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市影譚-短編シリーズ  作者: 鳥ノ木剛士


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市影譚-EP0【罠猟の荷運びバイト】林道へ向かう

 集合場所のコンビニに着いた時、雨はまだ降っていなかった。


 ただ、空は低かった。


 山の方だけが、灰色に沈んでいる。市街地の上にある雲とは違う。もっと重く、もっと湿っていて、これから向かう場所だけを先に濡らしているように見えた。


 コンビニの駐車場は広かった。


 大型車用のスペースがあり、店の横には古い精米機が置かれている。入口近くののぼりは、湿気を含んで重たそうに揺れていた。ガラス戸の内側では、昼過ぎの店内放送が小さく流れている。


 桂一は車を端に停めた。


 長靴、作業手袋、着替え、マスク、タオル、ヘッドライト。荷物を確認していると、駐車場の奥に停まっていた軽トラックの運転席が開いた。


 佐原だった。


 紺色の作業着に、薄い泥のついた長靴。いつもの格好だった。けれど、顔つきはいつもと少し違った。眠れていない人間の顔に近い。


「来たか」


「はい」


 桂一はリュックを持って近づいた。


 軽トラックの荷台には、ブルーシート、ロープ、折りたたみのスコップ、古いコンテナが積まれていた。珍しい道具ではない。山仕事なら、どれも普通に見るものだった。


 ただ、コンテナの横に、未開封の消毒液が二本置かれていた。


 桂一はそれを見た。


 佐原も、桂一の視線に気づいた。


「念のためだ」


 また、その言葉だった。


 桂一は何も言わず、頷いた。


「自分の車はここに置いとけ。戻りはここまで送る」


「分かりました」


「荷物は最低限でいい。長靴と手袋。マスクは持ってけ」


 桂一はリュックから必要なものだけを取り出し、佐原の軽トラックへ移した。


 店の入口では、作業服姿の男が缶コーヒーを買って出てきた。軽くこちらを見たが、すぐに目を逸らした。山側の町では、作業着の男が二人で軽トラックに乗り込むことなど、珍しくもない。


 桂一は助手席に乗った。


 車内は、土と煙草と古い布の匂いがした。佐原は煙草を吸うが、車内で吸うところはほとんど見たことがない。それでも長年の匂いは、シートや天井に染みついていた。


 ダッシュボードには、古い地図が挟まれている。灰皿には、小銭と木の枝のようなものが入っていた。助手席の足元には、泥の乾いた跡がいくつもある。


 佐原はエンジンをかけた。


 ラジオはつけなかった。


 コンビニを出ると、すぐに道は細くなった。


 最初は集落の中を走った。低い屋根の家、田んぼ、用水路、錆びた農機具小屋。カーブミラーの下には、熊出没注意の黄色い看板が立っている。新しい看板ではなかったが、その上から貼られた注意紙だけが妙に新しかった。


 桂一はそれを目で追った。


「最近、出てるんですか」


「熊か」


「はい」


「出てる」


 佐原は短く答えた。


「今日の件も、それと関係ありますか」


 佐原は前を見たままだった。


「そういうことになってる」


 また、答えが少しずれていた。


 桂一は、それ以上聞かなかった。


 集落を抜けると、道路の両側に杉林が増えた。雨はまだ降っていないのに、路面はところどころ黒く濡れていた。山の水が染み出しているのかもしれない。タイヤが濡れた舗装を踏むたびに、低い音がした。


 しばらく走ったところで、佐原が言った。


「スマホ、圏外になるぞ」


「分かりました」


「写真は撮るな」


 桂一は佐原を見た。


「全部ですか」


「今日は撮るな」


「記録も?」


「頭の中だけにしとけ」


 桂一は少し黙った。


 現場で記録を残さないことは、あまり好きではなかった。写真を撮らないにしても、位置や時刻、状況くらいはメモしておきたい。後で曖昧になるからだ。


 けれど、佐原の声は硬かった。


「分かりました」


「悪いな」


「いえ」


 佐原が謝るのは珍しかった。


 それだけで、桂一はこの依頼が普通ではないと確信した。


 道はさらに細くなった。


 舗装はしてあるが、端の方は崩れている。側溝には落ち葉が詰まり、茶色く濁った水がゆっくり流れていた。ところどころに落石があり、佐原は慣れた手つきでそれを避けていく。


 車体の下で、泥が跳ねる音がした。


 桂一は窓の外を見ていた。


 山に入ると、音が変わる。


 市街地では、いろいろな音が重なっている。車、店、信号、人の声、遠くの工事音。けれど山道では、音が急に少なくなる。少なくなった分、ひとつひとつが近く聞こえる。


 タイヤが砂利を噛む音。

 枝が車体をこする音。

 沢の水が落ちる音。

 佐原の息。


 そして、ときどき、どこからともなく聞こえる小さな金属音。


 桂一は最初、荷台の道具が揺れているのだと思った。


 だが、音は一定ではなかった。


 軽トラックが揺れた時ではなく、揺れていない時にも鳴る。細い針金を、指で弾いたような音だった。


「今の音、何ですか」


「ワイヤーだろ」


「罠の?」


「山は音が回る」


 佐原は、それだけ言った。


 確かに、山では音の距離感が狂うことがある。沢の音が近く聞こえたり、遠くの作業音がすぐ横から聞こえたりする。桂一も、それは知っていた。


 けれど今の音は、説明できそうで、説明しきれなかった。


 桂一は、何も言わなかった。


 しばらくして、車は舗装の切れ目に差しかかった。


 そこから先は、林道だった。


 入口には、古いゲートがあった。錆びた鉄の支柱に、チェーンがかけられている。チェーンには南京錠がついていたが、佐原は車を降りると、慣れた手つきで鍵を開けた。


 桂一も降りた。


 空気が、さっきより冷たかった。


 同じ山の中なのに、ゲートのこちら側と向こう側で、湿り方が違う。奥から流れてくる空気には、腐葉土と杉の匂いが濃く混ざっていた。


 それから、もうひとつ。


 薬品の匂いがした。


 桂一は無意識に鼻を鳴らした。


 消毒液。


 それに近い。


 病院や食品工場ほど強くはない。だが、山道の入口で感じるには不自然だった。


 佐原はチェーンを外し、ゲートを開けた。


「ここから先は、あんまり喋るな」


「なぜですか」


「聞かれる」


 桂一は、佐原を見た。


 佐原はすぐに言い直した。


「音が響く」


「……分かりました」


 聞かれる。


 佐原は、たしかにそう言った。


 誰に、とは聞けなかった。


 軽トラックは林道へ入った。


 舗装はなくなり、道は砂利と泥に変わった。両側から草が伸び、車体の横を擦る。枝が窓に当たり、乾いた音を立てる。雨が降っていないのに、道の中央には水たまりがいくつもあった。


 山の奥へ進むほど、空が見えなくなっていった。


 杉の枝が頭上で重なり、昼間なのに薄暗い。ヘッドライトをつけるほどではないが、つけなければ路面の凹凸が見えにくい。佐原は無言でライトを点けた。


 白い光が、濡れた轍を照らした。


 桂一は、窓の外にいくつかの跡を見つけた。


 タイヤ跡。


 佐原の軽トラックより幅が広い。新しい。少なくとも、今日か昨日についたものだ。


 それが一本ではない。


 複数台が入っている。


「先に誰か来てますね」


 佐原は答えなかった。


「佐原さん」


「見るな」


 桂一は口を閉じた。


 見るな、と言われても、見えてしまう。


 轍は林道の奥へ続いている。ところどころで、車が停まったような跡がある。泥が深くえぐれ、白っぽい粉がわずかに混ざっていた。


 石灰だ。


 桂一はそう思った。


 山道に石灰があること自体は、ありえないことではない。消毒、畜産、農作業、いろいろな理由がある。


 けれど、林道の奥へ向かう轍に沿って、点々と白い粉が落ちているのは妙だった。


 佐原は、それを踏まないようにしているようにも見えた。


 林道は途中で大きく曲がった。


 左側は斜面。右側は沢へ落ちている。ガードレールはない。代わりに、古い木杭とロープがいくつか並んでいた。ロープは苔むしていて、役に立つようには見えなかった。


 桂一は自然と足元に力を入れた。


 佐原は慣れている。

 だが、慣れている人間が運転していても、山道は安全ではない。


 カーブを曲がった先で、佐原が速度を落とした。


 道の脇に、軽バンが一台停まっていた。


 白い車だった。


 しかし、ナンバーには泥がはねていて読めない。フロントガラスには内側から銀色のサンシェードが立てられていた。人が乗っている気配はない。


 桂一はその車を見た。


「役場ですか」


「知らん」


 佐原は短く答えた。


 知らん。


 その言い方は、知っている人間のものだった。


 軽トラックは白い軽バンの横を通り過ぎた。車内は見えなかった。助手席側のドアに、細い傷が何本もついている。獣が爪で引っかいたようにも見えたが、枝で擦れただけかもしれない。


 通り過ぎた後、桂一は振り返らなかった。


 佐原が、見るなと言ったからだ。


 さらに奥へ進むと、林道は少し開けた場所に出た。


 車一台が方向転換できる程度の広さだった。道の先はまだ続いているが、そこから先は草が深く、車では入りにくそうだった。


 佐原はエンジンを切った。


 急に、音が消えた。


 沢の音だけが残った。


 それから、遠くで何かがきしむ音がした。


 金属が引っ張られるような、細い音。


 桂一は助手席のドアを開ける前に、佐原を見た。


 佐原は前を向いたままだった。


 両手をハンドルに置いたまま、しばらく動かなかった。


「着いたんですか」


「ああ」


「獣は」


「この先だ」


 佐原はようやく手を離し、運転席のドアを開けた。


 外へ出ると、土の匂いが強くなった。


 湿った落ち葉。腐った木。沢の水。泥。夏前の山の匂い。


 その中に、やはり消毒薬の匂いが混ざっている。


 桂一は長靴に履き替え、手袋をつけた。


 佐原は荷台からロープとブルーシートを降ろそうとして、少し手を止めた。


 すでに持っていく必要はない。


 それは、桂一にも分かった。


 荷台にあるブルーシートとは別に、現場にはもう、包まれているものがある。


 佐原は結局、ロープだけを持った。


「行くぞ」


 桂一は頷いた。


 林道の脇から、さらに細い踏み跡が山の中へ入っていた。


 作業道というほど整っていない。人と獣が何度も通って、草が寝ただけの道だった。足元は柔らかく、ところどころに水が浮いている。


 佐原が先を歩く。


 桂一はその後ろを、半歩遅れてついていった。


 虫の音は少ない。


 鳥の声も、あまりしなかった。


 あるのは、沢の音と、二人の長靴が泥を踏む音だけだった。


 しばらく歩くと、草が不自然に倒れている場所が見えた。


 その先に、白い粉が撒かれていた。


 石灰だった。


 円を描くように、地面に白く残っている。


 その中心に、青いものがあった。


 ブルーシート。


 山の緑と泥の中で、その青だけが妙に浮いていた。


 桂一は、そこで足を止めた。


 シートは、すでに何かを包んでいた。


 獣の姿は見えない。

 血も見えない。

 罠に掛かった瞬間の荒々しさもない。


 ただ、処理が終わった後のように、それはそこに置かれていた。


 佐原は振り返らなかった。


「近づきすぎるな」


 桂一は喉の奥で返事をした。


 シートの周囲には、踏み荒らされた跡があった。


 草が倒れ、枝が折れ、泥が深くえぐれている。確かに、何かが暴れた痕跡はある。


 だが、その中心に置かれた包みは、ひどく静かだった。


 静かすぎた。


 桂一は、そこで初めて思った。


 罠に掛かった獣を見に来たのではない。


 もう、誰かが見た後のものを、運びに来たのだ。

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