市影譚-EP3【団地の空き部屋に灯る部屋】部屋の中の明かり
夜の見え方を確認したあと、私たちはもう一度、問題の空き部屋へ向かった。
管理人さんが鍵を開ける。
昼間にも入った部屋なのに、夜に入るとまるで違っていた。
玄関を開けた瞬間、廊下の蛍光灯が室内へ細く差し込む。
その光が台所の床で止まり、奥の和室までは届かない。
部屋の中は、暗かった。
外からは、ぼんやり明かりが灯っているように見えた。
けれど、中へ入ると、そこに明かりはない。
それが、余計に不思議だった。
「ブレーカーは?」
桂一さんが聞くと、管理人さんは玄関脇の分電盤を指した。
「落ちています」
蓋を開けると、確かに主幹ブレーカーは下がっていた。
桂一さんはそれを確認しただけで、触らなかった。
「このままで大丈夫です」
「上げなくていいんですか?」
「上げません。電気の確認が目的じゃないので」
管理人さんは少し意外そうな顔をした。
「点くかどうかは、見ないんですか」
「契約が切れている部屋で、無理に通電させる必要はありません。古い器具なら、危ないですし」
桂一さんは、奥の和室を見た。
天井には、昼間見た古い丸型のシーリングライトが残っている。
廊下から入ったわずかな光が、白いカバーの端だけを薄く浮かせていた。
それは、確かに外から見れば、何かが光っているように見えるかもしれない。
「この器具、外してもいいですか」
桂一さんが言った。
管理人さんが少し驚く。
「外すんですか」
「本体だけです。引掛シーリングは触りません。配線も触らない。器具を外して、押し入れにしまうだけです」
「ああ、それなら」
管理人さんは、少し考えてから頷いた。
「この部屋、次の入居が決まれば設備点検も入りますし。今は外しても問題ありません」
「ありがとうございます」
桂一さんは、私を見た。
「相沢、脚立取って」
「はい」
廊下に置いてあった小さな脚立を持ってくる。
前の換気扇の時ほどではないが、桂一さんはこういう作業になると、急に手順が早くなる。
脚立を置く位置を決め、床を軽く確認し、天井を見上げる。
「埃が落ちるかもしれないから、少し下がってて」
「はい」
管理人さんにも下がってもらい、桂一さんは脚立に上がった。
古いシーリングライトのカバーを、ゆっくり回して外す。
中に溜まっていた埃が、少しだけ落ちた。
私は思わず息を止めた。
桂一さんは慣れた手つきで本体を外し、天井の接続部分には触れず、器具だけを両手で持って降りてきた。
「古いですね」
「かなり」
桂一さんは、外した照明を見た。
白かったはずのカバーは、内側から見ると黄ばんでいた。
丸い形のせいか、暗い部屋で持っていると、妙に存在感がある。
「これを押し入れに」
「お願いします」
管理人さんが押し入れを開ける。
中は空だった。
ただ、木の匂いと古い埃の匂いがした。
桂一さんは、シーリングライトを隅にそっと置いた。
それで、天井から白い丸いものは消えた。
部屋は、さらに空っぽになった。
それだけのことなのに、空気が少し変わったように感じた。
「これで、外からの見え方も少し変わると思います」
桂一さんは言った。
「完全に消えるかは分かりません。ただ、原因になりそうなものを一つ減らした、というところです」
「ありがとうございます」
管理人さんは、少しほっとしたようだった。
私は、天井を見上げた。
照明がなくなった和室は、本当に暗い。
誰かが待つには、少し寂しすぎる部屋だった。
*
押し入れを閉める前に、私はふと、内側の柱に目を留めた。
低い位置に、何か線があった。
傷かと思った。
けれど、近づいて見ると、鉛筆の跡のようだった。
「桂一さん」
「うん?」
「ここ、何か書いてあります」
桂一さんと管理人さんが近づいてくる。
私はスマートフォンのライトを弱く当てた。
濃くはない。
ほとんど消えかけている。
でも、ひらがなの形が残っていた。
――
おかあさんがかえるまで
でんきをつけておく
――
誰も、すぐには話さなかった。
押し入れの中に、古い空気が溜まっている。
私は、さっき外したシーリングライトの白いカバーを思い出した。
外から見える、ぼんやりした明かり。
この部屋で母親を待っていた子ども。
怖いなら、帰るまで明かりをつけておきな。
その言葉たちが、全部つながってしまった気がした。
「……消した方がいいですかね」
管理人さんが、小さな声で言った。
桂一さんは、しばらく文字を見ていた。
「気になりますが、すぐには触れにくいですね」
「でも、次の入居者が入る時には」
「その時は、管理会社の判断でいいと思います。ただ、今日は写真だけ内部記録として残して、記事には出さないことにします」
私は頷いて、写真を撮った。
部屋番号が分からないように、周囲は入れない。
文字だけ。
それも、公開するためではない。
残すための写真だった。
「これ、あの子が書いたんでしょうか」
管理人さんが言った。
桂一さんは、はっきりとは答えなかった。
「分かりません」
そして、少しだけ声を落とす。
「でも、ここで待っていた子どもがいたことは、分かります」
その言葉で、私は胸が詰まった。
怪異かどうかではない。
この部屋には、誰かを待っていた時間があった。
それだけは、確かだった。
*
「ちょっと待ってもらっていいですか?」
部屋を出る前に、桂一さんが鞄を開けた。
中から、小さな包みを取り出す。
「それは?」
私が聞くと、桂一さんは包みをほどいた。
中に入っていたのは、小さな猫の置き物だった。
手のひらに乗るくらいの大きさ。
陶器なのか樹脂なのか分からない。
丸い背中で、少し古びている。
色は白っぽい。
ただ、よく見ると、表面に薄く夜光塗料のようなものが塗られていた。
「猫、ですか」
「うん」
「持ち歩いてるんですか?」
「いつもではないよ。本当にたまたま。昨日、事務所の棚を整理してたら出てきた」
桂一さんは、猫の頭を指で軽く撫でた。
「僕の子どものころからの友達」
その言い方が、思ったより柔らかかった。
私は、何も言えなくなった。
「母親の帰りを待つ時、机の上に置いてた。夜になると少し光るんだよ」
桂一さんは、管理人さんを見た。
「これ、次の入居者が決まるまで置いておいてもいいですか」
管理人さんは、少し戸惑った。
「置く、ですか」
「はい。邪魔にならない場所に。次の入居が決まったら、処分してもらって構いません」
「いえ、処分はしませんが……いいんですか? 大事なものなんじゃ」
「大事だから、置いていくんです」
桂一さんは、何でもないことのように言った。
でも、何でもないわけがなかった。
管理人さんは、しばらく猫の置き物を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「分かりました。次の入居が決まるまでは、こちらで預かります」
「ありがとうございます」
桂一さんは、猫の置き物を和室の窓辺ではなく、押し入れの近くの低い棚板の上に置いた。
外から目立つ場所ではない。
けれど、部屋の中に入れば、すぐに分かる場所だった。
それは、誰かに見せるためというより、その部屋に置くための位置に見えた。
桂一さんは、少しかがんで猫の高さに目線を合わせた。
そして、誰にともなく言った。
「僕の子どものころからの友達を置いていくよ」
声は静かだった。
「夜に少し光るから、次の人が入るまで仲良くね」
私は、思わず息を止めた。
それが誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
この部屋にいた子どもに向けたのか。
今も明かりを待っているものに向けたのか。
それとも、昔の桂一さん自身に向けたのか。
分からない。
でも、その言葉のあと、部屋の暗さが少しだけ変わった気がした。
怖い部屋ではなく、寂しい部屋。
そんな言葉が、頭に浮かんだ。
*
もう一度、向かいの棟から確認することになった。
シーリングライトを外したあと、外からどう見えるか。
管理人さんは空き部屋に鍵をかけ、私たちはさっきの廊下へ戻った。
夜の団地は、先ほどと変わらず生活の音を出していた。
テレビの音。
食器を洗う音。
誰かが階段を上がる音。
遠くで子どもが笑う声。
その中で、問題の部屋だけが静かだった。
私は、さっきと同じ位置に立った。
窓を見る。
さっきより、暗い。
ぼんやり黄色く見えていた明かりは、かなり薄くなっていた。
天井にあった白い丸いものが消えたせいだろうか。
室内の奥に溜まっていた光が、少しだけ散ったように見える。
「見え方は変わりましたね」
私が言うと、桂一さんは頷いた。
「うん。原因の一部ではあったと思う」
「全部ではない?」
「全部かどうかは、まだ分からない」
管理人さんは、少し安心したように息を吐いた。
「少なくとも、前よりは目立たないですね」
「そうですね」
私たちは、しばらくその窓を見ていた。
人影のようなものは、もうはっきりとは見えない。
でも、完全に消えたとも言えなかった。
窓の奥、低い位置。
ほんの少しだけ、白い点のようなものがある。
たぶん、猫の置き物だ。
夜光塗料が、部屋の暗さの中でかすかに光っている。
それは、人影ではなかった。
でも、何もないよりは、ずっとよかった。
「怖くなくなりましたね」
私は言った。
桂一さんは、少しだけ笑った。
「そう?」
「はい。少なくとも、私は」
「なら、少しは意味があったかな」
管理人さんも、窓を見たまま小さく頷いた。
「住民には、照明器具を外したと説明します」
「それがいいと思います」
「それで落ち着けばいいんですが」
「落ち着かせるには、言い方も大事です」
桂一さんは言った。
「“幽霊はいません”と断定するより、“明かりに見える原因になりそうな器具を外しました”の方が、住民には伝えやすいです」
「確かに」
管理人さんは、少し真剣な顔で頷いた。
「分かりました」
「見えたと言う子に、気のせいだとか言うと、余計に残ります」
「どう言えばいいですかね」
「見えたんだね。怖かったね。今は管理人さんと外の人が確認して、部屋の中を少し片づけたよ。そう伝えるだけでも違うと思います」
管理人さんは、その言葉を覚えるように小さく繰り返した。
「見えたんだね。怖かったね」
「はい」
私は、メモにそのまま書いた。
子どもの恐怖を否定しない。
それは、今回の話で一番大事なことかもしれなかった。
怖いものが本当にいたかどうかより、怖いと思った子どもがいた。
そこから始める。
市影譚が書くべきなのは、たぶんそこだった。
*
団地を出る頃には、夜風が少し冷たくなっていた。
管理人さんは、集会所の前で何度も頭を下げた。
「今日はありがとうございました」
「いえ。改めて伝えますが、記事にするかは戻ってから判断します」
「はい。住民説明には、外部に見てもらったと話してもいいですか」
「構いません」
「助かります」
管理人さんは、少し迷ってから言った。
「水野さん」
「はい」
「さっきの猫、本当にいいんですか」
桂一さんは、少しだけ団地の方を見た。
「いいんです」
「大事なものなんでしょう」
「大事なものは、使う場所があるなら使った方がいいですから」
そう言って、桂一さんは車へ向かった。
私はその背中を追いながら、もう一度だけ団地を見上げた。
問題の部屋の窓は、暗かった。
でも、その奥に小さな光があることを、私は知っている。
誰かを呼ぶための明かりではない。
誰かが一人で待つ時に、少しだけ寂しさを薄くする明かり。
そんな気がした。




