市影譚-EP2【白く見える滝】呼ばれたから来た
翌日の午前中、私は事務所で掲示文の清書をしていた。
前日に道の駅で作ったものを、少し整える。
強すぎる言葉を削り、弱すぎる言葉を足す。
大きな見出しは、そのまま残した。
この滝は、夜に見る場所ではありません。
その下に、理由を短く並べる。
滝の音で、声や足音が聞こえにくくなること。
水しぶきで、足元が濡れていること。
冬季や朝夕は、濡れているように見えて凍っている場合があること。
夜間撮影では、岩や霧や水しぶきが人影のように見えること。
写真や動画を撮るために、滝見台より先へ進まないこと。
最後の一文だけは、少し迷ってから残した。
ここは、終わりに来る場所ではありません。
戻るために、立ち止まる場所です。
イラストを少し添えて、見栄えをよくする。
印刷前の画面を見ていると、向かいの席から桂一さんが言った。
「相沢が作る掲示は、いつもきれいだね」
「え?」
私は顔を上げた。
「ありがとうございます」
「文字の並べ方もそうだけど、怖がらせないで止めるのが上手い」
「そうでしょうか」
「うん」
桂一さんは、マグカップを手にしたまま画面を見ていた。
「この道に進んでても良いと思うけど」
「この道?」
「注意喚起とか、危険表示とか、現場向けの掲示を作る仕事」
少し意外だった。
褒められているのは分かる。
でも、急に仕事の進路のような話をされるとは思わなかった。
「ただ」
桂一さんは続けた。
「これは、現場を見ないと作れない警告だから」
私は画面に目を戻した。
濡れた木道。
滝の音。
白く見えた岩と水しぶき。
道の駅のゴミ袋。
管理人さんの、出るか出ないかより来られるのが困る、という声。
たしかに、現場を見なければ書けない言葉だった。
「だから、やっぱりいてくれると助かるよ」
桂一さんは、何でもないことのように言った。
私は返事に少し困った。
「……それは、こちらの台詞でもあります」
「そう?」
「私だけだったら、そもそも滝の前まで行って、何を見ればいいか分からないので」
「そこは役割分担だね」
桂一さんはそう言って、コーヒーを飲んだ。
市影譚の事務所は、静かだった。
窓の外には、昼前の薄い光がある。
机の上には、前回の換気扇交換の領収書と、今回の滝の写真メモが並んでいた。
怪談の仕事場というより、地方の小さな編集室に近い。
私は、掲示文をPDFに書き出した。
ファイル名は、
【夜間滝見注意掲示_道の駅用】
そのあたりまで終えた頃だった。
桂一さんのスマートフォンが鳴った。
表示を見て、桂一さんの表情が少し変わった。
「昨日の消防団員さんだ」
通話に出る。
「はい、水野です」
桂一さんは、すぐに録音アプリも起動した。
市影譚では、現場に関わる電話の内容も、可能な範囲で記録に残す。
後で言った、言わないにならないようにするためでもあるし、聞き落とした時間や場所を確認するためでもある。
最初のうちは、桂一さんは黙って聞いていた。
けれど、途中で短く聞き返す。
「若い人たちが?」
空気が少し硬くなった。
「滝に行く話をしている?」
私はペンを取った。
桂一さんは、私の方へメモ用紙を押してくる。
若者。
コテージ。
酒。
夜。
滝。
そう書いたところで、だいたいの話が見えた。
「YouTuber?」
私は、メモにその単語を追加した。
YouTuber。
撮影目的。
注意無視。
「分かりました。今日は夜に行かせない方がいいですね」
桂一さんは、相手の話を聞きながら頷いた。
「あの、」
もし行くなら、私も同行したい。
そう口にしようと思った。
けれど、その前に、桂一さんがスマートフォンを耳から少し離した。
驚いたように、もう一度画面を見る。
そこで通話が切れたのかと思った。
けれど、録音アプリの秒数はまだ進んでいる。
通話も、どうやら切れてはいないようだった。
桂一さんは、画面を見たまま、少しだけ黙っていた。
「……ええ、はい」
返事の声が、さっきより低くなった。
「こちらも向かいます。ただ、追いかけるようなことはしません。道の駅側か、コテージの管理者側で話せるなら、まずそこで」
通話は、そこで終わった。
桂一さんは、すぐにはスマートフォンを机に置かなかった。
画面を見る。
通話履歴を見る。
それから、録音アプリの停止ボタンを押す。
「どうしました?」
「いや」
そう言ってから、桂一さんは少しだけ首を傾げた。
「最後、少し音が遠かったような気がした」
「電波ですか?」
「たぶんね」
桂一さんは、スマートフォンを机に置いた。
「最後、何て言われたんですか?」
「来てほしい、って」
私は、すぐには返事ができなかった。
「消防団の方が?」
「そうだと思う」
桂一さんは、そう言った。
けれど、その言い方には、少しだけ余白があった。
消防団員が言ったのか。
それとも、通話の向こうで別の誰かが言ったのか。
まだ、その時の私には分からなかった。
「様子を見に行く」
桂一さんは椅子から立ち上がった。
「私も行きます」
「うん。今回は相沢もいた方がいい」
私はすぐにバッグを取った。
録音機。
メモ帳。
ライト。
予備バッテリー。
それから、さっき作った掲示文を数枚印刷する。
「平日に来るんですね」
私が言うと、桂一さんは車の鍵を取りながら答えた。
「そこも気になる」
「休日ならまだ分かる?」
「こういう場所に、平日の昼から集まるのは少し異常だね。本格的な動画配信者なら、稼ぐ目的で何でもするし、注意しても聞かないのが理解できる」
「よその人って、地元の人は気づくんですか?」
「気づくよ」
桂一さんは、はっきり言った。
「田舎は動向に敏感だからね。しかも、地域で問題になっている最中だし」
私は前日の道の駅を思い出した。
昼間は穏やかに見えた駐車場。
野菜を買いに来る人。
軽トラ。
自販機の音。
でも、そこに見慣れない車が数台止まり、地元の店で若者たちが酒を買い、滝へ行く話をしていれば、たぶんすぐに分かる。
「監視されているみたいですね」
「監視というより、生活圏だから」
桂一さんは言った。
「毎日同じ道を通る人は、違う車があるだけで気づく。知らない顔が何人かいるだけでも分かる。特に、今みたいに問題になっている時は」
「噂より、現実の方が早いんですね」
「現実の方が、よく見てる」
私たちは事務所を出た。
外はまだ明るい。
けれど、山の方へ向かうには、少し遅い時間だった。
車に乗ると、桂一さんはすぐにエンジンをかけた。
「今日、夜の滝まで行くんですか?」
「行かない」
即答だった。
「行かせないために行く」
その言葉で、私はシートベルトを締め直した。
前回は、滝を昼に見た。
今回は、人を止めに行く。
それは、怪異を見るより難しいことのように思えた。
人は、見たいものがある時ほど、止まりにくい。
特に、自分たちだけは大丈夫だと思っている時は。
桂一さんは、国道へ出ながら言った。
「相沢」
「はい」
「掲示文、持った?」
「持ちました」
「じゃあ、今日はそれが一番大事になるかもしれない」
「紙ですか?」
「うん」
桂一さんは前を見たまま続けた。
「夜の山で怒鳴るより、明るいうちに紙を渡す方が効くことがある」
私は、膝の上のファイルを見た。
この滝は、夜に見る場所ではありません。
まだインクの匂いが少し残っている紙。
それが、今日どこまで役に立つのかは分からない。
でも、何も持たずに行くよりはいい。
怖さが独り歩きする前に、扱い方を置く。
たぶん、今回はそれを試される日になる。
*
道の駅に着いたのは、夕方に近い時間だった。
駐車場の端に、見慣れない車が二台止まっていた。
県外ナンバーのアルファード。
地元の軽トラックや営業車の中では、少し浮いていた。
若者が数人、車のそばで話している。
服装は軽装で、足元も山道向きではなかった。
そのうちの一人は、小型のカメラを持っている。
道の駅の管理人さんが、私たちに気づいて近づいてきた。
「すみません、また来てもらって」
「状況は?」
桂一さんが聞くと、管理人さんは若者たちの方をちらりと見た。
「昼過ぎからいる。近くのコテージを予約してるって話だ。もう酒も飲んでるみたいだね」
「滝へ行くと?」
「話してたらしい。店員が聞いた」
そこへ、昨日の消防団員さんも来た。
少し息が上がっている。
「動画にするつもりらしいですね。夜の滝に白い人影が出るって」
桂一さんは、若者たちの方を見た。
表情は変わらない。
けれど、声は少し低くなった。
「こちらから強く踏み込むのはやめましょう」
「いいんですか?」
「注意喚起はした。記録も残った。ここから先は、警察の範囲です」
消防団員さんは、悔しそうに唇を結んだ。
「でも、行ったら危ないです」
「だから、明るいうちにもう一度だけ伝えます」
桂一さんは、私を見た。
「相沢、紙」
「はい」
私は、印刷してきた掲示文をファイルから取り出した。
若者たちに近づく時、桂一さんは一人では行かなかった。
管理人さんと消防団員さんが一緒に行く。
私は少し後ろで、録音機は出さずにメモだけ持った。
こういう場面で録音機を向けると、相手を刺激する。
それくらいは、私にも分かるようになっていた。
若者の一人が、こちらに気づいて少し身構えた。
桂一さんは、ファイルから印刷したA4の紙を取り出しながら声をかけた。
「こんばんは。私、依頼されてこういった掲示を作成している者です」
そう言ってから、横にいる二人を軽く示す。
「既にご存じかと思いますが、こちらは道の駅の管理人さんと、地元の消防団員さんです」
若者は紙を受け取ったが、真面目に読んでいるようには見えなかった。
「なんですか?」
「この近くにある滝は、夜に見る場所ではありません」
「いや、別に入るとは言ってないんで」
「滝へ行く話をしていたと聞きました」
「見に行くだけですよ。撮影するだけ」
「夜の滝は、見に行くだけで危険です」
桂一さんの声は、淡々としていた。
「滝の音で声や足音が聞こえにくくなります。足元は水しぶきで濡れています。朝夕は、濡れているように見えて凍っていることもあります」
「今、冬じゃないですよね」
「季節の問題だけではありません」
若者の一人が、小さく笑った。
「そんなに危ないなら、立入禁止にすればいいじゃないですか」
管理人さんの顔が少し硬くなった。
けれど、桂一さんが先に答えた。
「立入禁止と書けば、隠していると思って来る人がいます」
「それ、俺らのことですか?」
「今の話を聞いても行くなら、近いです」
少し空気が張った。
消防団員さんが一歩前に出かけたが、桂一さんが手で軽く止めた。
「動画を撮るなら、昼の道の駅を撮ってください。地元の野菜や、山の風景なら、紹介できることはいくらでもあります」
「それじゃ伸びないんですよ」
若者が言った。
その言葉は、悪意というより、ただ軽かった。
伸びない。
それだけの理由で、夜の滝へ行こうとしている。
私は、少し寒くなった。
「伸びるために、救助する人を危険に入れるのはやめてください」
桂一さんは、そう言った。
若者は一瞬黙った。
けれど、すぐに視線をそらした。
「分かりましたよ。行きませんって」
その言い方で、本当に分かっていないことは分かった。
若者たちは、不満そうな顔のまま車の方へ戻っていった。
完全に納得したわけではない。
たぶん、こちらの言葉の半分も届いていない。
それでも、今はそれ以上踏み込めなかった。
こちらは警察ではない。
相手を拘束できるわけでもない。
注意はした。
紙も渡した。
記録も残った。
その先は、こちらの範囲ではない。
「ありがとうございます」
急に、管理人さんが口にした。
私は少し驚いて、そちらを見る。
管理人さんは、若者たちの車の方を見たまま言った。
「私たちが何度も注意すると、逆上してネットで悪い噂を書かれたりしちゃうので」
そうか、と私は納得した。
道理で、いつもはあまり表に立とうとしない桂一さんが、今回は自分から声をかけたわけだ。
地元の人が言えば、店への悪評になる。
管理人さんが言えば、道の駅の対応が悪いと言われる。
消防団員さんが言えば、地元が隠していると騒がれるかもしれない。
でも、外から来た市影譚の人間なら、少しだけ違う。
完全に安全な立場ではない。
けれど、地元の生活そのものに傷がつくよりは、受け止めやすい。
気が回る人である。
「いえ」
桂一さんは、いつもの穏やかな笑顔で答えた。
「私も呼ばれたので、役に立たなければと思っただけです。あの方たちにとっては、身分も見せない変な奴から注意された、程度になってしまったかもしれませんが」
「いや、それで助かるんですよ」
管理人さんは、少し苦く笑った。
「こっちは、明日もここで商売しなきゃいけないんで」
「そうですよね」
桂一さんは頷いた。
「だから、こちらで言えることは言います。ただ、警察の範囲に入るところは警察へ。地元の方が無理に追わないでください」
消防団員さんも、少し悔しそうにしながら頷いた。
「……分かりました」
私は、そのやり取りをメモに残した。
市影譚は、怪異を退治する場所ではない。
誰かの代わりに、怒鳴る場所でもない。
けれど、地元の人が直接言いづらい言葉を、少しだけ外側から置くことはできる。
怖さが独り歩きする前に、扱い方を置く。
その意味が、前より少し分かった気がした。
*
完全に帰るには、少し不安が残った。
管理人さんと消防団員さんも同じだった。
ただ、ずっと道の駅にいるわけにもいかない。
若者たちは一度車に戻り、コテージの方へ向かったらしい。
桂一さんは、しばらく考えたあと言った。
「今夜は近くに泊まります」
「え?」
私は聞き返した。
「帰らないんですか?」
「嫌な予感がする、とは言わないけど」
「言ってます」
「念のため」
私は、スマートフォンで近くのビジネスホテルを探した。
山から少し下りた町に、空きがあるホテルがあった。
「部屋、二つ取りますね」
「うん、それでいい」
「そこは即答なんですね」
「当たり前だろ?」
桂一さんは少し笑った。
「こういう時ほど、別室だよ」
その言い方に、少しだけ安心した。
市影譚では、宿は別室。
経費は透明。
現場でも、距離感は崩さない。
怖い場所へ一緒に行くからこそ、そういう線引きが必要なのだと思う。
ホテルに着いた頃には、外は暗くなっていた。
チェックインを済ませ、それぞれの部屋に荷物を置く。
私は部屋で少しだけ横になったが、眠れる気はしなかった。
滝の音が、まだ耳に残っている。
実際にはもう聞こえないはずなのに、頭の奥で白く鳴っている。
スマートフォンを見る。
時刻は、午後十時を少し過ぎたところだった。
その時、桂一さんからメッセージが来た。
――起きてる?
私はすぐに返した。
――起きています。
数秒後、内線ではなくスマートフォンが鳴った。
「はい」
『消防団から連絡。若者たちが滝へ向かった』
眠気が、一瞬で消えた。
「行くんですか」
『仕方ない。警察にも連絡が入ってる。相沢、無理に来なくていい』
「行きます」
『夜だよ』
「紙を作ったのは私です」
電話の向こうで、桂一さんが少し黙った。
『分かった。五分後にロビーで』
私はすぐに上着を羽織った。
バッグにライトとメモ帳を入れる。
靴紐を結び直す。
ホテルの廊下に出ると、妙に静かだった。
ロビーには桂一さんが立っていた。
黒のスラックスに、厚手のワイシャツ。
上から地味な色のダウンを羽織っている。
「寒いから、前閉めて」
「はい」
「滝の方までは行かない。安全な範囲だけ」
「分かっています」
桂一さんは、私の顔を見て少しだけ頷いた。
「行こう」
*
夜の道の駅は、昼とは違う場所に見えた。
建物は閉まっている。
駐車場の灯りだけが、アスファルトを白く照らしている。
その端に、警察車両が一台。
消防団の軽ワゴンが一台。
道の駅の管理人さんの車も停まっていた。
若者たちは、ちょうど滝へ向かう道から戻されているところだった。
ライトを持っている者。
スマートフォンを向けている者。
足元がふらついている者。
酒の匂いが、少しした。
警察官が、淡々と退去を促している。
「危ないので戻ってください」
「いや、撮影してただけなんで」
「ここは夜間に入る場所ではありません」
「別に何も壊してないですよ」
「そういう話ではありません」
大きな揉め事にはならなかった。
警察官がいると、若者たちも強くは出ない。
不満そうではあったが、車の方へ戻っていく。
その時、昨日の消防団員さんがこちらに気づいた。
「来てくれたんですか」
少し驚いたような声だった。
「近くに宿をとってましたからね。呼ばれたら来ますよ」
桂一さんは、そう答えた。
「それは助かりますね」
消防団員さんは、ほっとしたように言った。
その時は、普通の会話に聞こえた。
けれど私は、少しだけ引っかかった。
助かりますね。
呼んだ本人なら、そう言うだろうか。
でも、その場で聞き返す余裕はなかった。
若者たちは警察に促され、駐車場の方へ戻っていく。
管理人さんが、ため息をついた。
「やっぱり行ったか。あの様子だったらね」
「酒は?」
桂一さんが聞く。
「飲んでたな。ろれつも回って無くて、軽くじゃ済まねぇ感じだった」
消防団員さんも頷いた。
「滝見台の手前で止められたので、まだ良かったです」
「奥まで入っていたら?」
「声、届かなかったと思います」
その言葉に、私は滝の音を思い出した。
白い音。
近くにいる人の声まで飲んでしまう音。
若者たちの車が、警察に誘導されるように駐車場を出ていった。
これで終わりだと思った。
その時だった。
桂一さんのスマートフォンが鳴った。
桂一さんは画面を見た。
その横顔が、ほんの少しだけ固まったように見えた。
「誰からですか?」
私が聞くと、桂一さんは画面をこちらに向けた。
表示には、消防団員さんの名前が出ていた。
私は慌てて後ろを振り返った。
少し離れた場所で、表示に出ている消防団員さんが誰かと電話をしている。
さっきの件が大事になってしまったのだろう。
役場か、別の団員か、コテージの関係者か。
慌ただしく連絡を入れているように見えた。
こちらに電話をかけているようには見えない。
「……出るんですか?」
「もちろん」
桂一さんは、いつもの声で言った。
「――はい、水野です」
私は息を止めた。
桂一さんは、しばらく黙って聞いていた。
「まだ帰っていない?」
その言葉に、背中が冷たくなった。
若者たちは、今まさに警察に付き添われて駐車場を出たばかりだった。
「滝の方に?」
桂一さんは、暗い木々の方を見た。
道の駅の灯りの先に、山道の入口が黒く沈んでいる。
その向こうから、水音だけが聞こえていた。
「分かりました。確認します」
通話はそこで切れた。
「誰か、まだいるんですか」
私が聞くと、桂一さんは画面を見た。
「そう言われた」
「誰に?」
「表示に出てただろ?」
その時、近くにいた年配の警察官がこちらへ顔を向けた。
「どうしました」
桂一さんは、少しだけ言葉を選んでから答えた。
「まだ誰か滝の方にいるかもしれない、と連絡がありました」
「誰から?」
「消防団の方からです」
年配の警察官は、離れた場所で電話をしている消防団員さんを見た。
この場にいる団員は一人しかいない。
その一人は、今も誰かへ慌ただしく連絡を入れている。
だから、桂一さんがいったい誰と話していたのか、気になったのだろう。
「……消防団の方から?」
「はい」
桂一さんは否定しなかった。
年配の警察官は、若い警察官に目を向けた。
「お前、念のため行ってこい。俺はこっちで話を聞く」
「はい」
若い警察官は、少し緊張した顔で頷いた。
それから桂一さんを見た。
「本当に電話が来たんですか?」
桂一さんは、すぐには答えなかった。
自分でも疑問に思っているように、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「そのはずです」
そして、暗い山道の入口を見た。
「現場にいる人からの連絡なので、凄い奇妙なのですが、近づかないで様子を見るだけでもしようかなと」
若い警察官は、ライトを握り直した。
「分かりました。行きましょう。ただ、危ないと思ったら戻ります」
「もちろんです」
桂一さんは頷いた。
「相沢、半歩後ろ」
「はい」
そうして私たちは、若い警察官と三人で、夜の滝へ向かった。
*
滝へ向かう道は、夜になるとまったく違っていた。
昼間は細い遊歩道だった。
でも、今は黒い溝のように見える。
ライトを当てても、奥まで届かない。
足元だけが白く浮き、周囲の木々は黒いままだった。
若い警察官が先頭を歩く。
その後ろに桂一さん。
私は、さらに半歩後ろ。
「足元だけ見て」
桂一さんが言った。
「滝は見なくていい」
「はい」
滝の音が近づいてくる。
昼よりも大きく聞こえた。
実際には同じ音なのかもしれない。
でも、夜の中では、ほかの音が消える分だけ強くなる。
靴が湿った土を踏む音。
ライトの先で揺れる枝。
遠くで鳴る水の白い音。
それらが、少しずつ混ざっていく。
滝見台の手前まで来た。
誰もいない。
外灯が無くて本当に真っ暗だ。
若い警察官がライトを左右に振る。
人の姿はない。
足音もない。
若者たちの声も聞こえない。
「誰もいませんね」
若い警察官が言った。
その声は、滝の音で少し歪んだ。
桂一さんは答えなかった。
少しだけ、別の方向を見ていた。
私は、その視線を追った。
昨日、私たちが写真で確認した“人影に見える場所”ではない。
滝壺の横でもない。
白い筋と黒い岩が重なる場所でもない。
もっと奥。
昼間は、ただの岩肌と木の影に見えていた場所だった。
「桂一さん?」
「まだ誰かいるのか」
桂一さんが話しかけるようにして言う。
その声が滝の音に飲まれかける。
ライトが揺れた。
その先に、白いものがあった。
着物に見えた。
女の人に見えた。
けれど、次の瞬間には、水しぶきと霧と岩の白さに戻っていた。
私は、動けなかった。
昨日の写真に写っていた場所とは違う。
そこが、一番怖かった。
人影に見える角度は、昨日確認した。
説明できる場所は、分かっていた。
でも、今見えたものは、そこではなかった。
急に、何かに手を引っ張られた。
「相沢、止まって」
桂一さんだった。
私は、自分が一歩前へ出ようとしていたことに、その時初めて気づいた。
「近づかない」
「……はい」
若い警察官がライトを向ける。
そこには、何もなかった。
岩。
霧。
水しぶき。
濡れた木。
それだけだった。
若い警察官が、小さく息を吐いた。
心なしか、青白い顔になっている気がする。
「今、何か見ました?」
誰に聞いたのか分からない声だった。
桂一さんは、しばらく黙っていた。
「見えた気はしました」
「いたんですか」
「それは、分かりません」
断定はしない。
その言葉を、私は何度も聞いている。
でも、その夜ほど頼りなく聞こえたことはなかった。
*
ホテルに戻った時には、日付が変わりかけていた。
ロビーの照明は明るすぎて、かえって現実感が薄かった。
自動販売機の低い音だけが、妙にはっきり聞こえる。
桂一さんは、スマートフォンの履歴を確認していた。
私は、ロビーの椅子に座ったまま、その手元を見ていた。
しばらくして、桂一さんが言った。
「確認したけど、さっきの着信はなかった」
「え?」
「履歴がない。通知もない」
「でも、話してました」
「そうだね」
桂一さんは、少しだけ考えるように黙った。
「山の中だったし、スマホが電波障害を起こしていたのかもね」
「……電波障害で、着信履歴が消えるんですか」
「可能性の話だよ」
その言い方は、説明というより、これ以上踏み込まないための線引きに聞こえた。
桂一さんは、続けて録音アプリを開いた。
「昼の通話も確認した」
「昼の?」
「消防団員さんから、若者の話を聞いた時のやつ」
私は、黙って画面を見た。
「若者の話も、酒の話も残ってる」
「じゃあ」
私は言いかけて、自分で声が小さくなるのが分かった。
「“来てほしい”も、入ってますか」
桂一さんは、すぐには答えなかった。
画面の再生位置を少し戻す。
小さなノイズ。
消防団員さんの声。
桂一さんの返事。
そして、あの間。
桂一さんがスマートフォンを耳から離し、画面を見た時の空白。
録音には、ノイズだけが入っていた。
声はなかった。
けれど、その直後の桂一さんの返事だけが残っていた。
――ええ、はい。こちらも向かいます。
私は、何も言えなかった。
「無音なんですか」
「いや。ノイズは入ってる。僕の返事も入ってる」
「でも、声だけがない」
「そういうことになるね」
桂一さんは、スマートフォンを伏せた。
私は、うまく頷けなかった。
白く見えたもの。
履歴に残らない電話。
録音に残らない一言。
滝の音。
夜の山道。
部屋に戻って、一人で眠れる気がしなかった。
「あの」
「うん?」
私は、自分でも少し驚くくらい小さな声で言った。
「桂一さん、一緒に寝ませんか?」
言った瞬間、自分の顔が熱くなるのが分かった。
桂一さんは、少しだけ私を見た。
呆れるでもなく、慌てるでもなく、ただ普通に見た。
「もう大人だろ? 夜も遅いし、温かいのでも飲んで早く寝とけ」
そう言いながら、自動販売機の方へ歩いていく。
私は、返事もできずに立っていた。
少しして、桂一さんが戻ってくる。
「ほら」
渡されたのは、ホットレモンだった。
缶は温かくて、両手で持つと少しだけ指先の力が抜けた。
「隣の部屋なんだから、何かあったら来ればいい」
桂一さんは、エレベーターのボタンを押した。
「絶対守るから、安心して寝ればいい」
そう言う声に、照れはまったくなかった。
恋愛の言葉ではない。
仕事の確認に近い。
現場で危険があれば下がれ、と言う時の声と同じだった。
だから余計に、困った。
エレベーターの扉が開く。
桂一さんは先に中へ入り、こちらを振り返った。
「行くよ」
「……はい」
私はホットレモンを握ったまま、エレベーターに乗った。
胸がまだ少し早く動いていた。
今日の恐怖のせいなのか。
さっきの言葉のせいなのか。
それとも別の何かなのか。
その時の私は、うまく分けられなかった。




