市影譚-EP3【団地の空き部屋に灯る部屋】団地
管理人さんへの連絡は、その日のうちについた。
桂一さんは、メールに書かれていた番号へ電話をかけると、すぐにスマートフォンを机の上に置いた。
スピーカーに切り替える。
「相沢も聞いておいて」
「はい」
私はメモ帳を開いた。
数回の呼び出し音のあと、落ち着いた声の男性が出た。
『はい』
「市影譚の水野です。今朝、団地の空き部屋についてメールをいただいた件でご連絡しました」
桂一さんがそう名乗ると、電話の向こうで少し間が空いた。
『……え、もうですか』
「はい」
『朝にメールを送ったばかりなんですが』
「内容が内容でしたので、早い方がいいと思いまして」
電話の向こうで、男性が小さく息を吐いた。
驚きと、少しの安堵が混ざったような音だった。
『すみません。面白い話ではないんです』
「構いません」
桂一さんは、すぐにそう答えた。
「市影譚に来る話で、本当に面白いだけの話はあまりありませんから」
『そう言っていただけると助かります』
私は、その言葉をメモに取った。
面白い話ではない。
市影譚に来る相談の多くは、たしかにそうだった。
外から見れば怪談でも、持ち込んだ人にとっては生活の問題であることが多い。
そこで、電話の向こうの男性が少し声を落とした。
『水野さん、昨日あまり寝ていないんじゃないですか』
桂一さんの手が止まった。
「……え?」
私も顔を上げた。
『昨日のオンラインサロン、最後の方まで見ていました。深夜まで質問に答えていらしたので』
「ああ」
桂一さんは、ようやく納得したように頷いた。
「サロンの方でしたか」
『はい。普段は見るだけなんですが』
「それは失礼しました」
『いえ。こちらこそ、寝不足のところ申し訳ありません』
「いえ、仕事ですので」
桂一さんは、いつもの調子に戻ってメモを取った。
市影譚の読者が、相談者になる。
そういうこともあるのだと、私は改めて思った。
「それで、今回の件ですが。メールには、空き部屋に明かりがつくとありました」
『はい。ただ、正直に言うと、私自身は幽霊だと決めつけているわけではありません』
「そうですよね。そうだろうな、と思いました」
『分かりますか』
「文章が落ち着いていました。怪異を証明してほしいというより、住民の不安を収めたいように見えました」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
『その通りです』
管理人さんは、ゆっくりと言った。
『団地には、今も普通に人が住んでいます。子どももいますし、高齢の方もいます。あの部屋の話が広がると、生活の場が心霊スポットみたいに扱われかねない』
「はい」
『それと、住民の方に説明するためにも、形式上、外部の専門家を呼んで調査した、という名目が欲しかったんです』
私は、そこでペンを止めた。
専門家。
市影譚は、怪異を退治する場所ではない。
けれど、外側から見れば、奇妙な話や危険な場所を扱う専門の窓口ではある。
管理人さん一人が「大丈夫です」と言うより、外部の人間が見たという事実があった方が、住民も落ち着くことがあるのだろう。
「分かりました」
桂一さんは言った。
「ただし、記事にするかどうかは現場を見てから判断します。団地名、部屋番号、個人が特定できる情報は出しません」
『それでお願いします』
「部屋に入る場合は、必ず管理人さん立ち会いで。住民の方への聞き取りも、無理にはしません」
『助かります』
「あと、過去の住人については、必要以上に掘り返さない方がいいと思います」
電話の向こうが、少し静かになった。
『……メールの最後、読みましたか』
「読みました」
『昔、その部屋に小さな子が住んでいたという話です』
「はい」
『それも、正直どう扱えばいいのか分からなくて』
「子どもの話なら、慎重に扱います」
桂一さんの声は、少しだけ低くなった。
「怖がらせるためには使いません」
『それなら、お願いしたいです』
管理人さんは、ようやくはっきりとそう言った。
午後なら時間が取れるという。
私たちは、昼過ぎに現地へ向かうことになった。
通話が切れると、桂一さんはスマートフォンを伏せた。
「サロンの人だったんですね」
「みたいだね」
「だから、市影譚に連絡を」
「たぶんね」
桂一さんは、メモを一枚切り離した。
「相沢、今日の記録は最初から匿名前提で」
「はい」
「団地名、棟番号、部屋番号、学校名、全部出さない。写真も、外観が分かるものは内部用だけ」
「分かりました」
「それと、子どもの件は、事実確認を急がない」
「急がない?」
「住民の不安を収めるのが先。昔の話を掘り返して傷を増やすのは違うからね」
私は頷いた。
怪異の答えを出すことより、まず生活を荒らさないこと。
今回の現場は、最初からそこを間違えてはいけない気がした。
*
団地は、県内の古い住宅地の端にあった。
駅から近いわけではない。
かといって、完全な山の中でもない。
古くからある住宅街を抜け、少し坂を上がったところに、灰色の棟がいくつか並んでいる。
外壁は補修されていた。
階段の手すりも塗り直されている。
けれど、建物全体には、どうしても消えない年月の色があった。
駐輪場には、子ども用の自転車が何台か停まっている。
小さな補助輪つきのもの。
少し錆びたママチャリ。
かごに買い物袋を入れたままの自転車。
ベランダには洗濯物が干されていた。
タオル。
作業着。
子どもの体操着。
柄物の靴下。
廃墟ではない。
ここには、今も人が住んでいる。
それが最初に分かった。
「思ったより、普通ですね」
私が言うと、桂一さんは頷いた。
「普通だから厄介なんだよ」
「厄介?」
「廃墟なら、怖がりたい人だけが来る。でも団地は違う。ここはみんなが帰る場所だからね」
帰る場所。
その言葉を聞いて、私は棟の上階を見上げた。
古い団地の窓が、昼の光を鈍く返している。
いくつかの窓にはカーテンがあり、いくつかは空き部屋らしく何もなかった。
その中の一つが、今回の部屋なのだろう。
管理人さんは、集会所の前で待っていた。
小柄な男性で、紺色のジャンパーを着ている。
思ったより若い印象だ。
手には鍵束を持っていた。
「水野さんですか」
「はい。水野です」
「相沢ちづるです。記録を担当しています」
名刺を渡すと、管理人さんは丁寧に受け取った。
「すみません。遠いところ」
「いえ。まず、現場を見せてもらってもいいですか」
「もちろんです」
管理人さんは、団地の中庭へ私たちを案内した。
中庭には、小さな砂場と古いベンチがある。
端には、黄色い帽子をかぶった子どもの飛び出し注意の看板が立っていた。
昼間なのに、少し寂しい場所だった。
人の気配はある。
でも、人の声はない。
遠くで、洗濯物が風に揺れる音だけがしていた。
「あの部屋です」
管理人さんが指したのは、向かいの棟の三階だった。
角部屋ではない。
ごく普通の一室。
窓にはカーテンがないように見えた。
中は暗い。
「あそこが、夜になると光るんですか」
「そう見える、という話です」
管理人さんは、言葉を選ぶように言った。
「私も何度か見ました。確かに、ついているように見えます。でも部屋へ行くと真っ暗なんです」
「電気は?」
「契約は切れています。ブレーカーも落ちています。室内の照明も、動く状態ではないはずです」
「はず」
桂一さんが少しだけ反応した。
管理人さんは苦笑した。
「古い建物なので、絶対とは言い切れません。ただ、少なくとも普通にスイッチを入れて点く状態ではありません」
「分かりました」
桂一さんは、その部屋を見上げた。
昼間の窓には、何もない。
光も、人影も、ない。
ただの空き部屋。
そう見える。
「噂は、どのくらい広がっていますか」
桂一さんが聞くと、管理人さんは少し眉を寄せた。
「今のところ、団地の中だけです。子どもたちが、あの部屋に人がいるって言い始めて」
「大人は?」
「気にしている人もいます。特に、向かいの棟の人は夜に見えてしまうので」
「SNSには?」
「まだ大きくは出ていません。ただ、子どもが撮った写真を上げそうになったと聞いて、慌てて止めました」
桂一さんは、小さく頷いた。
「早いですね」
「何がですか」
「相談するのが」
管理人さんは、少し困ったように笑った。
「遅くなってからでは困りますから」
「その判断は正しいと思います」
桂一さんは、はっきり言った。
「団地名が広がる前でよかったです」
管理人さんは、それを聞いて少しだけ安心したようだった。
*
最初に、向かいの棟から見せてもらうことになった。
明かりが見えるという部屋は、向かいの棟の外廊下からよく見えるらしい。
階段を上がると、古いコンクリートの匂いがした。
共用廊下の蛍光灯は、昼間でも少し暗い。
壁には、町内清掃のお知らせと、防犯パトロールの貼り紙がある。
管理人さんは、二階の廊下で立ち止まった。
「ここから見ると、夜はかなり分かりやすいです」
私は、手すり越しに向かいの棟を見た。
問題の部屋は、正面より少し斜めの位置にある。
昼間は、ただ暗い窓にしか見えない。
「夜まで待つ必要がありますね」
「そうだね」
桂一さんは、廊下の蛍光灯、階段室、向かいの棟の窓、駐車場の位置を順番に見ていた。
「反射しそうな光は多い」
「外廊下の光ですか」
「それもある。向かいの部屋のテレビ、階段の照明、車のヘッドライト。古い窓ガラスは歪みもあるから、少しずれると別の場所に光があるように見えることもある」
「それが明かりに見える」
「可能性はある」
桂一さんは、まだ断定しなかった。
その後、私たちは問題の空き部屋へ向かった。
階段を上がる途中、上の階から小学生くらいの子が二人降りてきた。
ランドセルではない。
手提げ袋を持っている。
一人が、私たちをちらりと見たあと、管理人さんに小さく会釈した。
「こんにちは」
「こんにちは。気をつけてな」
子どもたちは階段を駆け下りていった。
その足音が遠ざかる。
管理人さんは、その背中を見てから言った。
「今の子たちも、怖がってるみたいで」
「あの部屋を?」
「ええ。夜に見えるって。誰か座ってるって言うんです」
私は、少しだけ背筋が冷えるのを感じた。
「座ってる、ですか」
「立ってるんじゃないそうです。床の方に、小さいのがいるって」
桂一さんは、何も言わなかった。
ただ、少しだけ視線を落とした。
部屋の前に着く。
表札は外されている。
ドアの横には、古いインターホンがある。
管理人さんが鍵を差し込んだ。
金属音が、廊下に小さく響いた。
「開けます」
ドアが開く。
中は、ひんやりしていた。
人が住んでいない部屋の空気だった。
湿気。
畳の古い匂い。
閉め切った押し入れの匂い。
どこか乾いた埃の匂い。
玄関から見る限り、特別荒れている様子はない。
ただ、空っぽだった。
靴もない。
傘もない。
郵便物もない。
誰かの生活が、きれいに抜けた後の部屋。
「入っても?」
「どうぞ」
管理人さんが先に入り、私たちも続いた。
桂一さんは、靴を脱ぐ前に一度室内を見渡した。
それから、いつものように言った。
「相沢、写真は室内だけ。窓から外を撮る時は、向かいの部屋が入らないように」
「はい」
私はカメラを出した。
部屋は二間続きだった。
手前に台所。
奥に和室。
和室の窓が、例の明かりが見える窓らしい。
天井には、古い丸型のシーリングライトが残っていた。
白いカバーは黄ばんでいる。
少し埃もついていた。
桂一さんは、それを見上げた。
「これ、夜に外から見ると光って見えるかもしれないな」
「照明ですか?」
「実際に点かなくても、白いカバーが外の光を拾うことはある」
管理人さんが言った。
「これが原因ですかね」
「可能性はあります。ただ、これだけとは言い切れません」
桂一さんは、窓際へ向かった。
窓ガラスを斜めから見る。
手で影を作る。
外の光の入り方を確かめる。
「古いガラスですね」
「建てた時からのものかもしれません」
「少し歪みがあります。外から見ると、光がずれて見えるかもしれません」
私は窓のそばに立って、外を見ないように室内側だけを撮った。
畳には、家具が置かれていた跡が残っている。
壁には、日焼けの差がある。
押し入れの襖は少し黄ばんでいた。
生活はない。
でも、生活の跡はある。
それが、妙に寂しかった。
桂一さんは、部屋を見回してから管理人さんに言った。
「この部屋のこと、分かる範囲で聞いてもいいですか」
管理人さんは、一瞬だけ表情を曇らせた。
「どこまで話せばいいか」
「必要な範囲だけで構いません。記事にする時は、さらに削ります」
管理人さんは頷いた。
それから、和室の窓を見ながら言った。
「昔、ここに親子が住んでいたそうです」
「そうですか」
「母親と、小さな子ども。私はその頃の担当ではないので、詳しいことは古い住人の方から聞いた話ですが」
管理人さんは言葉を切った。
部屋の中が、少し静かになった気がした。
「お母さんは、夜まで働いていたそうです。子どもは学校から一人で帰って、鍵を開けて、この部屋で待っていた」
私は、空っぽの畳を見た。
そこに、小さな子どもが座っていたところを想像してしまった。
「その子は、ある日、帰ってこなかった」
管理人さんは、それ以上詳しく言わなかった。
私も、聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
桂一さんも、何も聞かなかった。
ただ、静かに言った。
「その話を、今の子どもたちは知っていますか」
「知らないはずです。大人も、若い世帯はほとんど知らないと思います」
「それでも、座っているように見えると言う」
「はい」
管理人さんは、小さく頷いた。
「だから、余計に気味が悪いんです」
確かに、そうだと思った。
昔の話を知らない子どもたちが、空き部屋の窓に“座っている小さいもの”を見る。
それは、ただの反射かもしれない。
でも、そう片づけるには、少し寂しすぎる。
*
夕方まで、団地の周辺を確認した。
小学校から団地までの道も、管理人さんに案内してもらった。
団地は、学区の端にあった。
通学路は、最初こそ住宅街の中を通っている。
しかし、途中から道が分かれ、子どもたちは一人、また一人と別れていくのだという。
最後にこの団地へ向かう道は、少し長い坂になっていた。
昼なら、ただの坂道だ。
けれど、夕方に子どもが一人で歩くには、少し長く感じる。
「この団地、学区の端なんですね」
私が言うと、管理人さんは頷いた。
「そうなんです。学校帰りは、途中まで友達と一緒なんですけどね」
管理人さんは、坂の下を見た。
「一人、また一人と別れていくでしょう。最後にこの団地へ曲がる頃には、だいたい一人になるんです」
最後は一人になる。
その言葉が、妙に胸に残った。
「学校帰りは楽しかったと思うんです。友達と喋って、笑って。でも、最後は一人になる」
私は、団地へ続く坂道を見た。
その子も、ここを歩いたのだろうか。
鍵を持って。
ランドセルを背負って。
母親の帰りを待つために。
楽しい時間も、最後は一人の寂しい時間になる。
その後、鍵を開けて、誰もいない部屋で待つ。
寂しかったろうな。
そう思った。
桂一さんは、少し離れた場所で坂道を見ていた。
いつもより、表情が静かだった。
「桂一さん」
「うん」
「こういうの、気になりますか」
「気になるよ」
少し間があった。
「僕も、母親の帰りを待ってた側だからね」
私は、すぐには返事ができなかった。
「怖かったですか?」
「怖い時もあったよ」
桂一さんは、団地の窓を見上げた。
「だから母親に言われた」
「何て?」
「怖いなら、帰るまで明かりをつけておきなって」
その言葉が、今回の空き部屋と重なった。
夜だけ灯る明かり。
帰ってこない母親を待つ子ども。
誰もいない部屋。
「明かりがあると、少しだけ安心する」
桂一さんは言った。
「でも、明かりがついているから安全とは限らない」
私は何も言えなかった。
その言葉は、ただの防犯の話でも、怪談の話でもなかった。
桂一さん自身のどこかから出てきた言葉に聞こえた。
*
夜になると、団地は別の表情になった。
共用廊下の蛍光灯が点き、窓にカーテン越しの明かりが浮かぶ。
どこかの部屋から、テレビの音が漏れている。
夕飯の匂いもした。
生活の明かりが、棟ごとに並んでいる。
その中で、一つだけ空き部屋がある。
私たちは、向かいの棟の廊下に立った。
管理人さんも一緒だった。
桂一さんは、しばらく黙って問題の部屋を見ていた。
私は、その視線を追う。
最初は何も見えなかった。
でも、目が慣れてくると、分かった。
窓の奥が、ぼんやり黄色く見える。
電気がついている、というほど明るくはない。
けれど、真っ暗でもない。
室内の奥に、淡く光が溜まっているように見える。
「……これは、怪談になるのも分かるな」
桂一さんが、小さく言った。
私は息を止めた。
桂一さんの視線の先に、うっすらと人影のようなものが見えた。
立っているのではない。
低い位置に、座っているように見える。
膝の前に、四角いものを抱えているようにも見えた。
ランドセルを抱えて座る子どものようにも見える。
「見えますね」
私が言うと、桂一さんは頷いた。
「見えるね」
「いますか」
「それは分からない」
いつもの答えだった。
けれど、その声は少しだけ低かった。
管理人さんは、廊下から窓を見たまま言った。
「でしょう。こう見えるんです」
「これは、子どもが怖がるのも無理はありません」
桂一さんは言った。
「怖がったことは、否定しない方がいいです」
「はい」
「ただ、見物に行かせないようにしてください。部屋番号が広がると、生活している住民に迷惑がかかります」
「そこが一番心配です」
管理人さんは、疲れたように言った。
私は、もう一度窓を見た。
人影のようなものは、やはり見える。
でも、瞬きをすると少しずれる。
廊下の蛍光灯がちらつくと、形が変わる。
向かいの部屋のテレビの明かりが動くと、影も揺れる。
説明できる材料はある。
でも、全部を説明できたことにはならない。
私は、そう思った。




