第弐話
「お待たせ」
「んー」
騒々しいセミたちの嘆きを聞き流しながらいつも通りの神社の離れに行くと、小咲が団扇をあおいで涼んでいた。心なしか体調がすぐれない様子だった。
「夏バテ?」
「たぶんそう」
「ちゃんとご飯食べてる?」
「食べてなーい」
「食べないと」
「じゃあ小作が食べさせてよ」
「作ってあげるから自分で食べなよ」
「ちぇ〜」
口を尖らせながら天井を見つめる小咲を置いて僕は台所へと向かった。渡り廊下へと差し込む日の光は相変わらず眩しく、これといった特徴のない日常をきらびやかに照らしてくれる。
出会った頃に比べ、小咲は明るくなった。口数が少なく、話しかける人間全てを警戒していた少女が今はご飯を食べさせろと催促するほどになったのだ。驚くほどの変化だ。
村の皆は僕のおかげだと言っているけれど、僕はこれといって何かをしたわけではない。ただ、寂しさの穴を埋めるために彼女を利用しただけだ。何も褒められるような事はしていない。
それに、最近感じることだが僕たちは互いの性格に寄ってきている。僕は小咲の性格に近づき、小咲は僕の性格に近づいた。互いが互いに影響され、互いの性格が近づいているのだ。いつか…いつか僕らはすれ違ってしまいそうだ。
台所で粥を作る合間にお姉さんが作ったぬか漬けを勝手に拝借し、ザラザラとした肌触りの糠を水で洗い流す。夏場だから仕方がないが水は生ぬるくてとても気持ちがいいとは言えない。これじゃあぬか漬けもかわいそうだ。
あまり手入れのされていない包丁を使ってぬか漬けを一口大に切った後、次いで水分の多い雑炊を作る。やっぱり、この暑い中で火を起こして米を水で煮るのは少しだけしんどいな。
米を研ぐ間、サラサラと指の隙間から米が水とともにこぼれ落ちた。生ぬるく、温度的には気持ちよくないものの、肌にわずかに触れる米達の感触は妙に心地よい。
しばらくして粥が出来上がると、僕はそれを二つの茶碗に盛り付けてぬか漬けとともに小咲の元へと運んだ。
「おーそーいー」
「仕方ないよ。この季節は米の作り置きなんて腐るからできないし、炊くとこから始めたら時間がかかるのは当然だよ」
「それに粥!」
「粥だよ。嫌だった?」
「うん。私は茶づけの方が良かったなぁ」
「そういうのはさ、せめて作る前に言ってくれると助かったよ…」
小咲は再び頬を膨らませ、「ちぇーっ」と言っている。なんだろう。自分は拗ねているのだとでも主張したいのだろうか。
「ほら、食べないなら片付けるよ」
「んー?食べるよ?」
「じゃあ食べなよ」
「え〜。小作が食べさせてよ」
「さっきも言ったけど自分で食べなよ」
「小作が食べさせてくれないと私は食べないよ?」
「じゃあ食べなくていいよ」
僕が呆れるように言い捨てると、小咲は拗ねたような顔のまま僕の顔を見つめてきた。僕を見つめる小咲と目があった。互いに逸らすことなく、互いの瞳を見つめ続ける。小咲の瑠璃のような瞳が僕の視線を釘付けにする。
あぁ、やっぱり。僕はこの女の子に恋をしているのかもしれない。
僕が自分の恋という感情に気がつき始めたのはつい最近のことだ。狐のお姉さんに指摘され、僕は僕自身を蝕み始めていた感情の正体に気がつくことができた。
でも、僕はその感情の正体を知ることができたところで、僕自身の心を蝕むことのないよう、その感情を静止させることなどできない。
今も…今も僕は苦しい。
胸を締め付けるような。喉元を真綿でしめるような。そんな鈍い苦しみが僕の呼吸をいつも乱してくる。
「……」
「…」
「あぁもう分かったよ。ほら、あーん」
「うへへ。やったぁ。あーん」
匙で粥を少しだけ掬い、小咲へと食べさせてあげる。小咲はそれを嬉しそうに食べ、僕を見てさらに微笑む。
本当、この少女は何を考えているのだろうか。僕に君の気持ちの一端でも読み取れる力があったのなら、僕はもう少し楽になれたのだろうか。
粥を食べ終えた後、小咲は徐にあくびをして言った。
「ふぁあ。食べたら眠くなった」
「じゃあ、僕は食器を片付けてくるから君は布団を敷いておいてよ」
「ん。分かった」
睡魔に襲われてしおらしくなった小咲をその場に、僕は再び台所へと向かった。愛おしい少女から逃げるように。自分の感情から逃げるように。
相も変わらず今日も真夏日で、渡り廊下へと差し込む光はいつも通りきらびやかだ。窓硝子へと太陽の光が差し、僅かにくすんで室内を照らし出す。だが、くすんだその光はなんとも優しい温かさをはらんでいた。
食器を片し終えて離れに戻ると、乱雑に敷かれた布団の上で既に小咲がうとうとしていた。
かなり使い古され、固く平たくなってしまった敷布団に向かい合う形で寝転がる。いつも通りだ。
僕たちは互いの顔を見て少しだけ微笑み、「おやすみ」と言い合って互いの額をくっ付けあった。
あったばかりの頃は肩までも伸びてなかった小咲の黒髪は、今ではもう肩甲骨の辺りまで伸びている。笑顔も増え、随分と容姿も変わったが、小咲が美しいという事実は変わらない。
多分、村の中で群を抜いて美しい少女だろう。ましてや、僕たちと同じ年齢の少女と比較をしたら尚のこと小咲が一番美しいという結論に至ってしまうだろう。
別に悪いことではない。今、目の前で可愛らしく寝息を立てる少女が美しいという事実が悪であるわけではない。ただ、この村には風習がある。神様が決めた風習が。神さまのために決めた風習が。かみさまのきめごとがある。
だから、小咲が美しいという事実は、僕たちには幸福な未来など待っていないということになる。
再び胸が苦しくなった。日の光に照らされ、部屋の中は明るい。だが、僕の心は雷雲のような黒い靄に侵されてしまっている。小咲を見ると尚のこと、二つの感情が僕の心を締め付ける。
恋という儚い感情と、不幸な結末が目に見えているという、終わりを惜しむ苦しい感情。
僕はしっかりと小咲の眠る姿を瞳に焼き付け、ゆっくりと瞼を下ろした。
僕たちの元に‘その時’は必ずやってきてしまう。それを拒むことはできない。それが村の決まりなのだから、小さな子供の僕には逆らうことができない。
ならば、その時が僕ら二人を襲うまで、僕は小咲との思い出を大切に大切にかき集め、頭の奥底にしまっておこう。僕の目の前から小咲が姿を消すその時、僕が悲しまずに済むように、砂のように小さな日々を僕は大切に拾い集めよう—
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少しだけ肌寒さを感じて目が覚める。既に日は沈みきっており、部屋の中は薄闇色に染まっていた。
「あぁ。少しだけ寝すぎたな」
誰に返答を求めるわけでなく、ひとりでに呟く。当然、音として僕の口から旅立った言葉は部屋を染める闇へと溶け、同化して行った。
彼女が僕の前から消えた日。あの日からもうずいぶんと時間が経つのに、僕はどうも彼女のいない静かな日常に慣れない。耐えられない。
村で一番美しかった小咲が僕の前から姿を消してしまうことはわかりきっていた。神宮家に連れて行かれるからだ。
だからこそ、僕は彼女との日常を大切に大切に記憶に焼き付け、来るべき日が来た後に悲しさに押し潰されないようにと考えていた。でも、記憶は記憶だ。それだけでは寂しさという感情をかき消すことはできない。むしろ、もう二度と手に入ることのない日々に憧れを抱いてしまい、寂しさという感情をより一層増長させてしまう。
「小作、お前さんはまた……」
狐のお姉さんが部屋に入ってきて、呆れたように僕を見る。救えない人間を見るように、哀れみの視線を僕へと投げかける。
「大丈夫。それ以上は言わなくていいよ」
僕はお姉さんに突き放すように言い捨て、神社を後にした。離れから出て行こうと扉に手をかけた際、お姉さんは「お前さんには姉がおっただろう?」と聞いてきた。答えを求めていない、確認に近いものだった。
僕が無言でお姉さんの言葉をやり過ごすと、お姉さんは少しだけ微笑んで「姉は全て知っておるはずじゃ。一度話を聞いてみるといい。風習について」と言った。僕はお姉さんの言っていることを理解できなくて、理解したくなくてその言葉も無言でやり過ごした。
狐のお姉さんが言っていたことは別段間違っているわけではない。なにせ、僕の姉もかつて仁宮家へと送り出された人間なのだ。
小咲が僕の前から姿を消す3年前、つまりは今から5年前のことだ。僕の姉は小咲と同様、村の風習に従って仁宮家へと連れて行かれた。
神さまの子孫である仁宮家に村でいちばん美しい13歳の少女を贈り出すという風習に従い、僕の姉は連れて行かれた。その時ばかりはもう姉と会うことなどないと思っていた。
だって、神様の元に送り出されたということは、姉は神様の使いになるわけで、つまりのところ姉も弱小ではあるものの神格を授かるということだ。神様と人間は共に暮らすことなどできない。だから僕は姉には二度と会えないと思っていた。
でも、姉が送り出されてから3年……いや、2年と少しだっただろうか。とにかく、姉は誕生日を迎えて15歳になり、しばらく経った後、僕や両親の暮らす家へと戻って来た。
明るかったはずの姉が物静かになり、子を孕んで戻って来た。
姉が僕たち家族の暮らす家へと戻って来て以来、僕はまともに姉と話をしていない。こう…うまく言葉にできないが、姉の顔を直視できない。
仁宮家での生活がどのようなものだったのか。家族から離れている間、どのような気持ちで何をしてきたのか。僕はそれらを姉に問うことができなかった。
疲れ切った様子で家へと帰ってきた姉を見て、そんな無粋なことを聞くことなどできなかった—
日は沈みきっているものの、夏という季節柄か世界が完全に闇色に飲まれているわけではなかった。空自体は薄墨色で埋め尽くされており、雲などひとつたりともない。
その中でぽつりと唯一つ、月が乳白色に淡く輝いている。その弱弱しい明かりに照らされ、世界は青と藍の合間の色に染め上げられている。
田畑に囲まれたいつもの道を、いつも通り一人きりで歩く。すでに村の皆は帰っており、人の気配など少しも感じられない。これだけは小咲が連れて行かれる以前と何ら変わりはない。僕はいつも、人っ子一人いなくなった道を一人きりで歩いて帰っていた。
生暖かい風が木々を揺らし、わずかに音を立てる。どこかから野犬の遠吠えが聞こえてきて、開けた田畑にスッと吸い込まれていく。
それらの微小な音たちはどうも僕の恐怖心を煽り立てる。
少しだけ…。ほんの少しだけ心細い。こんな時、小咲の存在が傍にあったのならどうだったのだろうか…。そんな事を考えてみるものの、やはり僕の心は暗い方向へと傾いてしまう。
しばらく歩き続けて田畑を通り越すと、木や藁でできた民家が幾つも視界へ入ってくる。僕の暮らす村だ。
どの家も見栄えは変わらず、家先に置かれている石の数で誰の家かを判断しなければならない。正直、15年も生きていれば自分の家が何処なのかは石の数を覚えていなくとも分かる。
田畑の側から3つめの民家。それが僕の家族が暮らす家だ。家先に石が8つ置かれている。そのうちの2つが割れてしまっており、数的には10個になってしまっているのだが、僕の家族は誰もこの目印で家を判断していないので別段困るわけではない。
木の扉を開き、「ただいま」と言いながら家の中に入る。そこには夕食を食べている真っ最中の両親と姉が確かにいたが、誰一人として僕に「おかえり」とは返してくれなかった。
そんな優しくない家族にムッとして、少しだけ眉間にしわを寄せてしまう。その表情のままで食卓に付き、冷め始めたご飯に手を伸ばす。
無言のまま食事が進み、皆の椀に盛られていた米がなくなる頃、場を拘束していた重苦しい空気と沈黙が打ち破られた。
父が僕の方を向き、改まったような声色で言葉を放つ。
「小作…また、あの子のところに行ったのか?………」
物分りの悪い子供を諭すような、諦めろとでもいうような言い方だった。
「父さんは何を言ってるの?僕は唯、神社の裏で昼寝をしてただけだよ。別にあの子のところに行った訳じゃあないよ」
そして再び、場を沈黙が支配しようと見えない手を伸ばしてきた。母は身内であるのに気を使わなければならないこの状況に耐えられず、そそくさと食器を片し、沈黙から逃れる言い訳を作ろうと試みる。一方の姉は、膨らみ始めた自身の腹を手でさすり、疲れ切った顔にわずかに笑みを浮かべている。
正直言って、姉の精神状態はまともではない。仁宮家から帰ってきて以来、譫言をよく言っている。かと思えば、何かに怯える様子を見せる事もあり、何と言えばいいのか、今の姉さんは怖い。可哀想で…怖い。
多分、両親も姉さんの様を見て僕と同じ事を感じているはずだ。そのためか、未だに僕たち家族は姉さんに神宮家での出来事を聞けずにいる。今まで、ずっとそうだった。今までは…。
僕は少しだけ呼吸を整える。踏み込んではいけない場所に足を踏み入れる時、罪悪感を感じるだろう?そんな時、少しでもその罪悪感が生み出す動機を抑えようと、多くの人間は深呼吸をするものだ。僕が今している深呼吸も同じような理由からで、つまりのところ、僕が深呼吸をしているという事は、‘足を踏み入れようとしている’という訳だ。
「あのさ…姉さん」
「ん?なぁに?」
「仁宮家での生活ってどんなものだったの?」
その質問をした途端、姉は突然呼吸が荒くなり、虚空を見て「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」と呟き始め、最終的には意識を失ってしまった。やっぱり、仁宮家での生活とはそれほど辛いものなのだろう。
僕はただ一言「ごめん」とだけ言い残し、意識を失った姉とその様子を見て困惑する両親を置いて家を飛び出した。
つい先ほど通った道を再び辿るように駆け抜ける。聞こえるのは走った事で荒いでしまった僕自身の呼吸と、僕を止めようとするかのように激しく吹き荒れる風の音ばかりだ。もう野犬の声など耳にも届かない。
神社に着くと既に灯籠の灯りは消え去っており、鳥居の上にも神社の中にも狐のお姉さんの姿は見えなかった。離れに居るのかと思い、足早に向かうがやはりそこにもお姉さんの姿はない。
不思議に思いながら神社を後にし、今一度家へ向けて歩をすすめる。
無数に立ち並ぶ鳥居達をくぐり抜け、神社と仁宮家の分かれ道に差し掛かった時、反対側の道−仁宮家へと伸びる道−から誰かが歩いてきた。最初はよくわからなかったが、距離が近づくにつれ、月明かりに照らされるその人影が女性のものだとわかり、すれ違う頃にはその女性が狐のお姉さんである事がわかった。
「ねぇ。ちょっといい?」
「ん?おぉ。小作か。こんな時間にどうかしたかの?」
驚いた様子を表情に滲ませながらも、お姉さんは僕に問いの詳細を話すよううながした。
「仁宮家の事で聞きたい事があってきたんだ」
僕が‘仁宮家’の名前を出した途端、お姉さんが息を飲んだのがわかった。やっぱり、仁宮家には何か良くない話があるんだ。
お姉さんが気まずそうな顔をしているのがわかった。その表情を見て、少しだけ聞いても良い話なのだろうかと思いとどまってしまう。
でも、ここで止まってしまってはこれまで通り小咲が消えた現実から目をそらしてしまっているだけだ……。
意を決し、僕は狐のお姉さんに質問を投げかけた。
「ねぇ。仁宮家と風習について、お姉さんは真実を知ってるの?」
お姉さんは答えて良いのかを迷うかのように僕から視線を逸らす。そして、「神様じゃからのぉ」と苦虫を噛み潰したような表情で言った。そのまま続けざまにお姉さんは語りだす…。いつも通りの巫女装束に身を包み、今日は頭から珍しく狐の耳を生やし、まるで自分が人間ではないのだと主張するような容姿を作ったお姉さんは語りだす……。
「結論から言うとな、仁宮家の祖先は奇妙な性癖を持っておってな…。その、端的に言うと、幼い少女しか恋愛対象に見れないただの変態だったんじゃ」
ため息混じりにそう言ったお姉さんの言葉を聞き、僕はおもわず「は?」と声を漏らしてしまっていた。




