case4 はじまり
市影譚の事務所は、県内S市にある一戸建てだった。
事務所、と言っても、外から見れば普通の古い貸家である。
白い外壁は少しくすんでいて、玄関脇には小さな植え込みがある。
駐車場には桂一さんの車が停まり、玄関のポストには市影譚の名前が小さく貼られている。
初めて来た時、私は少し驚いた。
もっと、雑居ビルの一室のような場所を想像していたからだ。
けれど、桂一さんは何でもない顔で言った。
「仕事上、所在地を書かなきゃいけないからね」
「所在地、ですか」
「メルマガとかブログで有料のものを扱うと、特商法の表示が必要になる。自宅住所をそのまま出すのは怖いだろ?」
確かに、それは怖い。
だから事務所用に家を借りているのだという。
家賃は五万円。
「一戸建てで五万円ですか?」
私が驚くと、桂一さんは笑った。
「東北の田舎は、こんなものだよ」
そう言われれば、そうなのかもしれない。
でも、家賃五万円の小さな事務所から、県内の怪異や地域の困りごとを扱う有名ブログが更新されていると思うと、少し不思議だった。
その日、私が出社したのは、いつも通りの時間だった。
玄関の鍵を開けると、室内はまだ薄暗い。
奥の作業部屋から、パソコンのファンの音だけが聞こえていた。
「お疲れ様です」
そう声をかけると、机に突っ伏していた桂一さんが、ゆっくり顔を上げた。
「ん? もう出社時間か?」
少し間が空く。
「……おはよう」
完全に寝起きの声だった。
桂一さんは、いつも黒のスラックスに、ノリの効いたワイシャツを着ている。
地味で、清潔で、少し硬い。
派手な服装ではない。
けれど、地方の役場でも、工事現場の事務所でも、高齢者の家でも、ぎりぎり浮かない服装だ。
背は高すぎず、低くもない。
細身だけれど、弱そうではない。
黒髪は少し乱れていて、眠そうな目元には薄く影があった。
桂一さんは、目立つ人ではない。
整いすぎてもいないし、崩れてもいない。
人混みに入れば、すっと印象が薄くなる。
でも、近くで見ていると分かる。
身体の動かし方が、どこか現場慣れしている。
椅子から立つ時も、荷物を持つ時も、足場の悪いところを歩く時も、無駄な力が少ない。
ただ、今日はその全部に寝不足が乗っていた。
「昨日、遅かったんですか?」
「遅かった」
桂一さんは、目元を揉んだ。
「深夜にZoomでファン交流会をやってた」
「ああ」
私は少しだけ目を逸らした。
実は、私も途中まで参加していた。
ただし、後半はほとんど記憶がない。
気づいた時には、机に頬をつけたまま寝ていた。
桂一さんは、たぶん気づいている。
でも、何も言わなかった。
「最後までやってたんですか?」
「質問が止まらなくてね。廃墟に入っていいですか、って質問が三回くらい来た」
「またですか」
「また。全部、入るなって答えた」
それは大事な仕事だった。
市影譚は、ただ記事を書いているだけではない。
ブログを更新する。
メルマガを書く。
読者からの質問に答える。
現地調査へ行く。
自治会や管理会社と連絡を取る。
危険喚起の文章を作る。
時々、オンラインで読者と話す。
雑誌の取材を受けることもある。
地域の奇妙な話や、危険な場所の扱いについて、コメントを求められることもある。
事務処理をしている私は知っている。
市影譚は、社員二名の小さな会社だ。
事務所も、県内S市に借りた古い一戸建て。
家賃は五万円。
看板も小さく、外から見れば、少し広めの普通の貸家にしか見えない。
けれど、このこじんまりとした場所から、月に数百万円が動く。
ひとつひとつの仕事は、せいぜい数万円の単位だ。
有料記事。
電子書籍。
オンラインサロン。
動画投稿。
広告作成。
地域記事の依頼。
調査代行。
雑誌取材。
危険喚起文の作成。
自治会や管理会社からの相談。
それらが少しずつ積み上がって、市影譚という仕事になっている。
桂一さんは、利益が出るときちんと経費を使う。
取材費。
交通費。
機材費。
資料代。
宿泊費。
現地で話を聞く時の差し入れ。
必要なところには、あまり迷わず出す。
その代わり、取材や相談そのものに、こちらから料金を求めることは少ない。
相手が調査代として包んできた時だけ、受け取る。
最初から金額を提示して、困っている人に請求することはほとんどない。
だから、相談しやすいのだと思う。
怖い話を持ち込む人は、たいてい少し後ろめたさを抱えている。
こんなことで相談していいのか。
笑われないか。
高い金を請求されないか。
その不安を、桂一さんはできるだけ削っている。
もちろん、完全な善意ではない。
相談が集まれば記事になる。
記事が読まれれば、広告も有料記事も電子書籍も動く。
市影譚全体の信用にもなる。
ただ、それでも、入口を低くしていることは確かだった。
桂一さんは、二十代前半の頃は相当大変だったと言っていた。
食べるためにいろいろな仕事をして、書ける時に記事を書き、休みの日に現場へ行き、夜に編集していたらしい。
けれど、今は違う。
たぶん、桂一さん一人なら、何もしなくても生活できるくらいの仕組みはもうできている。
寝ていても、有料記事は読まれる。
過去の電子書籍は売れる。
動画には広告がつく。
サロンの会費も入る。
それでも桂一さんは、現場へ行く。
電話を取る。
地元の人に頭を下げる。
夜の滝にも、古い団地にも、呼ばれれば向かう。
私は、そこが少し不思議だった。
この人は、もうそこまで働かなくてもいいはずなのに。
そう思いながらも、私は鞄を置いて台所へ向かった。
市影譚の事務所には、小さな台所がある。
冷蔵庫にはペットボトルのお茶と栄養ゼリー。
棚にはインスタント味噌汁、カップ麺、常温保存のパン、そして私が勝手に増やしたレトルト粥が入っている。
最初は遠慮していた。
でも、桂一さんの生活を見ていると、遠慮している場合ではないことが分かった。
この人は、放っておくと平気で昼までコーヒーだけで動く。
私は湯を沸かし、コーヒーと一緒にレトルト粥を温めた。
甲斐甲斐しく世話を焼いている自覚はある。
ただ、それは恋愛というより、労務管理に近い。
倒れられると困る。
仕事が止まるし、現場にも行けなくなるし、何より私の給料にも関わる。
そう思うことにしている。
「食べてください」
温めた粥を机に置くと、桂一さんは少し笑った。
「相沢は、最近遠慮がなくなったね」
「遠慮してたら、市影譚が止まります」
「それは困る」
「困るので食べてください」
「はい」
桂一さんは素直にスプーンを取った。
寝不足の顔で粥を食べる二十七歳の雇い主。
この人が、県内のあちこちで“見えたもの”と“見なかったことにしたいもの”の間を歩いているのだと思うと、少しおかしかった。
私は自分の席に座り、昨夜のZoom交流会のログを開いた。
質問の分類。
要回答。
公開不可。
危険行為誘導の恐れあり。
後日記事化候補。
市影譚の朝は、だいたい紙とログとコーヒーから始まる。
そんなことを考えていると、桂一さんが粥を食べながら言った。
「この前、相沢の提案でブログのトップページのデザインを変えたろ?」
「ああ、はい」
私は手を止めた。
少し前に、市影譚のトップページを整理した。
怖い記事を前面に出しすぎず、相談窓口、危険喚起記事、地域別の記録、公開しない情報の方針が見えるように変えたのだ。
正直、私はただ見やすくしたかっただけだった。
「反応が良くて、アクセスが跳ね上がった」
「そうなんですか」
「うん。今月は臨時ボーナスを出すよ」
私は、一瞬聞き間違えたのかと思った。
「えっと、いくらくらいですか?」
「そうだなあ」
桂一さんは、少し考えるように天井を見た。
「二か月分」
「そんなに!」
思わず声が出た。
今でも十二分にもらっている。
社員二名の小さな会社なのに、給料はきちんとしている。
経費の精算も早い。
現場に出れば手当もつく。
深夜対応になれば、ちゃんと別に計算される。
それなのに、さらに二か月分。
「昨日は新規が多くてね。デザインがきっかけって人も多かった。見込みの利益が跳ねたから、その分還元するよ」
「そんなに簡単に決めていいんですか?」
「二人しかいないからね」
桂一さんは、何でもないことのように言った。
「大きい会社なら会議がいるけど、市影譚は僕が決めれば終わりだ」
「軽いですね」
「軽いのは強みだよ」
そう言って、桂一さんはコーヒーを飲んだ。
確かに、市影譚は小さい。
でも、小さいからこそ、早く動ける。
相談が来れば、その日のうちに連絡できる。
現場で必要だと思えば、その場で宿を取れる。
掲示文が必要なら、私が作り、桂一さんが確認し、そのまま渡せる。
利益が出れば、こうしてすぐに還元される。
私は、少しだけ背筋を伸ばした。
「ありがとうございます。ちゃんと働きます」
「今も十分働いてるよ」
「でも、二か月分は緊張します」
「じゃあ、倒れないように僕の朝ごはんを管理してくれ」
「それはもうしています」
「助かってる」
桂一さんは、寝不足の顔でそう言った。
私は、それでよしと思った。
この人が働けば、私の給料も出る。
この人が倒れれば、市影譚は止まる。
だから世話を焼く。
そういうことにしている。
「そういえば」
不意に、桂一さんがこちらを見た。
じっと見てくる。
寝不足の目なのに、妙に観察が細かい。
「今朝はいつもより素敵に見えるね。アイラインかな」
「違います」
思わず即答した。
どきっとした。
今朝から、眉用のブラシを変えたのだ。
いつもより目元がうまくできたと思っていたところだった。
でも、それを桂一さんに言い当てられたようで、変に落ち着かない。
桂一さんは首をひねった。
「正解は?」
「教えません」
「そう」
桂一さんは、あっさり引き下がった。
そういうところも困る。
褒める時は、何の気負いもなく褒める。
踏み込まない時は、まったく踏み込まない。
その距離感が、時々こちらの調子を狂わせる。
その時だった。
問い合わせ用のメール通知が鳴った。
件名は短かった。
――団地の空き部屋に明かりがつく件について。
私は画面を見たまま、少し黙った。
「桂一さん」
「うん?」
「新しい相談です」
「どんな?」
「古い団地の空き部屋に、夜だけ明かりが灯るそうです」
桂一さんは、粥を食べる手を止めた。
「空き部屋?」
「はい。誰も住んでいないはずなのに、向かいの棟から見ると部屋の中が光っているように見える、と」
「電気契約は?」
「切れているそうです。管理人が確認済み。ブレーカーも落ちている、と書いてあります」
「見物人は?」
桂一さんは、最初にそこを聞いた。
怪異かどうかではなく、人が来ているかどうか。
それが市影譚らしいと思った。
「まだ少ないようです。ただ、団地の子どもたちが怖がっていて、SNSに載せられる前に相談したい、と」
桂一さんは、少しだけ目を細めた。
「団地は生活の場所だからね」
「はい」
「廃墟扱いされたら、困る人が多い」
私はメールを読み進めた。
相談者は団地の管理人だった。
古い団地。
空き部屋。
夜だけ灯る明かり。
窓の奥に座っているような人影。
子どもたちの噂。
自治会からの相談。
そして最後に、一文。
――昔、その部屋には小さな子どもが住んでいました。
私は、そこで手を止めた。
桂一さんも、画面を覗き込んだまま黙っていた。
「どうしますか」
私が聞くと、桂一さんは粥の容器をそっと置いた。
「まず、管理人に連絡しよう」
「はい」
「現地を見る。部屋には、必ず許可を取って入る。写真は撮るけど、部屋番号が分かるものは写さない」
「分かりました」
「あと」
桂一さんは、少しだけ声を低くした。
「子どもの話なら、扱いは慎重に」
私は頷いた。
怖い部屋の話。
でも、たぶんそれだけではない。
誰かが帰るまで、明かりをつけて待っていた部屋の話になる。
そんな気がした。




