ローズムース
夏休みの宿題をすませて、少し早目のお昼にしようと階段を降りて行った。
カレンダーどおりの休日も〈フェアリーマーブル〉は開店している。
お休みがないわけではない。不定期なだけ。
階段の先にある店内からは死角になるドアをそっと押す。
店内に流れる音楽とざわつき、たまに外の雑音が混じって聞こえ、わたしという存在が人の世にいると確認できた。
*
どれになさいますか?
上品そうな年配の女の人に春日さんがそう聞いていた。
その人がながめているのはケーキのショーケース。
ながめ続けている女の人の視線は、迷い迷い、なかなか決まられずにいるご様子に。
でしたら、こちらのローズムースはいかがでしょう。
春日さんがお勧めしたのはハート形のムース。表面に薔薇の花びらがそのまま閉じこめられている。
女の人は程よく冷えたムースを二個買って嬉しそうにお店を出ていった。
*
今日のお昼は、日差しが体に入り込んでくるような緑豊かなパスタとサラダ。
デザートにさっきのローズムースを春日さんが出してくれた。
スプーンですくうのがもったいない気もしたけれど。
一口食べたら甘い香りがふわりと溶けて、喉さきからお腹の中へひろがっていく。
「さっきの女の人にどうしてこれを勧めたの?」
あのご婦人はね、お孫さんが入院していて、食が細くなってきたと心配していたんだよ。
何度か来てくださっているんだ。病気や食事制限とか詳しく聞いていたから、姉貴に頼んでたんだ。
そろそろ、お見えになる頃だったからね。
ここで出すケーキはもれなく〈おまじない〉がかけられているんだよ。
このムースは暑気避け効果もあるんだよ。だから明日葉もしっかりお食べ。
のんびり体質の春日さんが涼やかに微笑み種明かしをしてくれた。
冬埜さんのお菓子は色あいや香りが格別なのだけど、自然がつまっているものが多い。
お花は食べられるものがずいぶんとあるのだそうだ。そのぶん、毒になる植物も多いらしいけど。
春日さんが創ってくれるわたしの食事もそうだ。
食材から生命力をわけてもらっている、そんな感じがする。
朝は元気があふれるジュース、夜には安らかな睡眠を生み出すお茶。
店では、すごくきれいで可愛いらしいケーキやクッキーも売っている。
ドリンクとセットでお店で食べるととってもお得なのだけど、もちろんお持ち帰りも可能だ。
わたしの保護者であり春日さんのお姉さんでもある、冬埜さんの会社から毎日運ばれてくるケーキは結構希少で有名らしい。
どうして? と、時々配達係で来るまあさんに聞いた時。
「う~ん、趣味に走っているからなぁー?」
と、苦笑いで返された。
縦皺を眉間に寄せたまあさんが、春日さんから顔を背けため息をつきながら。
冬埜さんはネットでお菓子ショップを開いているというけれど、〈フェアリーマーブル〉で扱うケーキは別物らしい。
お店のケーキは少数精鋭の特別品、しかも、定番と呼ばれるようなものはあまりない。
お客さんはその日のショーケースを見て、選ぶという楽しみがあるかわり、「いつものあれを」が通用するのは珈琲くらいだろう。
ここのお客さんは学生から年配の方までと年齢層が広い。別に雑誌に載るようなこともなく、春日さんのご両親の時代から続いている、老舗のようなお店だからなのだろう。
自然素材を使った料理、有機栽培の素材。
そんなことが浮かんだけれど、〈フェアリーマーブル〉のものはそれともどこか異なる気がした。
おまじない。
それがどういうものなのかはわからないけれど、〈フェアリーマーブル〉のデザートはいつだって生命力が満ちていた。
冬埜さんを交えて三人で食べる夕食も、お店で食べる昼食も、春日さんと二人の朝食さえも。
今のわたしには欠かせない糧になっている。
人は食べる者と物で、これほど幸せになれるのだと。そんなささやかな幸せにつつまれた夏だった。
(ローズムース・おしまい)