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市影譚-短編シリーズ  作者: 鳥ノ木剛士


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市影譚-EP3【団地の空き部屋に灯る部屋】後日談

 事務所に戻ったのは、夜遅くだった。


 桂一さんは、車を停めるとすぐに事務所の鍵を開けた。

 玄関の明かりがつく。


 団地の空き部屋を見たあとだからだろうか。


 ただの蛍光灯の明かりが、少しだけありがたく見えた。


「今回、記事はどうしますか?」


 私が聞くと、桂一さんは少し黙った。


「そうだね」


 いつもなら、書くか書かないかの判断は早い。


 危険がある。

 生活に影響がある。

 場所を伏せられる。

 伝える意味がある。


 その条件が揃えば、桂一さんは淡々と記事の方針を決める。


 けれど今回は、少しだけ言いよどんだ。


「書いてみようか」


「いいんですか?」


「うん」


 桂一さんは、上着の前を開けながら言った。


「子どもの頃の記憶が、少しよみがえってきてね。僕も、複雑な気持ちはある」


 その声は、普段より少しだけ疲れていた。


「でも、記事にすることで、今でもたくさんいる“一人の時間を過ごす子どもたち”に、大人が目を向けるようになってくれたら儲けものだ」


 私は、何も言わずに頷いた。


 団地の空き部屋。

 外したシーリングライト。

 押し入れの内側に残っていた文字。

 小さな猫の置き物。

 学区の端の坂道。


 どれも、怖い話として書こうと思えば書ける。


 でも、今回の話は、そこではない気がした。


「相沢に任せるよ」


 桂一さんはそんな風に言って、上着を脱ぐと、事務所のソファに横になった。


 朝から寝不足のまま動いたので、もはや限界なのだろう。


「分かりました。公開前までやってみるので、起きたら確認してリライトしてくださいね」


「うん。……助かるよ」


 消え入りそうな声だった。


 そのまま、桂一さんは目を閉じた。


 寝息が聞こえるまで、そう時間はかからなかった。


 私は少しだけ笑って、台所へ向かった。


 ボーナスも出る予定だし、さっそく私はコーヒーの準備をした。


 自分用の、少し濃いやつだ。


   *


 写真を読み込む。


 昼の団地。

 中庭。

 砂場。

 共用廊下。

 空き部屋の室内。

 外したシーリングライト。

 押し入れの中の鉛筆の跡。

 そして、夜の窓。


 写真を一覧で見ると、あの部屋が本当に普通の空き部屋だったことが分かる。


 畳があり、窓があり、古い照明があり、押し入れがある。


 それだけの部屋。


 でも、そこに一つずつ意味を知ってしまうと、ただの部屋には戻らない。


 私は、夜に撮った窓の写真を開いた。


 照明を外した後の写真だった。


 窓の奥は暗い。


 さっきよりも、ずっと暗い。


 けれど、部屋の奥に、小さな光があった。


 桂一さんが置いてきた、猫の置き物だ。


 夜光塗料が、ほんの少しだけ光っている。


 小さい。

 淡い。

 頼りない。


 でも、それがあるだけで、あの窓は先ほどまでとは違って見えた。


「やっぱり、子どもみたいに見えちゃいますね」


 私は、寝ている桂一さんには聞こえないくらいの声で呟いた。


 写真を拡大すると、小さな猫の光の周りに、窓ガラスの歪みと暗い室内が重なっている。


 確かに、見ようと思えば、子どもが座っているようにも見えた。


 膝の上に、四角いものを抱えているようにも。


 私はそのまま載せるのをやめた。


 桂一さんなら、たぶんこう言う。


 画質を簡単にスクリーンショットして荒くしよう。

 拡大しても何か分からないように。


 私は写真をスクリーンショットし、少し荒くした。


 窓の中に何かがあることは分かる。

 でも、それが猫なのか、影なのか、光なのかまでは分からない。


 そのくらいでよかった。


 元画像は内部記録。


 鉛筆の文字も、公開しない。


 あれは、怖がらせるための材料ではない。


 子どもが一人で待っていた時間の跡だった。


   *


 記事のタイトルは、悩まなかった。


 団地の空き部屋に灯る部屋


 サブタイトルを、私は少し考えて入れた。


 ――寂しい部屋を減らすために。


 本文では、団地名も、部屋番号も、学校名も伏せた。


 過去の事件についても、詳しくは書かなかった。


 ただ、こう書いた。


 その部屋には、かつて一人で帰りを待っていた子どもがいたそうです。


 事件とは直接関係ありません。

 けれど、この話の芯には、寂しい子どもの物語があったのかもしれません。


 私は、その文章を打ちながら、団地へ向かう坂道を思い出していた。


 友達と一緒に帰る時間。

 一人、また一人と別れていく道。

 最後に一人になる坂。

 鍵を出す手。

 誰もいない部屋。

 つけっぱなしの明かり。


 そして、帰ってくるはずの母親を待つ時間。


 その寂しさを、私は想像することしかできない。


 でも、想像しようとすることはできる。


 私は、そのまま文章を続けた。


 今の大人が子どものころに体験してきた「常識」と、今のお子さんたちの「当たり前」は、少しずつ違っています。


 ランドセルの色が、男の子は黒、女の子は赤、と決まっていた時代から、好きな色を選べる時代になりました。


 水筒を持ち歩くこと。

 防犯ブザーを身につけること。

 タブレットを持って学校へ行くこと。

 鍵を外から見えないようにしまうこと。


 昔は特別だったものが、今では子どもを守るための当たり前になっています。


 そして、もうひとつ。


 子どもの成長を促すために用意された一人の時間と、

 どうしても仕方なく生じてしまう一人の時間は、同じではありません。


 大人にとっては短い時間でも、子どもにとっては長い時間かもしれません。

 平気そうに見えても、本当は少し怖かったのかもしれません。

 寂しいと言わなかっただけで、寂しくなかったわけではないのかもしれません。


 今回の取材で見た部屋は、怖い部屋だったのではなく、寂しい部屋だったのだと思います。


 どうか、一人でも多くの「さみしさ」が、気づかれないまま残り続けませんように。


 そう感じる取材でした。


 そこまで書いて、私は手を止めた。


 ソファの方を見る。


 桂一さんは、まだ眠っていた。


 寝不足の顔で、少しだけ眉間に皺を寄せている。


 この人も昔、明かりをつけた部屋で、誰かの帰りを待っていたのだ。


 そう思うと、記事の最後に書くべき言葉が、少しだけ分かった気がした。


 私は、さらに一文を足した。


 寂しい部屋を減らすことは、

 たぶん、怪談をひとつ減らすことでもある。


 それが、今回の市影譚だった。

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