市影譚-EP2【白く見える滝】写真
道の駅へ戻ると、滝の音はほとんど聞こえなくなった。
代わりに、駐車場へ入ってくる車の音が戻ってくる。
軽トラックのドアが閉まる音。
自動販売機の低い機械音。
誰かが野菜の入った袋を抱えて歩く音。
少し離れただけで、世界は普通に戻る。
それが、妙だった。
さっきまで滝の前では、ほとんどの音が水に吸われていた。
人の声も、足音も、気配も、全部が白い音の奥に沈んでいた。
でもここでは、誰かの生活の音がちゃんと聞こえる。
管理人さんは、道の駅の休憩スペースに案内してくれた。
古いテーブル。
観光パンフレット。
地元の野菜の出荷予定。
手書きのイベント案内。
壁には、山の写真が貼られている。
滝の写真もあった。
昼の滝だった。
水しぶきが白く、岩が黒い。
それだけなら、普通にきれいな観光写真だった。
私は、さっき撮った写真を確認した。
足元。
濡れた木道。
苔のついた段差。
水しぶきの届いている手すり。
滝壺の横で、人影のように見える岩と枝。
どれも、怖い写真ではない。
けれど、見ていると少しずつ分かる。
ここは、夜に来る場所ではない。
「載せるなら、どれがいいですか」
私が聞くと、桂一さんはスマートフォンを受け取って、写真を一枚ずつ見た。
「滝そのものは載せない」
「やっぱりですか」
「うん。探される」
桂一さんは、濡れた木道の写真で指を止めた。
「これがいい」
「地味ですね」
「地味でいい。見てほしいのは、幽霊じゃなくて足元だから」
消防団員さんが、少し笑った。
「心霊記事で足元の写真って、珍しいですね」
「心霊記事にしない方がいいです」
桂一さんは、はっきり言った。
「今回は、危険喚起の記事です」
管理人さんは、テーブルに肘をついた。
「でもよ、怖い写真を載せないと読まれねぇんじゃねぇのか」
「読まれると思います」
「なら」
「来る人も増えます」
管理人さんは、そこで黙った。
桂一さんは続けた。
「怖い写真は、読まれるためには強いです。でも、今回その写真を載せたら、同じ角度を探しに来る人が出る」
「……ああ」
「人影に見える場所を探す。夜に撮る。自分の動画で確かめる。そういう流れになります」
私は、ノートに短く書いた。
見せないことも、対策。
消防団員さんが、私のノートを見て言った。
「相沢さんらしいですね」
私は少し困った。
「桂一さんの方針です」
「いや、今のメモの取り方が」
「そうですか」
「怖がらせないように、でも危ないって分かるように書く感じが」
そう言われて、少しだけ照れた。
市影譚で私がやっていることは、たぶんそういうことだ。
怖さを消すことではない。
怖さを、扱える形へ移すこと。
私はノートを開き直した。
「掲示文、作ってもいいですか」
管理人さんが顔を上げた。
「掲示?」
「道の駅に貼る用です。夜に滝へ行かないでください、だけだと逆に気になる人もいるので、危険の理由を具体的に書いた方がいいと思います」
「頼めるか」
「はい」
私はペンを持った。
最初に大きく書く言葉を考える。
心霊スポットではありません。
夜間立入禁止。
危険です。
どれも、少し違う気がした。
強すぎる言葉は、反発される。
弱すぎる言葉は、届かない。
少し考えてから、私はこう書いた。
この滝は、夜に見る場所ではありません。
桂一さんが横から覗く。
「いいね」
「強すぎますか?」
「いや。ちょうどいい」
その下に、短く理由を並べる。
滝の音で、声や足音が聞こえにくくなります。
水しぶきで、足元が濡れています。
冬季や朝夕は、濡れているように見えて凍っている場合があります。
夜間は岩・霧・水しぶき・枝が重なり、人影のように見えることがあります。
写真や動画を撮るために、滝見台より先へ進まないでください。
農道や私有地へ入らないでください。
夜間の駐車場利用は控えてください。
そこまで書いて、私は一度止まった。
最後の一文が決まらない。
危険です。
やめましょう。
戻ってください。
どれも、ただの注意で終わってしまう。
桂一さんは何も言わなかった。
待ってくれているのだと思った。
私は、滝の音を思い出した。
落ち着く音。
ずっと聞いていたくなる音。
近づきたくなる音。
でも、足元を消してしまう音。
そして、書いた。
ここは、終わりに来る場所ではありません。
戻るために、立ち止まる場所です。
ペンを置くと、休憩スペースが少し静かになった。
管理人さんは、その文章をじっと見ていた。
「……これ、貼っていいのか」
「そのために作りました」
「いや、そうじゃなくて」
管理人さんは、少し言葉を探した。
「なんか、店の貼り紙にするには、もったいねぇな」
消防団員さんも頷いた。
「でも、こういう方が届くかもしれません」
その時、役場の若い職員さんが道の駅へ来た。
連絡を受けて、仕事の合間に寄ったらしい。
彼は掲示文を読んで、少しだけ眉を下げた。
「これなら、役場の注意喚起としても使いやすいです」
「使えるんですか?」
私が聞くと、彼は少し困ったように笑った。
「そのまま公式に出すには調整が必要です。でも、“心霊スポットではありません”と書くより、ずっといい」
桂一さんが言った。
「心霊スポットではありません、と書くと、心霊スポットという言葉だけが残る」
「そうなんです」
役場の若い職員さんは、少しほっとしたようだった。
「こっちが一番困るのは、否定したつもりで広めてしまうことなので」
噂は、否定でも広がる。
違うと言えば、何が違うのか確かめに来る。
危ないと言えば、危ない場所を見に来る。
隠していると言えば、隠されたものを探しに来る。
言葉の置き方を間違えると、止めるつもりで道を作ってしまう。
私は、掲示文の横に小さく追記した。
写真の“人影”について。
夜間撮影では、岩、枝、水しぶき、霧、撮影補正が重なり、人の形に見える場合があります。
見えたことを否定するものではありません。
ただし、見えたからといって、そこへ近づく理由にはなりません。
桂一さんは、それを見て頷いた。
「それでいい」
「断定しすぎていませんか」
「してない。ちょうど、市影譚の距離だと思う」
ちょうど、市影譚の距離。
そう言われて、少しだけ安心した。
夕方が近づいていた。
道の駅の駐車場には、地元の車が何台か停まっている。
野菜を買いに来た人が、袋を抱えて車へ戻っていく。
売店の中では、レジの音がしていた。
その普通の音が、やけに大事に思えた。
滝の噂が広がれば、ここは「心霊スポット近くの道の駅」になる。
でも本当は、そうではない。
地元の人が野菜を売る場所。
米を買いに来る場所。
トイレに寄る場所。
冬には山帰りの人が温かいものを買う場所。
農家の人が知り合いと少し話す場所。
そういう場所だった。
管理人さんは、掲示文の紙を持って言った。
「これ、清書したやつをもらえるか。入口とトイレ前に貼りたい」
「はい。いったん事務所で整えて、PDFで送ります」
私が答えると、消防団員さんが言った。
「俺の方にも送ってもらっていいですか」
「もちろんです」
「変な人が来た時に、これを見せられるので」
その言い方で、私は少し嫌な予感がした。
「来そうなんですか」
消防団員さんは、困ったように笑った。
「もう来てるんですよ」
管理人さんも苦い顔をした。
「今日も、駐車場でそれっぽい若いのが写真撮ってた。滝へ行く道を聞かれたって、売店の子が言ってた」
「注意したんですか?」
「したけど、聞いてるかどうか」
消防団員さんは、私のノートに視線を落とした。
「こういう紙があれば、こっちも少し言いやすいです」
桂一さんが静かに言った。
「ただ、渡したからといって、無理に止めようとはしないでください」
「え?」
「行く人は、紙を見ても行きます。そこで地元の人が強く止めると、揉めることがあります」
管理人さんが小さく頷いた。
「ネットに悪く書かれるやつだな」
「はい」
桂一さんは続けた。
「注意喚起はする。記録は残す。危険があるなら警察へ連絡する。地元の方が追いかけない。そこは徹底した方がいいです」
消防団員さんは、悔しそうな顔をした。
「でも、行かれたら危ない」
「分かります」
「分かっていても、止められないんですか」
「止める役割は、分けた方がいいです」
桂一さんの声は静かだった。
「管理する人。注意する人。通報する人。救助する人。全部を一人がやると、事故になります」
休憩スペースが、少し静かになった。
私はその言葉もノートに書いた。
全部を一人がやらない。
それは、今回の滝だけではなく、市影譚そのものにも言えることのような気がした。
その後、役場の若い職員さん、消防団員さん、管理人さんと、夜間の対応について短く話し合った。
無断駐車を見つけた時に、誰が声をかけるのか。
危険区域へ入っていた場合、どこまで追わないのか。
警察へ連絡する基準。
農道へ入った車を見つけた時の対応。
SNSで場所が特定されそうになった時の連絡先。
怪談の話ではなかった。
ほとんど、地域の安全対策だった。
それでいいのだと思った。
市影譚が扱うべきなのは、白い人影そのものではない。
白い人影を見に来てしまう人たちと、そこに暮らす人たちの間だった。
帰る前に、私はもう一度だけ山の方を見た。
夕方の光の中で、滝はもう見えなかった。
でも、音だけは遠くにある。
白い音。
聞いていると、少し落ち着く。
落ち着くからこそ、長くいたくなる。
私は、さっき書いた一文を思い出した。
ここは、終わりに来る場所ではありません。
戻るために、立ち止まる場所です。
その言葉が、本当に届くかどうかは分からない。
でも、何も置かないよりはいい。
怖さが独り歩きする前に、扱い方を置く。
それが、今回の最初の仕事だった。




