case5 はじまり
団地の空き部屋の記事を公開してから、数日が経っていた。
あの記事は、思っていたより静かに読まれた。
怖い。
切ない。
場所を探すな。
子どもの帰り道を考え直した。
そんなコメントが多かった。
中には、あの団地がどこなのか知りたいという声もあったけれど、読者の方が先に注意してくれていた。
そういう話じゃない。
見に行くな。
その一文を見た時、私は少しだけ安心した。
市影譚の読者は、怖い話をただ消費したい人ばかりではない。
少なくとも、そういう人たちだけではない。
それは、桂一さんがずっと積み上げてきたものなのだと思う。
けれど、積み上げたものは、いつも正しく受け取られるとは限らない。
*
その日の午前中、私は事務所で問い合わせメールを整理していた。
宮城県S市にある、一戸建ての小さな事務所。
特商法の表記に住所が必要だから借りている家で、見た目だけなら普通の住宅にしか見えない。
玄関には小さな靴箱。
廊下にはコピー用紙の箱。
リビングを改装した作業部屋には、パソコン二台とプリンター、カメラ機材、録音機、A5用紙の束。
市影譚は、ここから発信されている。
月に何百万も稼ぐことがあるサイトの事務所としては、たぶん、かなりこじんまりしている。
けれど、桂一さんはそれでいいらしい。
広い事務所を借りるくらいなら、取材費と機材と人件費に回す。
そう言っていた。
人件費と言っても、今のところ社員は私だけなのだけど。
私は受信箱を開き、未読の問い合わせを一つずつ確認していった。
相談。
記事への感想。
取材依頼。
広告掲載の問い合わせ。
オンラインサロンの質問。
そして、明らかに読まずに閉じていい営業メール。
市影譚に届くメールは、怖い話ばかりではない。
むしろ、怖い話として送られてきても、読んでみると生活の困りごとだったり、行政に相談する前の不安だったり、近所に言いにくいことだったりする。
だから私は、件名だけでは判断しないようにしている。
その中に、一通、妙に整ったメールがあった。
件名は、
【調査協力のお願い】旧避難路に現れる白い女について
だった。
私は、少しだけ手を止めた。
旧避難路。
白い女。
いかにも怪談らしい言葉だ。
ただ、件名だけで避けるほどではない。
市影譚には、そういう相談も来る。
本文を開く。
最初の数行は、とても丁寧だった。
市影譚の活動をいつも拝見しております。
水野様の取材姿勢に感銘を受け、私も地方怪異を扱うサイトを運営しております。
今回は、ぜひ水野様にご相談したい案件があり、ご連絡いたしました。
そこまでは、まだ普通だった。
けれど、読み進めるにつれて、私は少しずつ眉を寄せた。
県内の山側に、現在は使われていない旧避難路があるという。
地元では昔から“自殺の名所”として知られているという。
夜になると白い服の女が立っているという。
行政が封鎖した本当の理由を、地元の人間は語りたがらないという。
夏に向けた特集記事として、ぜひ市影譚にも同行してほしいという。
最後には、こう書かれていた。
水野様と一緒に調査できれば、読者にも大きな反響があると思います。
動画化も視野に入れております。
必ず話題になる案件です。
私は、椅子の背もたれに少し体を預けた。
文章は丁寧だ。
けれど、どこか落ち着かない。
怖いからではない。
言葉の選び方が、少し嫌だった。
「桂一さん」
向かいの机で領収書を整理していた桂一さんが、顔を上げた。
今日は黒のスラックスに、ノリの効いた白いワイシャツ。
袖は少しだけ折っている。
前髪は整っているのに、目元だけは眠そうだった。
「どうした?」
「ちょっと、見てほしいメールがあります」
「相談?」
「たぶん、相談です。ただ……」
「ただ?」
「市影譚に似ています」
桂一さんは、その言い方に少しだけ反応した。
「似てる?」
「文面というか、サイトの方向性というか」
私はノートパソコンを桂一さんの方へ向けた。
桂一さんは椅子を引き寄せ、画面を覗き込む。
最初は黙って読んでいた。
けれど、“自殺の名所”という言葉のあたりで、指が止まった。
“動画化も視野に入れております”の一文で、完全に表情が変わった。
「これは、受けない方がいい」
早かった。
いつもなら、桂一さんはもう少し読む。
相手の状況や、現地の危険性や、公開できるかどうかを確認してから判断する。
でも今回は、途中で切った。
「まだ、詳しく調べてもいませんよね」
「調べるよ」
桂一さんは言った。
「ただし、行かない前提で調べる」
「行かない前提」
「うん」
桂一さんは、画面を少しスクロールした。
「この相談は、場所そのものより、使い方が怖い」
「使い方、ですか」
「怖い場所を見つけたから相談しているんじゃない」
桂一さんは、淡々と言った。
「怖い場所として売れそうだから、相談している」
私は、もう一度メールを見た。
白い女。
自殺の名所。
行政が封鎖した本当の理由。
動画化。
必ず話題になる案件。
言われてみれば、そうだった。
現地を心配している文章ではない。
読者の反応を期待している文章だった。
「相談者のサイト、開いてもいいですか」
「うん。別ウィンドウで」
メール末尾の署名には、サイト名とURLがあった。
私はそれを開いた。
表示されたトップページを見て、少しだけ息が詰まる。
配色。
見出し。
記事の並び。
地方の怪異を扱うという説明文。
どこか、市影譚に似ていた。
けれど、違う。
画面には、大きな見出しが並んでいる。
特集:夏のおすすめ心霊スポット10。
地元民が近づかない廃集落。
行政が封鎖した旧道の真実。
自殺の名所に立つ白い女。
深夜二時に行くべき場所。
私は、無意識に口を閉じた。
読みたくない、と思った。
怖いからではない。
雑だからだ。
人が亡くなったかもしれない場所も、誰かが暮らしている地域も、全部まとめて“おすすめ”にされている。
「……かなり、広告が多いですね」
「収益化が悪いわけじゃない」
桂一さんは、静かに言った。
「僕らもそれで食べてる」
「はい」
「でも、現場を荒らす導線で稼ぐのは違う」
その声は、怒っているというより、冷えていた。
桂一さんは、記事の一つを開いた。
そこには、古いSNS投稿の引用らしきものと、ぼやけた写真と、派手な見出しが並んでいた。
場所の名前は、ほとんど伏せられていない。
行き方も書いてある。
駐車できそうな場所まで書いてある。
「情報収集にネットを使うのはいいと思う」
桂一さんは、画面から目を離さずに言った。
「でも、いつの情報か分からないものを、我が物顔で披露するのは違うと思う」
私は頷いた。
市影譚も、ネットを使う。
地図も見る。
SNSも見る。
昔の記事も探す。
画像の撮影時期も確認する。
でも、それは現地へ人を向かわせるためではない。
むしろ、行かせないために調べることの方が多い。
「相沢」
「はい」
「一回、整理しよう」
桂一さんは、私の机の上にあったA5用紙を一枚取った。
そして、いつものように項目を書き始める。
相談内容。
依頼者の目的。
公開リスク。
現地危険性。
地域側への影響。
お断り理由。
最後に、少し間を置いて、もう一つ書き足した。
非公開判断。
「今回は、現地へ行く話じゃない」
桂一さんは言った。
「行かない理由を、ちゃんと作る話だ」
私は、その紙を見た。
怖い場所へ行かない。
でも、逃げるわけではない。
調べないわけでもない。
無視するわけでもない。
行かないために調べる。
それは、市影譚では初めての形かもしれなかった。
「今回の記事は、どうしますか」
私が聞くと、桂一さんは少しだけ考えた。
「まだ分からない」
それから、メールの件名をもう一度見た。
「ただ、書くなら怪異の話じゃない」
「では、何の話ですか」
「人為的に生み出された怪異の話」
私は、すぐには返事ができなかった。
白い女がいるかどうか。
それは、まだ分からない。
でも、この画面の中には、もう一つの怪異が生まれかけている気がした。
誰かが古い噂を集めて、見出しをつけて、広告を貼って、行き方を書いて、読者を夜の道へ向かわせる。
それは、幽霊よりずっと現実的で、ずっと厄介なものに思えた。




