第壱話
見渡す限りが田と畑だった。田と田の間には川から水を引いた小さな用水路があり、畑と畑の間には荷物を運ぶための狭い小道がいくつも伸びていた。
季節柄水が張られている田の中にはアメンボやゲンゴロウがせわしなく動いていて、そのすぐ上を蝶や蜂が元気に飛び回っている。畑の中には黒ブチの野良猫が勝手に入り込んでいて、揺れる作物の葉に興味を示している。
空を見上げれば雲などなく、ただただ薄青色の空がどこまでも広がっていた。今日は快晴だ。風も程よく心地いい。
僕はそんな気持ちのよい空間を、息を切らしながら走る。すれ違うおじいさんやおばあさん達に「おはよう!」「今日もいい天気だね!」と挨拶をしながら、お行儀よく並ぶ田と畑の間を僕は駆け抜ける
「おう!コサク!今日も‘あの子’に会いに行くのか!」
そう言いながら、トミスケおじさんは持っていた鍬を畑に突き立て、僕に手を振る。シワだらけで乾燥した顔をくしゃくしゃにして笑顔を僕に向けてくれる。
「おじさんおはよ!今日も会ってくるよ!」
「おお!そうか!お前たちは本当に仲がいいな」
おじさんは僕に手招きする。僕は道の端に寄り、おじさんの畑に近づく。おじさんは足元に置いてあった笊を持ち上げ、畑の土を踏みしめて僕の方に歩み寄って来て、「ほれ。これを持って行きな」と言って小ぶりの可愛らしい西瓜と胡瓜をくれた。
「おじさんありがとう!」
「ああ。仲良く食べるんだぞ」
「わかった!」
僕は両手を使って西瓜と胡瓜を抱え、再び走り出す。さっきよりも少しだけ身が重くなったけど問題ない。それよりも‘あの子’の元へ向かうことの方が大切だ。僕は‘あの子’をあまり待たせたくない。
しばらく走ると、田も畑も次第に狭くなっていき、数を減らしていった。山の麓に近づくにつれて減っているのだ。一方、走る僕の正面には朱に染められた鳥居が幾つも見え始める。いつも‘あの子’と遊んでいる神社の鳥居だ。
麓に着くと、山の中へ続く獣道と境内へ続く参道の分かれ道がある。右側の獣道を半日ほど歩き進めば、この辺りを取り仕切る神宮家の屋敷へとたどり着く。と、僕は両親から聞いていたが、まだ神宮家のお屋敷を見たことがないし、そもそも本当に神宮家があるのかを知らない。
獣道にいつも通りの名残惜しさを残しながら、僕は目的地へと伸びる参道へ歩を進めた。大人の男より僅かに高い程度の朱の鳥居が数えられないほど立ち並ぶ参道を進むと、最後の最後で一段だけ段差があり、そこから30歩ほどの距離を開けてこれまでの鳥居よりもふた回りほど大きな鳥居があった。
僕はその大きな鳥居の前で一旦立ち止まる。鳥居の上を見上げると、いつもと変わらず巫女装束に身を包んだ‘狐のお姉さん’がそこに座っていて、徳利を傾けながら村を眺めていた。
「お姉さんおはよう!今日も朝から呑んでるんだね」
「ん?おお。コサクか。‘あの子’はもう来とるぞ」
お姉さんは怠そうに僕を見る。
「わかった!ありがとうお姉さん。トミスケおじさんに西瓜と胡瓜をもらったからお姉さんにも分けてあげるよ」
「そんなもんいらんわ。酒のつまみにもならん……いや、やっぱり西瓜だけは頂こうか。なにせ今日は暑いからのう」
そう言いながら、お姉さんは胸倉を摘んでパタパタと風を送る。その時、丁度風が小さく吹き、神社を取り囲む木々の葉を揺らした。お姉さんの腰まで伸びる長く綺麗な黒髪が風に靡く。お姉さんは風を浴びて「あーきもちー」と言う。
木々の葉が擦れる音に紛れ、蝉の鳴く声が僅かに聞こえる。もうすっかり夏日だ。
「じゃあ、西瓜はここに置いておくね」
「それで構わん」
僕は2つある西瓜の片方を鳥居の傍へ置き、神社の境内へと足を踏み入れた。
「おぉ、そうだ。コサク、台所の包丁を使ってよいぞ。その西瓜、切らんと食べれんやろ」
「わかった!」
「使ったらしっかりと洗っといてや」
「うん!」
僕はお姉さんを背に境内を歩く。途中で大きな熊蜂が寄ってきて、僕は逃げるように小走りをした。5段ほどの木製の階段を登り、賽銭箱の裏手にある扉をあける。いつもお姉さんが暮らしている場所だ。
お姉さんは自分自身のことを神様だと言っているけれど、僕は居候の化け狐がいいところだろうと思っている。でも、お姉さんには助けられてばかりだから口が滑ってもそんなことは言えない。
僕は何も置かれていない部屋の奥に4つ並んでいる扉の一番左へ向かう。この扉を開けると離れにつながる廊下が伸びているからだ。ギシギシと呻く床板を踏みしめ、僕は扉を開けた。
廊下は全体的に縦長の硝子窓がはめられており、陽の光をふんだんに通していた。そのせいか肌にまとわりつくような生暖かい空気が廊下に充満している
僕は窓を順に開け、網戸に変えながら進む。全ての窓を開けたところで、僕は突き当りの扉を開けた。
「ごめんね。遅くなっちゃった」
「大丈夫だよ。遅くなったからって悪いことがあるわけじゃあ無いでしょ?」
そう答えるのは‘あの子’だ。部屋の真ん中で硬い木床に寝転がり、ぼうっと天井を見つめる女の子だ。
「悪い事は無いけどさ、君と話をする時間が減っちゃうよ。小咲」
「私は別に君と話をしなくても生きていけるよ、小作」
そう言いながら、僕と同じ名前を持つ女の子は気怠そうに起き上がった。
「怠そうだね」
「夏だからね」
「夏バテ?」
「夏だからね」
「じゃあ西瓜と胡瓜を食べようよ。トミスケおじさんにもらったんだ」
「西瓜だけ食べる」
「せっかくだから胡瓜も食べなよ」
「私、胡瓜はあまり好きじゃあないの」
「あぁそう。じゃあ胡瓜はとりあえず塩もみして浅漬けにしてくるよ」
「いや、胡瓜いらないって」
「そう言いながら食べるのが君でしょ?」
「私、そんなに食い意地張ってないよ」
小咲は半眼になりながら頬を膨らませる。僕はそんな小咲の可愛らしい様子を小さく笑って受け流し、西瓜と胡瓜を持って台所へ向かった。
台所は何も無い部屋まで戻り、隣の扉を開けたところにある。ここにはお姉さんのお酒がたくさん置いてある。僕は入ってすぐのところにある木棚から俎と包丁を取り出して西瓜と胡瓜を切り、適当な皿にそれぞれ盛り付けた。
皿を2つ持って小咲の元へと戻っていくと、両手がふさがっていて扉を開けられない事に気がついた。
「ねぇ。扉開けてくれない?」
そう言いながら、僕は木製の扉をつま先で軽く蹴飛ばす。
「嫌だ。自分で開けなよ」
「両手が塞がっていて開けられないんだよ」
扉の向こう側から溜め息が聞こえ、足音が近づいてくる。
「やっぱり君はやさしいね」
「うるさいばか」
照れた声で罵りながら、小咲は部屋の扉を開けてくれた。部屋の中にはいつの間にか卓袱台が中央に置かれており、僕はその上に2つの皿を置いた。
「ほら、食べなよ。食べないと夏バテは治らないよ」
「言われなくても食べるから」
鬱陶しそうな顔をしながら、小咲は胡瓜に手を伸ばす。
「あれ、胡瓜は食べないって言ってなかった?」
「うるさい。君が作ってくれたんでしょ。せっかくだから食べてるの」
その言葉を聞いて僕は自然と頬が緩み、笑みがこぼれた。あぁ、幸せだ。そんな感情が僕の内側を染めていった。
「おいしい?」
「ん。おいしいよ」
「トミスケおじさんが作った野菜だからね」
「あの人は本当に野菜を作るのがじょうじゅだよね」
「じょうじゅ?」
「じょ!う!ず!」
「アハハ!ごめんごめん」
「……ばか」
再び頬を膨らませる小咲に形だけ謝り、僕たちは談笑を再開する。日が傾き、空が茜色に染まり始めるまでこうやって何でも無い時間を過ごすのが‘僕たち’の日常だ。十三歳の男女が過ごすにはあまりに不健康な生活かもしれない。それでも、これが僕たちの生活であり、僕たちなりの男女の付き合いであった。
胡瓜と西瓜を食べ終わると、小咲が「眠い」と言った。僕が「昼寝でもしようか」と言うと、小咲は「いいよ」と言い、部屋の隅に寄せてあった敷布団を引っ張ってきて、広げ始めた。その間に僕は皿をまとめて扉の傍に置き、卓袱台を片付けた。
小咲が敷いた一人用の布団に二人向かい合って寝転がる。
「随分と腑抜けた顔してるね」
「そういう君はいつも通りだ」
「君もいつも通り腑抜けた顔だね」
「これが僕の顔だからね」
「締まらない顔だね」
そう言いながら、小咲は小さく笑う。今日初めて笑顔を見た。これでも昔よりは笑うようになった方だ。
「でも…」
優しい笑顔で小咲が口を開く。
「私が好きになったのはそんな君だよ」
顔が一気に熱くなるのを実感する。多分、わかりやすく赤くなっているだろうな。そんな事を思いながら、僕は自然と漏れる笑みを隠そうとせず、言葉を放つ。
「うん…僕が好きになったのは君だ。愛想が無いけど可愛らしい君だ」
「愛想が無いは余計だよ……ばか」
「うん。そうだね。君は普通に可愛いと思うよ」
「言わなくていいよ…ばか」
「君は難しいね」
「私は難しいよ」
「でも、そんな君だから僕は好きになったんだ」
「……ありがと」
小咲は言葉の棘がなくなり、わかりやすく顔を赤くした。
視線がぶつかり合い、少しの間、無言で見つめあう。何を言うわけでも何をするわけでもなく、ただただ見つめあった。でも、そんな時間がこそばゆくて、何だか耐えられなくて、僕たちは互いに堪えることができなくなって笑った。
二人して大きな声で一頻り笑ったあと、小咲は囁くように「おやすみ」と言った。その言葉に僕も「おやすみ」と返す。互いに笑みを作り、額と額をコツンと合わせ、僕たちは瞼を下ろした。
いや、‘僕は’瞼を下ろした。
目を覚ましたのはいつも通りの神社の離れ。生活感の消え去った部屋の真ん中。そこに置かれた一人用の敷布団の上だ。季節柄、掛け布団は使っていない。部屋の外からは蝉の元気な叫び声が聞こえて来る。
「おお。ようやく目が覚めたか」
そんな声が聞こえ、僕は身を起こす。僕の枕元にお姉さんが座っていた。いつも通りの巫女装束から部屋着の着物に着替え、静かに正座をしていた。
「もう、あの子が居なくなってから2度目の夏が来てしまったのう」
「……そうだね」
お姉さんの無粋な話題に、僕はいつも通りの元気で返すことはできない。
「小作。いつまでもこんな所で待っていても‘あの子’は帰ってこんぞ」
お姉さんの呆れたような声が耳から入り込み、僕の脳みそまで届いて思考をぐちゃぐちゃと掻き乱す。
「帰ってくるよ」
「いいや、お前さんは何も分かっとらん」
「わかってるよ。小咲がいなくなったことぐらい」
「いいや、分かっとらんさ。なにせ、お前さんは待っておればあの子が帰ってくると信じとるからのう」
「煩い!何がだよ!何がわかっていないって言うんだ!あの子は帰ってくる!それがこの村の風習だろ!」
「だから何も分かっとらんと言っとるんじゃ」
「お姉さんこそ分かってないでしょ!もうボケがきてるんでしょ!村の決まりの通りなら、小咲はあと4年待てば帰ってくるんだ!」
「違う。このまま待っておってもあの子は帰って来ん。帰ってくるのはお前の知らないあの子だ」
「どういうこと?」
「時の流れは残酷という事じゃよ。それが分からんお前さんでは無かろう?」
お姉さんはゆっくりと立ち上がると、足袋を履き、雪駄を手に持って「あの子が居なくなる前日、わざわざ昔話の確認をした意味、それを考えてみんさいな」と言った。
それだけ言うと、お姉さんは消えた。何かの例えではなくそのままの意味で、お姉さんは消えた。僕が瞬きをした一瞬で姿を消した。彼女がよく使っている瞬時に移動する術を使ったのだろう。
僕は一人取り残された。あの子と…小咲と思い出を積み重ねていったこの部屋に、僕はただ独りきり、置いていかれてしまった。お姉さんにも、小咲にも置いていかれてしまった。
蝉時雨が僕を急かすように激しくなる。
「帰ろう」
誰に言うわけでもなく、僕は呟く。
廊下に出ると、入り込む日の光が弱くなっていた。空は茜色に染まり始め、幾分か涼しくなってきている。どうやら、かなり長めの昼寝をしてしまっていたようだ。
僕は無為に過ごした時間を噛み締め、神社を後にした。
参道に並ぶ無数の鳥居をくぐる間。規則正しくお利口に並ぶ田畑の間を歩く間。風呂に入り、体の汚れを落とす間、僕の頭の中をお姉さんの言葉がぐるぐると掻き混ぜ続けていた。
『あの子が居なくなる前日、わざわざ昔話の確認をした意味、それを考えてみんさいな』
その言葉は、どれだけ経っても僕の心から剥がれる事はなかった………




