市影譚-EP2【白く見える滝】後日談
翌朝、ホテルのロビーで会った桂一さんは、いつも通りだった。
黒のスラックスに、厚手のワイシャツ。
昨夜のことなど何もなかったような顔で、缶コーヒーを持っている。
「寝れたか?」
「寝れませんでした」
「やっぱり?」
「桂一さんのせいで」
むすっとして言ってやった。
桂一さんは少しだけ目を瞬かせ、それから笑った。
「夜に連れ回して悪かったよ。車の中で寝てていいから」
「そういう意味じゃないです」
「そうなの?」
「そうです」
私がそう言っても、桂一さんは分かっているのかいないのか、普通に車の鍵を取り出した。
「じゃあ、事務所に戻ろう。記録だけ整理したら、午後から帰っていいよ。昨日は遅かったし」
その気遣いはありがたい。
ありがたいのだけれど、少しだけ腹が立つ。
この人は、昨日あんなことを何の照れもなく言っておいて、本当に何も変わらない。
たぶん桂一さんの中では、あれは恋愛でも何でもない。
危険な現場に同行したスタッフを安心させるための、ただの言葉だったのだ。
だからこそ、困る。
ああいうことを、ただの確認みたいに言わないでほしい。
私は助手席のシートを少し倒した。
車が動き出す。
窓の外で、朝の山が少しずつ遠ざかっていった。
*
事務所に戻ってから、私たちはすぐに記録の整理を始めた。
道の駅で撮った写真。
濡れた木道。
水しぶきの届いた手すり。
滝の音の録音。
若者たちへ渡した掲示文。
警察官とのやり取り。
そして、あの夜の電話。
桂一さんは、最初に公開する情報と、公開しない情報を分けた。
公開するもの。
夜の滝が危険であること。
足場が濡れること。
滝の音で声が届きにくくなること。
写真の人影は、岩や霧や水しぶきが重なって見える場合があること。
道の駅や農道を無断で使わないこと。
公開しないもの。
滝の名前。
道の駅の名前。
若者たちの情報。
警察官の所属。
夜に見えた白いもの。
履歴に残らなかった電話。
録音に残っていなかった「来てほしい」。
最後の二つを見て、私はしばらく黙った。
「やっぱり、書かないんですね」
「書かない」
桂一さんは即答した。
「あれを書いたら、全部そっちに引っ張られる」
「でも、事実ではあります」
「事実だけど、公開する理由がない」
桂一さんは、写真フォルダを開いた。
「今回必要なのは、夜の滝へ行かない理由を残すこと。地元の人が直接言いにくい注意を、外側から置くこと。怪談を広げることじゃない」
「……はい」
「それに、あれを載せたら、必ず来る人が出る」
私は、何も言えなかった。
きっとその通りだった。
履歴に残らない電話。
録音から消えた声。
白い着物のようなもの。
そんなものを記事に書けば、読まれる。
でも、読まれるだけでは済まない。
行く人が出る。
同じ場所に立ち、同じ角度を探し、同じ白いものを見ようとする。
それでは、今回の市影譚は失敗になる。
私は、記事の下書きを開いた。
タイトルは、桂一さんがつけた。
白く見える滝
私は少し迷ってから、サブタイトルを添えた。
――夜に見る場所ではありません。
本文には、怖い写真を一枚も載せなかった。
代わりに載せたのは、足元の写真だった。
濡れた木道。
苔のついた段差。
手すりに残る水滴。
昼間なら何でもないように見える、けれど夜なら簡単に足を取られそうな場所。
桂一さんは、記事の途中にこう書いた。
見えたことは、嘘ではありません。
ただし、見えたからといって、そこに近づく理由にはなりません。
その一文を読んだ時、私は少しだけ息を止めた。
今回の話は、たぶんそこに尽きる。
見える。
でも、いるとは限らない。
見えた。
でも、近づいていいわけではない。
人は見たいものを見てしまう。
だからこそ、戻るための言葉が必要になる。
*
記事を公開したのは、その日の夕方だった。
地名は伏せた。
写真も限定した。
滝そのものが特定できる構図は使わなかった。
それでも、記事はよく読まれた。
コメント欄には、いくつか反応がついた。
怖い写真を載せないのが逆に怖い。
地元の迷惑を考えると当然。
滝の音が危ないという視点はなかった。
行ってみたいけど、行かない方がいいんだろうな。
最後のコメントを見て、私は少し安心した。
行きたい、ではなく、行かない方がいい。
そこまで届いたなら、意味はある。
夜になって、道の駅の管理人さんから連絡が来た。
掲示文は入口とトイレ前に貼ったらしい。
消防団員さんにもPDFを渡し、役場の若い職員さんも表現を調整して、地域の注意喚起に使うことになったという。
そして、数日後。
夜の無断駐車は、少し減った。
完全になくなったわけではない。
それでも、道の駅の駐車場に残るゴミは目に見えて減ったらしい。
管理人さんは電話口で言った。
『あの紙、意外と効いてるよ』
桂一さんは、
「それならよかったです」
とだけ答えた。
『ただな』
「はい」
『たまに、滝の方から人が来る夢を見るんだよ』
私は、隣でメモを取る手を止めた。
桂一さんは、少しだけ間を置いて言った。
「疲れているんだと思います。無理しないでください」
『そうだな。そういうことにしとく』
電話はそこで終わった。
桂一さんは、受話器を置くようにスマートフォンを伏せた。
「書きますか?」
「書かない」
「ですよね」
「夢まで拾い始めると、生活が壊れる」
その言葉は、少し冷たいようで、たぶん優しかった。
*
最後に、私は写真を整理した。
道の駅の遠景。
休憩スペースの掲示文。
濡れた木道。
滝見台の手前。
山側を向いた一枚。
その中に、一枚だけ、気になる写真があった。
掲示を作ったあと、帰る前に私が撮ったものだ。
夕方の山。
木々の間に、白い滝がほんの少しだけ見えている。
私は、画面を拡大しようとして指を止めた。
白い筋があった。
水しぶきかもしれない。
枝の隙間に残った光かもしれない。
岩肌に当たった夕方の反射かもしれない。
でも、拡大すれば、何かに見える気がした。
「相沢」
後ろから声がした。
私は振り返った。
桂一さんが、コーヒーを持ったまま立っていた。
「拡大しなくていいよ」
「……何かありますか?」
「あるかもしれない」
「確認しないんですか?」
「確認したら、名前をつけたくなる」
私は、もう一度画面を見た。
白いものは、そこにあった。
でも、それが何かを決める必要はない。
見えたものを、すべて確かめる必要はない。
見えたからといって、近づく必要もない。
私は写真を閉じた。
ファイル名だけを変える。
戻るための滝.jpg
それ以上は、何もしなかった。
*
公開した記事の最後には、こう書いた。
この滝は、夜に見る場所ではありません。
人影のようなものが写ることはあります。
それは、岩や霧や水しぶきや枝、そして撮影補正によって起こる見え方かもしれません。
見えたことを否定するものではありません。
ただし、見えたからといって、そこへ近づく理由にはなりません。
滝の音は、人を落ち着かせます。
けれど、同時に声や足音を消します。
水しぶきは、昼にはただの濡れた木道に見えます。
けれど、朝夕や季節によっては、薄い氷になります。
噂を確かめに行かないでください。
写真を撮るために、滝見台より先へ進まないでください。
農道や私有地に入らないでください。
夜の道の駅を、滝へ向かうための拠点にしないでください。
ここは、終わりに来る場所ではありません。
戻るために、立ち止まる場所です。
そこまでが、書けることだった。
書かなかったこともある。
白い着物のように見えたもの。
履歴に残らなかった電話。
録音に残らなかった声。
そして、拡大しなかった写真。
それらは、公開しない。
怖がらせるためにあるものではないからだ。
白く見える滝は、今も山の中にある。
地名は書かない。
写真も載せない。
行き方も残さない。
ただ、そこへ行かないための言葉だけを残す。
見えたものを、すべて追わなくていい。
戻るために立ち止まる。
それが、今回の市影譚だった。




