第肆話
僕が僕自身の村を壊した日から幾日も過ぎ去った。
気付けは汗を滲ませる暑さはどこかに消え去ってしまっていて、空気はカラリと乾いて夜空の綺麗な季節が姿を見せた。
そんな、寒さに凍えてしまいそうな日の朝、運命の日の朝。僕は太陽が姿を見せるよりも早く目を覚ました。と言っても、冬は朝日が昇るのが夏に比べてかなり遅い。だから多分いうほど早起きはできていない。
目を覚ましたのはいつも小咲が暮らしていた神社の一室。覚悟を決めたあの日から、僕はずっとここに住み込んでいる。それこそ、小咲との思い出に浸るように。もう戻らない日常に縋るように…。
とにかく時間が惜しい。以前お姉さんが言っていた仁宮家の儀式は今日なのだ。儀式が進んでしまえば僕に為す術はなくなる。だから、儀式が始まる前に‘動かなければ’ならない。
僕はすぐさま準備に取り掛かった。
お姉さんに渡された神器と呼ばれる類の異常に刃の短い短剣を鞘に収めた状態で懐にしまいこみ、先の方に毒を塗ってある針を竹筒に入れて腰に携える。筒には針を取り出すための穴があるけれど、そこに蓋をしてあるおかげで水を入れた竹筒にしか見えない。
その他にも‘小道具’を色々と身につけ、ようやく日が登ろうかという頃合いに神社を後にした。けれど、日は登らない。
空は暗雲に包まれていたからだ。
なんというか、妙に嫌な予感がした。
雷が鳴るわけではなく、雨が降る時の独特の匂いもしないから一時的な厚い雲だろうけれど、それでもやっぱり何かを告げているのではないかと思えてならなかった。
チリチリとした寒さに自らの腕を抱きかかえる形で震えていると、いつもとは違った華やかな着物姿でいつも通り鳥居の上に腰掛けていたお姉さんが僕に声をかけてきた。
「準備は終わったか?」
その声は僅かに震えていて、彼女も神様といえど生きているのだと実感した。
「うん。準備は終わったよ」
「そうか…」
「……どうかした?」
お姉さんが無言で僕を見つめてくるので少しだけむず痒くなって問いかける。
すると、お姉さんは誤魔化すように鼻で笑って「なんでもないわ」と言った。
「お前さん…」
‘作戦’の開始時間まですっかり住み慣れた神社を眺めていろいろな思い出を振り返っていると、お姉さんが不意に声をかけてきた。
「何?」
「……失敗はするなよ?」
その言葉に僕は「わかってるよ」だなんて素っ気ない言葉しか返すことができなかった。
暫くして、お姉さんが鳥居の上から‘ぴょん’っと軽やかに飛び降りた。作戦の開始時間になったということだった。
上品に小股で歩くお姉さんの3歩後ろを僕は歩く。晴れだったら僕はお姉さんに傘で影を作りながら後ろをついて行く予定だったけれど、今はその必要はない。
僕は手に風呂敷包みの手荷物を持ちながら、お姉さんの召使いを装って仁宮家へと向かった。
朱色の鳥居群をくぐり終えると、目の前には仁宮家へと続く道が見えた。神社に続く道とは違って手入れがあまりされていない所為で道脇の雑草が砂の道にまで侵食してきている。
この道を手入れしているのは仁宮家の家臣たちであり、神社へ続く道も同様だ。それを踏まえると神社への道の方が綺麗にされているということは仁宮家の人々はお姉さんをよほど大切に扱っているということだ。
今更ながら、考えれば考えるほどに仁宮家というものの存在が胡散臭いものに思えてくる。どうして僕たちはこんな一家に怯え続けてきたのだろうか。
階段があるわけでもなくただ伸び続ける緩やかな傾斜の坂道を歩き続け、山の中腹にたどり着いたあたりで長槍を持った二人の兵士に出会った。
「これはこれは、八尾様。今日はわざわざありがとうございます」
二人のうち、背の高い方の槍兵が低い声でお姉さんに話しかける。お姉さんはどうやら仁宮家の人々からは‘八尾’と呼ばれているようだ。
「いえいえ。昔から見てきた坊ちゃんと私が育ててきた少女の挙式なんだ。そりゃあ顔を出すさ。それに、今まで来てたんだから今回もくるのは当たり前だ」
お姉さんがそう答えると、二人の槍兵は深々と頭を下げた。そして、次は背の低い槍兵が僕を見て「そちらは?」と首を傾げた。
「私の荷物持ちだよ」
ニタリと笑うお姉さんに対し、二人の槍兵は何か言いたいことがあるようだったが、「口を出すなよ?」と言った具合にお姉さんが睨みを利かせたことで二人は言葉を飲み込んだ。
再び歩き始めたお姉さんについて行くために槍兵二人に頭を下げて小走りで僕も進む。
そこからどれだけ歩いたのかはわからないが、次第に道は綺麗に舗装されたものへと変わって行き、木々が開け、大きな門が見え始めた。見た限り、門番はいないようだった。
一度火で炙ることで強度を上げた木材を使用している大きな門には金色で模様が描かれており、それは神という文字が鳥居の中に収められている模様だった。
「気になるか?」
不思議な印を見て呆然とする僕を見ることなく、お姉さんはつまらなさそうに声をかけてきた。
「…少しだけ」
門に描かれていた模様に意味がないと思っていた僕は聞く意味はあるのだろうかという後ろめたい気持ちがありながらも、気になっていることを正直に話した。
「あれはな、仁宮家の家紋だ。神の宮、つまりは神の住まう場所だと示したものだ。まぁ、自分たちが神の一族だと言いたいんじゃろうな。」
バカバカしいとでもいうように吐き捨てるお姉さんの言葉に僕は固まってしまった。
お姉さんは鳥居が神という文字をまたいでいる模様を仁宮家の家紋だと言った。でも、僕が知っている仁宮家の家紋は小咲の首元に焼き付けられていたあの模様だ。何かの花を象った画。
悶々と考えていると、僕の心を読み取ったであろうお姉さんはゆっくりと口を開いた。いつぞやと同じように、僕に何かの鍵を渡すように。
卑しく、艶かしく言葉を紡いだ。
「いいか。小咲に付けられていた模様は家紋ではない。仁宮家の家紋はここに書いてあるバカバカしいものだ。じゃあ小咲の首元にあったアレはなんだと思う?答えなくてもええ。考えておけ」
それだけ言うと、お姉さんは大きな扉をゆっくりと明けて仁宮家へと足を踏み入れた。
外から見てなんとなくわかっていたけれど、仁宮家の屋敷はとにかく広かった。庭の部分だけでも人間が何百人と入りそうなほどの広さがあり、屋敷自体はその庭の倍ほどの広さがあった。
門と向かい合うように庭の反対側に佇んでいる屋敷は外門と同様に炙った木材が使われており、外観は瓦の色と相まって黒く卑しいものだ。屋敷の脇にある蔵のようなものもだ。
これじゃあ神さまの使いと言うよりは、神を殺して世界を支配しようとしている鬼の根城みたいじゃないかと僕は思った。
お姉さんは広い屋敷の砂利の庭を踏みしめながら声を上げた。
「おい坊主、来てやったぞ」
広い屋敷にお姉さんのあまり高くは無い声が響く。
少し間が空いて、「遅くなりました」と言いながら、長髪の男が蔵の中から気だるそうに出てきた。
男は長い髪の毛を後ろで結っており、薄手の着物に身を包んでいた。細い眉と優しそうな目尻の下がった目元が印象的だった。
「いやぁ、待たせてしまいましたね。わざわざ来てくださらなくても迎えのものを向かわせましたのに」
男は困ったように笑いながらお姉さんに言葉を促した。
「アホいえ、何が迎えじゃ。そんなもんは必要も無いじゃろうに」
「いえいえ、必要ですよ。八尾様に何かがあったら我が一族は終わりですから。そちらは?」
男は不思議そうに僕を見る。
「わしの荷物持ちじゃ」
「へぇ。あなたが荷物持ちを……」
男は髭の薄い顎をさすりながら感慨深そうに呟いた。
「あぁ、いけない。そろそろ自分も準備をしなければ」
そう言って男は僕とお姉さんを客間へ案内した。
「どうじゃった?」
客間に置かれた壺ボ眺めながら、お姉さんはつまらなさそうにいった。
「どうって…なにが?」
「あの男じゃよ」
「あぁ。なんていうか、優しそうな人だったね」
「優しそう…か」
お姉さんは少し黙り込んだあと、僕の方を横目で見た。
「あれがお前さんの敵じゃぞ」
心臓が大きく脈打ったのがわかった。
「敵?」
「あぁ。お前さんから小咲を奪った相手じゃ」
「それって…」
「あの男が今の仁宮家の当主ということになる」
しばらくして、僕とお姉さんは儀式の会場に呼び出された。
仁宮家の兵士たちが何百人と庭に整列していて、僕とお姉さんはその最前列にある来賓席へと案内された。いつもならばこの兵士たちの後ろに仁宮家が統治する村々の民が見物人として群がっているのだが、いかんせん僕の村は僕とお姉さんが滅ぼした。それだけではなく、お世辞にも天気が良いと言えない以上、他の村の人々もほとんど足を運んでいない。空気も雨の匂いをまとっていた。
僕は椅子に座ったお姉さんの右側に半歩下がって立った。嫌でも視界の正面が僕の意識を引っ張った。何せ僕たちと向かい合うような形で十五人の女性が表情を殺してつまらなさそうに並んでいるのだ。
彼女たちについては考える必要はなかった。きっと、彼女たちは小咲と同じ生贄だ。
遠くで雷が鳴る音がする。
僕たちが案内されてからさほど時間は経たず、儀式は始まった。
傍に置かれていた大太鼓を兵士が二人がかりで鳴らし、その音に導かれるように屋敷の玄関口から長髪の男が現れた。
男はすぅっと息を吸うと、先程までの印象からは想像ができないほど声を張り上げた。
「これより!仁宮家当主である私−が、妖狐八尾の元に儀式を執り行う!」
男は自身の名を張り上げたが、その際近くに雷が落ち、その轟音のせいで男の名は聞こえなかった。
男はこちらを見たまま「来なさい」と言い、屋敷の中から誰かを呼び寄せた。いや、誰かなどと濁す必要など無い。わかりきっている。彼が呼んだのは小咲だ。
来るように言われ、ゆっくりとした歩調で小咲は屋敷の中から歩いて出てきた。
百合の花。それも、白百合。例えるならそれが一番いいと思った。
久しぶりに見た小咲は髪の毛を腰のあたりまで伸ばしていて、肌を出さないようにと純白の着物に身を包んでいた。
小咲は男の隣まで歩いて行くと、僕たちに向かってゆっくりと頭を下げた。その後、彼女は頭を上げたものの目を伏せたままでこちら側を見ようとはしなかった。
その様子を僕は静かに見守る。
どこからともなく黒くて薄い布で顔を隠した男が大きな杯と酒の入った一升瓶を持ってきた。瓶にはどうやってやったのか、紙が乱雑に貼られていて、そこには大きな文字で狐の涙と書かれていた。
男は仁宮家の当主の前まで歩いて行き、大きな杯を彼へ渡した。
「うん。ありがとう」
当主は優しく微笑むと、手にしたからの杯を頭上に持ち上げて見せた。
「申し訳ないが、契りの儀は例年とは異なり、最初に行わせていただく。何せ天気が悪いのでな、いつ中断せねばならなくなるかわからん」
それだけ言って腕を下ろすと、待ってましたとでも言わんばかりに顔を隠した男が一升瓶の中身を杯に注いだ。
透明な酒が杯に満ちていく。その場の皆の視線がとくとくと流れる酒へと集まっていた。
同じようにその様子を眺めながら、周りの人間に聞こえないような声でお姉さんが言った。
「この後、二人が交互に酒を飲む。それから最後の二口ほどになったところで互いは口に少量の酒を含み、口づけをして互いの口に含んだ酒を交換する。そうなればもう儀式自体は終わりだ。お前さんの愛しの少女は今夜あの男に伽をすることになる」
僕はお姉さんの言葉に無言を返し、ただ目の前で繰り広げられる光景を眺めた。
今しかないことはわかっていた。皆の視線が一点に向いている今が絶好の機会であることはわかっていた。そして、今この瞬間が最後の機会であることもしっかりと理解していた。けれど、僕の足は動いてくれなかった。
無慈悲にも時間は流れてゆく。
なみなみに酒が注がれた杯に交互に口をつけ、二人はどんどん飲み進めていく。その間も僕の足は前に踏み出すことすらせず、僕の体は震える以外のことをしようとはしなかった。
儀式の時間はあっという間に過ぎ去っていく。
なみなみに注がれていたはずの酒はすでに二口分ほどまでに減っており、そこまで飲み続けた小咲は顔を赤くして虚ろな目をしていた。彼女が酔っ払っているであろうことは簡単にわかった。
二人が口に最後の酒を含み、見つめ合った。
もう終わりだと僕は確信した。結局、僕は彼女を救うことなんてできなくて、どこまでいっても弱虫なただの村人なんだと思った。ただ、この瞬間に居合わせることができただけでもまだ不幸中の幸なのだと思おうとした。
けれど、絶好の機会と言うものは思いもよらない瞬間に訪れた。それが偶然のものなのか必然の過程なのかはわからない。けれど、確かに僕に機会が訪れた。
唇を重ねるため、当主が小咲の後頭部に手を回して頭を抱き寄せ口付けをしようとした時、彼の手が小咲の柔い髪の毛に触れる直前のことだった。
不意に、これまでで一番の轟音を立て、雷が落ちた。
僕の正面にいる小咲と当主のすぐ後ろ。仁宮家の屋敷。本殿とも言える中核部分の建物に、雷は落ちてきた。
まるで雷神が天から降りてきたようだと思った。
巨大な仁宮家の屋敷は瞬間に崩れ落ち、地を伝う雷に兵士が半数ほど倒れた。偶然、僕はその雷に当てられることはなかった。小咲と当主も同様だった。
落ちた雷の影響なのか、崩れ去った木片から火が生まれた。小さな小さな火は使い古された屋敷の木材を次々と飲み込んでいき、驚くほどの速さで炎へと成ってゆく。
その様子をなおも呆然と見つめる僕に、お姉さんが叫ぶようにいった。
「小作!走れ!」
不思議な感覚だった。本当に、言葉に背を押されているようだった。
つい先ほどまで動かなかった足が動いた。自分の意思を無視するように、自分の考えるよりもはるかに早く、僕の体は走っていた。
ほとんどが無意識の行動だった。手に持っていた風呂敷包みを地面へ叩きつけ、中に入れてあった煙幕を爆発させた。目にしみる薬が含まれているらしく、風下にいた兵士たちは皆が皆、目から涙を流してまともに視界が機能していなかった。
自分の荒い息遣いと雷の音だけが耳に届いて来る中、僕はそのまま小咲と当主の元まで走り抜けた。そして、懐に入れてあった短剣を抜き、僕は当主に切りかかった。
当主は長い髪の毛をなびかせながら、僕の振り下ろした短剣から自分の命を守るため、とっさに左腕を突き出した。
肉を断つ感覚と骨に弾かれる感覚が手に伝った。
「うがああぁぁぁぁぁあああ!」
当主の悲鳴がその場に響き渡った。後方の兵士たちから同様のざわめきが聞こえて来る。
当主は短剣によって割かれた傷口を右手で押さえながら、溢れる血を体内に押しとどめようと無駄な抵抗をする。指や腕を断ち切るまでには至らなかったが、当主の腕には手のひらから肘へ向け、おおよそ5寸ほどの裂傷が出来上がった。これだけでは足りない。
腰に下げていた竹筒の蓋を取り、中から針を抜き取る。正直、短剣に比べるとどうしても相手に当てるのが難しいと思った。けれど、そんなことを言って甘えられる暇などなかった。
事はすでに動き始めた。流れる水を完全に止めることができないように、動く事象はもう止められない。
大量の血を垂れ流す左手を必死に圧迫している当主の右手にめがけ、毒を塗ってある針を突き出しながら僕は今までないほどに声を張り上げた。
「小咲!逃げて!」
その声でようやく気付いたのか、未だに赤い顔をこちらに向け、小咲は両目を見開いた。そして、震える声で
「ど…どうして」
そう言いながら、先ほどまで虚ろだった両目から涙をこぼした。
毒針を突き出した僕の手を、当主は怪我をした方の手でつかんで制してきた。彼の温かな血の粘着質な感触が僕の腕にまとわりついてくる。
「いいから!今はとにかく逃げて!向こうにお姉さんがいるからそっちの方向へ!」
僕は声を荒げながらそう言うと、空いた方の右手で今一度短剣を振りかぶった。
次は胸か首元に突き刺してやる。そうすればもっと致命傷を与えることができる。そう思って腕を振り下ろそうとしたが、いつまでの僕にとって都合の良い状況が続くわけもなく、僕はものすごい衝撃を体に感じながら地面に叩きつけられた。
何が起きたか、瞬時に理解する事はできなかった。一瞬前までは立っていた僕が、気づけば地面に頬ずりをしている。一体当主のどこにそんな力があるのだと思った。けれど、僕のそんな考えは的外れな思考であるとすぐにわからされた。
頭から鈍痛が湧き上がってきて、視界が赤く染まる。痛む頭を何とか持ち上げると、そこには顔を隠した男が右足を上げた状態で立っていた。まるで、そこにあった何かを思い切り蹴飛ばしたような姿勢だった。
重い体を無理に動かして何とか立ち上がると、顔を隠した男は足を下ろして右手に力を込めた。あぁ、きっと次はその拳で殴られるのだろう。そう思った時には、僕はすでに殴られていた。その衝撃で体が宙に浮くのがわかる。
僕はそのまま、再び地面に頬ずりをする形になった。
拳を叩き込まれた鳩尾が鈍く痛み、肺が圧迫されたことで呼吸ができなくなる。
「うっ…ぐはっ……へっ…はっ…うぅ」
何とか息をしようとあれやこれやで呼吸を試みるが、そんなにすぐに回復するはずもなく、呼吸ができないことで頭が混乱し始めた。
顔を隠した男は殴り飛ばされた僕の方にゆっくりと歩いてくる。いつの間にか鈍く光る短刀を抜き身で手に持っていて、切っ先を僕に向けながら近づいてきた。
もう、僕の終わりが近づいてきていた。結末は死。助けたいと願った少女を助け、僕はその代償に命を落とす。
できることならば彼女と年老いて命を使い果たすまで穏やかに過ごしたいと思っていたのだが、それはもう叶わぬ願いだと僕は悟った。
顔を隠した男が僕の胸倉を掴み、決して軽くはない僕の体を片手で持ち上げて見せた。なんていう腕力だと、僕は自分に迫る危機をわかっていながらも感心した。
「こいつ、八尾様の所有物ですが、どうしますか」
男は自身の顔を隠していた布を剥ぎ取りながら、当主に聞いた。
「いい。いくら八尾様の持ち物とはいえ、こいつは私に傷をつけた。相応の報いは受けるべきだ。やれ」
当主はそう言うと、踵を返して燃え盛る屋敷の残骸の方へと歩いて行った。
僕は振り下ろされる短刀を視界に入れることはせず、歩き去っていく当主の背を見つめ続けた。
最後の瞬間、僕の視界には当主が虚空へと溶けるように姿を消していく様子と、僕の様をみて、両目から涙を滝のように流しながらこみ上げる何かを必死に飲み込もうとする小咲の姿が映った。
「逃げていなかったんだ…」
僕は最後にそう呟いた。その言葉が彼女に届いたのかはわからない。彼女が僕の言葉に何かを返したのかはわからない。けれど、それらすべては差し置いて、僕は何かを成し遂げたのだという満足感に満たされながら最後の瞬間を迎えた。




