔には白いマスクをしている。

 手には、薄い手袋をつけていた。


 背が高い。


 投光器の光が強すぎて、顔の細かいところは見えない。


 男は、防護服の一団から少し離れて立っていた。


 現場の人間ではない。

 だが、現場の中心にいる。


 そういう立ち方だった。


 やがて、男がこちらへ歩いてきた。


 革靴ではなかった。


 黒い長靴を履いていた。


 それが妙に目についた。


 スーツに長靴。

 マスク。

 手袋。

 白すぎる照明。

 雨。


 男は運転席側ではなく、助手席側に来た。


 桂一の窓を、指の背で軽く叩いた。


 佐原は、何も言わなかった。


 桂一は一度佐原を見た。


 佐原は前を向いたまま、低く言った。


「少しだけ開けろ」


 桂一は窓を少し下げた。


 雨の匂いと、強い消毒薬の匂いが車内に入ってきた。


 男は、桂一を見た。


 目元だけしか見えない。


「水野桂一さんですね」


 声は落ち着いていた。


 年齢は分からない。

 若くも聞こえるし、年を取っているようにも聞こえる。


「……はい」


「本日はご協力ありがとうございます」


 礼を言う声だった。


 だが、礼を言われている感じはしなかった。


 手順の一部として、その言葉を置かれたようだった。


 男は続けた。


「わかっているとは思いますが、今回の件は公には口外しないように」


 桂一は、男を見返した。


「何を運んだんですか」


 男はすぐには答えなかった。


 雨が、男の肩に細かく落ちていた。

 スーツの生地が濡れて、色が少し濃くなっている。


「その質問に、正確な答えを用意することはできません」


「正確じゃなくていいです」


「では、答えない方がいい」


 男は静かに言った。


 会話が成立しているようで、していない。


 桂一はそう感じた。


「イノシシではないですよね」


「そういう扱いにはしていません」


「じゃあ、何扱いなんですか」


 男の目元が、少しだけ動いた。


 笑ったのかもしれない。


「扱いを決めるために、我々がいます」


 荷台の方で、防護服の人間たちがブルーシートの包みを移していた。


 桂一は見ないようにした。


 だが、視界の端で、青いものが持ち上がるのが分かった。


 誰も驚かない。

 誰も声を上げない。


 ただ、丁寧に、速やかに、処理している。


 男は言った。


「佐原さんに君を呼んでもらったのは、現場対応と未来のためです」


「未来?」


「君の活動は知っています」


 桂一は、そこで初めて背中に冷たいものを感じた。


 荷台の中身を見た時とは違う冷たさだった。


 自分が見られていた。


 その事実の方が、山の中身よりも現実的に怖かった。


「地域の仕事ブログ。林道情報。熊の目撃情報。古い道の確認。役場への問い合わせも、比較的丁寧ですね」


「調べたんですか」


「知っています」


 男は、言い方を変えなかった。


「詳しく話すことは得策ではありません。ただ、多少の真実を流すことは許可します」


「許可?」


「秘密が多すぎると、人は探ります。完全に隠すより、形を整えて外へ出した方が安全な場合もある」


 桂一は言葉に詰まった。


 男は続けた。


「うまくごまかして、ブログに書いてください」


 雨の音が、少しだけ強くなった。


 桂一は、窓の隙間から男を見た。


「あなたは、誰なんですか」


 男は懐から名刺入れを出した。


 手袋をしたまま、一枚抜く。


 濡れないように、窓の隙間から差し入れてきた。


 桂一は受け取った。


 名刺には、所属も肩書きもなかった。


 名字がひとつ。


 灰島。


 その下に、電話番号のような数字が一列だけ印字されていた。


 桂一は、その場では数字の桁まで数えなかった。


 ただ、普通の名刺ではないことだけは分かった。


 灰島は言った。


「用がある時だけ」


 桂一は、名刺を見たまま聞いた。


「用がない時は?」


 灰島は、少しだけ首を傾けた。


「用を作らないことです」


 佐原が運転席で、低く言った。


「用がねぇなら、関わるな」


 灰島は佐原を見た。


「佐原さんは、理解が早い」


 佐原は答えなかった。


 桂一は、名刺を握ったまま、もう一度荷台の方を見そうになった。


 灰島が、それを止めるように言った。


「見ない方がいい」


「もう見ました」


「では、これ以上は」


 灰島の声は穏やかだった。


「人は、見た量に応じて、戻れなくなります」


 桂一は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。


 だが、佐原が小さく息を吐いた。


 理解している人間の反応だった。


 防護服の一団が、包みを黒いキャラバンへ運んでいく。


 扉が開く。


 内側は見えない。


 白い光の中に、青い包みが吸い込まれていく。


 その直前、ブルーシートが一度だけ動いた。


 中から、ゆっくりと。


 桂一は見てしまった。


 灰島も見ていた。


 佐原も、たぶん見ていた。


 だが、誰も何も言わなかった。


 扉が閉まる。


 重い音がした。


 それで終わりだった。


 灰島は窓から一歩離れた。


「この先の林道は、しばらく閉鎖されます」


「理由は」


「熊の危険性増大」


「本当に?」


「本当に、そう発表されます」


 桂一は、何も言えなかった。


 灰島は軽く頭を下げた。


「ご協力ありがとうございました」


 それから、雨の中を黒いキャラバンの方へ戻っていった。


 桂一は、手元の名刺を見た。


 灰島。


 数字。


 所属なし。


 肩書きなし。


 それだけ。


 佐原が言った。


「しまっとけ」


 桂一は名刺を財布に入れようとして、やめた。


 財布に入れるものではない気がした。


 結局、スマートフォンケースの内側に挟んだ。


 佐原は、それを横目で見ていた。


「なくすなよ」


「必要になるんですか」


「ならねぇ方がいい」


 佐原は、ようやくエンジンをかけ直した。


 黒いキャラバンの照明は、まだついたままだった。


 待避所を出る時、桂一はバックミラーを見た。


 白い防護服の人間たちは、すでに地面へ石灰を撒いていた。


 青い包みがあった場所に。

 軽トラックが停まっていた場所に。

 雨で流れる前に、白い粉を重ねるように。


 まるで、そこに何かがいたことを、地面ごと消そうとしているようだった。


 佐原は何も言わなかった。


 桂一も、何も言わなかった。


 山を下りたはずなのに、車内にはまだ、山の奥の空気が残っていた。

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