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市影譚-短編シリーズ  作者: 鳥ノ木剛士


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市影譚-EP2【白く見える滝】昼の滝

 滝へ向かう道は、最初だけ整っていた。


 道の駅の裏から続く遊歩道には、木製の案内板が立っている。

 ただし、文字は少し色あせていた。


 昼間なら、迷うような道ではない。


 けれど、夜に来たら違うだろうと思った。


 足元には湿った落ち葉が溜まっている。

 木の根が、ところどころ土から浮いている。

 手すりのない箇所もある。

 道幅は、人が二人並べるかどうかだった。


 私は録音機を片手に、足元を見ながら歩いた。


 滝の音は、進むほど大きくなっていく。


 最初は遠い水音だった。

 それが、いつの間にか、周囲の音を押しのけるようになった。


 鳥の声が薄くなる。

 車の音が消える。

 後ろを歩く消防団員さんの足音も、少し離れると分からなくなる。


「聞こえづらいですね」


 私が言うと、桂一さんは頷いた。


「滝の近くは、声が届かない」


「叫んでもですか?」


「届くけど、方向が分かりにくい。音が全部、水に寄るから」


 管理人さんが振り返った。


「だから夜は困るんだ。誰かが上の方にいても、下から呼んで気づかねぇことがある」


 消防団員さんも続けた。


「ライトの向きで見え方も変わります。本人は照らしてるつもりでも、足元じゃなくて滝ばかり見てる」


 滝ばかり見る。


 その言葉が、少し引っかかった。


 やがて、木々の間が開けた。


 白い滝が見えた。


 大きすぎる滝ではない。

 けれど、近くに立つと十分に迫力があった。


 岩肌を流れる水が、いくつもの白い筋になって落ちている。

 滝壺の周りには細かい水しぶきが漂い、光を受けて薄く白く見えた。


 きれいだった。


 それが、最初の感想だった。


 怖い場所、というより、静かな場所。

 人が立ち止まりたくなる場所。


 だから余計に、危ないのかもしれない。


「普通にきれいですね」


 私は言った。


「うん」


 桂一さんは、滝を見ながら答えた。


「昼はね」


 その言い方が、少しだけ重かった。


 滝見台は古かった。


 木材は濡れて黒ずんでいる。

 手すりはあるが、ところどころささくれていた。

 足元には苔があり、踏むとわずかに滑る。


 私は一歩踏み出して、すぐに足を止めた。


「滑りますね」


「今でもこれだから、冬はもっと危ない」


 桂一さんは、しゃがんで木道の表面を見た。


 指で触る。

 指先に、薄く水がつく。


「水しぶきが届いてる」


「ここまでですか?」


「うん。風向きによっては、もっと来ると思う」


 消防団員さんが言った。


「朝方は、この辺だけ白くなることがあります」


「雪ですか?」


「雪じゃないです。薄い氷です」


 私は木道を見た。


 今はただ濡れているようにしか見えない。


 でも、これが凍っていたら。


 暗くて、足元が見えなくて、滝の音で周囲の声が消えていたら。


 怖いのは、人影ではないのかもしれない。


「写真の角度は、どのあたりですか?」


 桂一さんが聞くと、管理人さんが滝見台の端を指した。


「たぶん、あそこだな。みんな同じような場所から撮ってる」


 私たちは、写真を見せてもらった時の立ち位置に近い場所へ移動した。


 桂一さんは、スマートフォンの画面と実際の滝を見比べる。


 私は少し後ろから、同じ方向を見た。


 あった。


 白い人影に見えた場所。


 昼の光の中でも、分かる。


 滝壺の横にある黒い岩。

 その上を流れる細い水の筋。

 手前に伸びた枝。

 奥に漂う水しぶき。


 それらが、角度によって重なる。


 頭。

 肩。

 胴体。

 腕。


 人の形に、近い。


「……見えます」


 私は言った。


「何に?」


「人影に」


「いる?」


 私は少し黙った。


 滝を見た。

 岩を見た。

 枝を見た。

 水しぶきを見た。


「いません」


「うん」


「でも、見えます」


「それでいい」


 桂一さんは、淡々と言った。


「見えたことは、嘘じゃない。いたことにはならない」


 私はノートに書いた。


 見える。

 しかし、いるとは断定しない。


 相沢さんらしい書き方ですね、と消防団員さんが言った。


 私は少し笑った。


「市影譚では、だいたいこうなります」


 桂一さんは、滝の方を見たまま言った。


「人の脳は、足りない線を描き足す。暗い場所なら、なおさらね」


「シミュラクラ現象ですか」


「それも近い。人の顔や体に見える形を、脳が探してしまう」


 私は、写真と実際の滝を見比べた。


「一度“人影が写る”と聞いてから見ると、先に人を探しますね」


「うん。噂は目の使い方を変える」


 その言葉が、今回の話の中心に近い気がした。


 噂は、場所を変える。

 写真を変える。

 人の目を変える。


 何もない場所に何かを作るわけではない。

 もともとあった岩や霧や枝を、別の意味に変えてしまう。


 滝の音は、ずっと続いていた。


 白く、低く、途切れない音。


 私は少しだけ、聞き入ってしまった。


「滝の音って、落ち着きますね」


 そう言うと、桂一さんは小さく頷いた。


「落ち着く音ではあるね」


 少し間を置いて、続ける。


「でも、落ち着きすぎる音でもある」


「落ち着きすぎる?」


「悩んでいる時に、ここへ来たら、しばらく動けなくなるかもしれない。ずっと聞いていたくなる。もう少し近くで聞きたくなる」


「……近づきたくなる」


「うん」


 桂一さんは、滝壺の方を見た。


「そこで足場が濡れていたり、凍っていたり、夜で見えなかったりしたら、それだけで事故になる」


 消防団員さんが、黙って頷いた。


 管理人さんも、何も言わなかった。


 誰も、その先の言葉を出さなかった。


 出さなくても分かる話だった。


「怖いのは」


 桂一さんは、滝の音に負けないように少しだけ声を張った。


「滝が人を呼ぶことじゃない。呼ばれたような気持ちになった人が、自分で一歩進んでしまうことだよ」


 私は、滝見台の手すりを見た。


 濡れた木。

 白い水。

 黒い岩。

 足元の苔。


 ここは、昼ならきれいな場所だった。


 けれど、夜なら。


 何かを見たいと思って来た人には、何かが見えてしまうのだと思った。


 桂一さんは、私に言った。


「写真を何枚か撮って。滝そのものじゃなくて、足元と手すり。水しぶきが届いている場所」


「はい」


「あと、同じ角度で人影に見える構図も。ただし、公開するかは後で判断する」


「載せると来ますよね」


「たぶんね」


 私はカメラを構えた。


 白い滝ではなく、濡れた木道を撮る。

 苔のついた段差を撮る。

 水しぶきで黒くなった手すりを撮る。


 怖い写真ではない。


 けれど、見れば分かる。


 夜に来る場所ではない。


 私はそういう写真を撮りたかった。


 滝の前に立っていると、少しずつ体が冷えてきた。


 道の駅の駐車場では感じなかった冷え方だった。


 局所的に、空気が下がっている。


「寒いですね」


「滝の近くだからね」


 桂一さんは言った。


「夏なら涼しいで済む。でも、冬は別になる」


 消防団員さんが、滝見台の端を指した。


「あの辺が一番凍ります。ぱっと見だと濡れてるだけに見えるんです」


「写真、ありますか」


 桂一さんが聞くと、消防団員さんはスマートフォンを出した。


「去年の朝に撮ったやつなら」


 画面には、同じ滝見台が写っていた。


 今とほとんど変わらない。


 ただ、木道の一部が白く曇っている。

 手すりの下に、薄い透明な氷がついている。


 写真だけでは分かりにくい。


 知らなければ、ただ濡れているように見える。


「これ、危ないですね」


 私が言うと、消防団員さんは頷いた。


「昼には溶けるんです。だから後から来た人には、何が危なかったのか分かりにくい」


 桂一さんは、その写真をじっと見た。


「見つかった時には、氷がない」


「そうです」


「だから、何もない場所で転んだように見える」


「はい」


 それは、怪談よりずっと現実的で、嫌な話だった。


 残らない危険。


 見つかった時には消えている原因。


 説明しようとしても、写真に写りにくいもの。


 市影譚で扱うべきものは、たぶんこういうものなのだと思った。


 桂一さんは、滝から少し離れた。


「今日はここまでにしよう」


「夜は見ないんですね」


 管理人さんが聞く。


「見ません」


 桂一さんは即答した。


「危ないと分かっている場所へ、夜に入る必要はありません」


「でも、夜に見えるって話だろ」


「昼に見える構造は確認できました。夜にそれが強くなることも予想できます。これ以上は、確認より危険が上回ります」


 管理人さんは、少し驚いたように桂一さんを見た。


「そういうもんなのか」


「そういうもんです」


 桂一さんは言った。


「市影譚は、見たいものを見に行く場所じゃないので」


 その言葉で、私は録音機を止めた。


 滝の音が消えたわけではない。

 ただ、録音の中に閉じ込めるのをやめただけだった。


 帰り道、私は何度か振り返った。


 白い滝は、木々の間に少しずつ隠れていく。


 最後に見えた時、やはり人影のようなものがそこに立っている気がした。


 でも、立ち止まらなかった。


 見えたからといって、近づく必要はない。


 たぶん、それが今回の最初の答えだった。

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