市影譚-EP0【罠猟の荷運びバイト】佐原からの電話
その電話が来たのは、六月の終わりだった。
梅雨というには雨が少なく、夏というには山の湿り気がまだ強い時期だった。朝から空は白く曇っていて、午後になっても日差しは出なかった。窓を開けると、遠くの田んぼから水の匂いがした。
その頃の桂一は、まだ市影譚という名前を、今ほど大きく扱っていなかった。
地域の仕事ブログ。
自分ではそう呼んでいた。
内容は雑多だった。
道の駅の新しい売店を紹介したり、古い商店街の閉店情報をまとめたり、地元企業の求人記事を書いたり、時々、山道の通行止めや熊の目撃情報を整理したりした。
そこから派生して、細かい仕事も受けていた。
空き家の外観確認。
古い倉庫の写真撮影。
高齢者宅の荷物運び。
山道の入り口確認。
地域行事の記録。
草刈り前の現地確認。
便利屋と呼ばれれば便利屋だったし、取材代行と呼ばれれば取材代行だった。本人としては、どちらでもよかった。
ただ、何でも受けていたわけではない。
勝手に私有地へ入る仕事は断った。
人を探るような依頼も断った。
地元の噂を面白おかしく拾うだけの仕事も、なるべく受けなかった。
面倒でも、所有者を確認する。
必要なら役場に聞く。
危ない場所には近づかない。
それだけは、自分の中で決めていた。
その日、桂一は自宅の作業部屋で、前日に撮った写真の整理をしていた。
画面には、山側の集落にある小さな直売所の写真が並んでいた。軒下に吊るされた玉ねぎ、手書きの値札、古い冷蔵ケース、入口に置かれた泥つきの長靴。
どれも記事にするには地味だったが、桂一はそういう場所の方が好きだった。
派手な観光地より、何年も変わらずそこにあるものの方が、記録する意味があると思っていた。
机の端には、レシートと名刺が重なっていた。カメラのバッテリーは充電中で、床には長靴が乾かしてある。昨日の山道で泥を踏んだせいで、部屋の中にも少しだけ土の匂いが残っていた。
スマートフォンが鳴った。
画面には、佐原誠の名前が出ていた。
桂一は、少しだけ背筋を伸ばした。
佐原からの電話は、だいたい仕事だった。
元土建業で、今は猟友会にも関わっている男だ。五十代後半。口数は少ないが、妙に顔が広い。山道のこと、古い作業道のこと、誰がどこの土地を持っているか、どの沢筋が崩れやすいか、そういうことをよく知っていた。
桂一は、佐原から何度か単発の仕事をもらっていた。
罠の見回りに同行したこともある。
山道に倒れた枝をどかしたこともある。
獣が出た場所の写真を撮りに行ったこともある。
もちろん、猟そのものを軽く見ていたわけではない。
桂一はわな猟の免許を持っていた。第一種銃猟の免許も持っている。ただ、免許があることと、山で何かを殺すことは別だった。
佐原は、その違いをよく分かっていた。
だから、桂一に回してくる仕事は、いつも境界がはっきりしていた。
運ぶ。
記録する。
確認する。
手伝う。
撃つ、殺す、仕留める。
そういう仕事は、桂一には回さなかった。
桂一は通話ボタンを押した。
「はい、水野です」
少しだけ間があった。
山にいる時の佐原は、電話に出てもすぐには喋らないことがある。風の音や、車のエンジン音や、足元の音が先に聞こえる。
その時もそうだった。
受話口の向こうで、湿った風が鳴っていた。
「今、動けるか」
佐原の声は低かった。
「内容によります」
「罠に掛かった獣の荷運びだ」
桂一は、椅子の背もたれから身体を起こした。
「場所はどこですか」
「宮城の北側だ。山の方。前に一度、林道の入り口まで行ったことがあるだろ」
「ああ、あの沢沿いの」
「そうだ」
桂一は机の横に置いていた地図ファイルを引き寄せた。紙の地図を開く前に、佐原が続けた。
「奥までは入らなくていい。俺の車で行く」
「獣は?」
また、少し間があった。
「イノシシだ」
その答えは、ほんの少しだけ遅かった。
桂一は地図を開く手を止めた。
「イノシシなら、佐原さん一人でもいけるんじゃないですか」
「場所が悪い」
「大きいんですか」
「そこまでじゃない」
「じゃあ、何で二人必要なんです」
電話の向こうで、佐原が息を吐いた。
苛立っているわけではない。
迷っている音だった。
「足場が悪い。あと、袋に入れて運ぶ」
「解体は?」
「しない」
「血抜きは?」
「済んでる」
桂一は、机の上のペンを手に取った。メモ用紙に、日時と「佐原」「罠」「荷運び」と書いた。
「佐原さんの罠ですか」
「違う」
「誰のです」
「今日は、頼まれて来てるだけだ」
その言い方が、桂一には引っかかった。
佐原は、山の仕事で責任の所在をぼかす人間ではない。自分の罠なら自分の罠と言う。他人の罠なら誰の罠かを言う。言えないなら、最初から桂一を呼ばない。
「頼まれて、ですか」
「ああ」
「役場ですか」
佐原は答えなかった。
桂一は、ペン先を紙の上で止めた。
受話口の向こうから、軽い金属音がした。車のドアを閉めた音か、荷台の何かが揺れた音だった。
「報酬は一万出す」
「荷運びだけで?」
「そうだ」
「ずいぶんいいですね」
「断るか」
佐原の声は、そこで少しだけ硬くなった。
桂一は、すぐには返事をしなかった。
部屋の中は静かだった。窓の外で、近所の軽トラックがゆっくり通り過ぎていく音がした。遠くで、犬が一度だけ吠えた。
普通の依頼なら、この時点で受けていた。
荷運び。
林道。
イノシシ。
報酬一万円。
珍しくはない。
危なくないとは言わないが、分からない仕事ではない。
それでも、桂一は違和感を覚えていた。
佐原が説明を避けている。
イノシシだと言い切らない。
役場という言葉に答えない。
そして、報酬が妙に高い。
「確認しますけど」
桂一は言った。
「僕は運搬の手伝いだけです。処理判断はしません。現場で危ないと思ったら戻ります」
「それでいい」
「場所の所有者と許可は?」
「通ってる」
「罠の管理者は?」
「そこも問題ない」
「なら、行きます」
「今から出られるか」
「三十分あれば」
「長靴と手袋。着替えも持ってこい。あと、マスク」
「獣臭ですか」
「念のためだ」
桂一はメモに「長靴、手袋、着替え、マスク」と書いた。
念のため。
佐原は、そういう言葉をあまり使わない。
必要なら必要と言う。
いらないならいらないと言う。
念のため、と濁す時は、だいたい何かを言っていない。
「佐原さん」
「あ?」
「本当にイノシシなんですか」
沈黙があった。
長くはない。
けれど、答えるには十分すぎる間だった。
「そう聞いてる」
桂一は、ペンを置いた。
そう聞いてる。
その言葉だけで、この依頼が佐原の手の内にないことが分かった。
「分かりました」
「水野」
「はい」
「今日のことは、あんまり人に話すな」
「いつもの山仕事として?」
「そうだ」
いつもの山仕事。
それなら、最初からそう言えばいい。
桂一はそう思ったが、口には出さなかった。
佐原はさらに低い声で言った。
「経験しとけ」
「経験?」
「一生に何度もあることじゃねぇ」
そこで電話は切れた。
桂一は、しばらくスマートフォンを見ていた。
通話時間は三分に満たなかった。
短い電話だった。
だが、部屋の空気は少し変わっていた。
桂一は立ち上がり、作業部屋の隅に置いてあるコンテナを開けた。
中には、山へ入る時の道具がまとまっていた。厚手の作業手袋、薄手のニトリル手袋、タオル、ヘッドライト、予備電池、虫除け、消毒用アルコール、簡易救急セット、ビニール袋、マスク。
長靴は玄関にある。
桂一は迷って、マスクを二種類入れた。普通の不織布と、防塵用の少し厚いもの。
さらに、車の鍵を取る前に、机の上のメモをもう一度見た。
罠。
荷運び。
イノシシ。
佐原。
役場?
最後の「役場?」だけ、丸で囲んだ。
そして、その横に小さく書いた。
――そう聞いてる。
桂一は、その言葉が嫌だった。
獣の種類を、山の男が「そう聞いてる」と言う。
それだけで、普通ではなかった。
玄関で長靴を袋に入れ、替えのシャツとタオルをリュックに押し込む。財布を確認し、スマートフォンの充電を見る。車のキーを手に取ったところで、一度だけ作業部屋を振り返った。
パソコンの画面には、まだ直売所の写真が並んでいた。
軒下の玉ねぎ。
手書きの値札。
泥のついた長靴。
さっきまで書こうとしていた記事の、穏やかな地方の午後。
桂一は画面を閉じた。
外に出ると、空気が重かった。
雨は降っていない。
けれど、降る前の匂いがした。
車に道具を積みながら、桂一はふと、自分がなぜ断らなかったのかを考えた。
金のためではない。
一万円はありがたいが、それだけなら別の仕事でもいい。
佐原に頼まれたから、というのもある。
けれど、それだけでもない。
たぶん、気になったのだ。
佐原が言葉を濁したこと。
イノシシだと言うまでに間があったこと。
役場という言葉に答えなかったこと。
そして最後に、経験しとけ、と言ったこと。
桂一は、違和感を放っておくのが下手だった。
それは自覚していた。
車のドアを閉めると、鈍い音がした。
エンジンをかける。
ナビに、佐原から送られてきた集合場所を入れた。山側のコンビニだった。市街地からは少し離れている。そこから先は、佐原の車に乗ることになる。
桂一は車を出した。
海側から山側へ向かう道は、途中からゆるやかに景色を変える。
住宅が減る。
田んぼが増える。
ガソリンスタンドの間隔が広くなる。
コンビニの駐車場が広くなる。
道路脇の看板に、熊出没注意の文字が増える。
その頃、熊の目撃情報は確かに増えていた。
市の防災メールにも何度か流れていたし、地域の回覧板にも注意喚起が出ていた。山菜採りの高齢者が遭遇したという話も聞いた。農地の電気柵が壊されたという記事も、桂一は最近書いたばかりだった。
だから、山で獣が罠に掛かったという話自体は、不自然ではなかった。
不自然ではない。
そう思おうとした。
けれど、佐原の声が耳に残っていた。
――そう聞いてる。
桂一は、信号待ちの間にスマートフォンを見た。
佐原から、追加のメッセージが一つ入っていた。
『場所では余計なことを聞くな』
桂一は、その文面をしばらく見た。
それから、画面を伏せた。
信号が青になる。
車を出す。
フロントガラスに、細かい雨粒がひとつだけ当たった。
それはすぐに、ワイパーを動かすほどでもない跡になって消えた。




