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第十一話 魂魄妖夢の苦悩

 それは、私が幽々子様の従者の任を仰せつかった際、その着任の挨拶に向かった時のことだ。

 幽々子様の私室へと続く『白玉楼』の廊下を、私は緊張の面持ちで歩いていた。

 板張りの床を時折軋ませながら、突き当たった角を右に曲がる。

 するとそこから先は、左手の壁が取り払われた吹き抜け状になっていて、開けた視界の先には美しい枯山水の庭園が広がっていた。

 私はそこで思わず足を止め、その庭園を見やった。

 つい最近まで、ここで祖父に稽古を付けてもらっていた鍛錬の日々が走馬灯のように甦る。

 しかし、そこにはもう矍鑠とした祖父の姿も、木刀が振るわれて風を切る音も、鋭い掛け声も無かった。

 玉の汗も、砂利を踏み締める音も、叱咤も擦り傷も無い。

 私はそこで途方もなく、虚無感に襲われた。

 魂魄家の人間は代々、『冥界』を管理する西行寺家の従者として仕えてきた歴史がある。

 勿論この私――魂魄妖夢も、行く行くは西行寺家の従者としてお仕えするべく、今日まで剣術の稽古に明け暮れていたのだが。

(まさか、その時節がこんなに早く来るなんて……)

 私は大きく溜め息を吐いた。

 三〇〇年もの間、西行寺家の現当主である幽々子様にお仕えしてきた祖父、魂魄妖忌の突然の失踪。

 そのことにまだ心の整理がついていないのにも関わらず、祖父の後任を仰せつかった私は、胸に残る戸惑いの念を未だに払うことが出来ずにいた。

 私は腰に差していた、迷いを断ち切る刀『白楼剣』の柄にそっと指を這わせた。

 己の剣の未熟さは、自分自身が一番よく理解している。

 そして剣の未熟さは、即ち心の未熟さだ。

 そんな私を、どうして幽々子様は従者として起用しようと思ったのか。

 私には、その意図が全くもって理解することが出来なかった。

「はぁ……」

 私はもう一度息を吐くと、雑念を振り払うように首を振った。

 悩んでいても仕方がない。

 今は、私の成すべきことに集中しよう。

 私は再び歩き始めると、そのままとある一室の前までやって来た。

 そこが幽々子様のお部屋だ。

 私はその場で改めて身だしなみを整えると、二本の刀を床に置き、その隣りに自分も正座して、部屋を仕切る戸を軽くノックした。

「幽々子様、魂魄妖夢で御座います。着任のご挨拶に参りました」

 緊張のせいで硬くなった声で私は言った。

 すると、返事はすぐに返ってきた。

「待ってたわ。入っていらっしゃい」

「失礼致します」

 この時、戸に添えた指が小刻みに震えていたのを、今でもよく覚えている。

 と言うのも、私が幽々子様と面と向かって話をするのは、それが初めてのことだった。

 これまでは、稽古の合間に祖父と言葉を交わしている姿を何度か見かける程度で、実際に会話らしい会話などしたことが無かった。

(幽々子様って、どんな方なのかしら?)

 その期待と不安が、私の緊張を更に増幅させていたことは言うまでもない。

 遠巻きに見た限りでは、亡霊とは思えないほど温かな眼差しが印象的な、清楚な女性だったと記憶している。

 春風のような麗らかな声と、美しくもどこか儚げな立ち姿。

 まるで、〝桜〟のような方だった。

 しかし、〝花に嵐のたとえもあるぞ〟という言葉もある。

(怖い方だったらどうしよう)

 私はすっかり畏まりながらも戸を開け、そのまま三つ指を突いて深々と一礼した。

 そして顔を上げると――。

 そこに幽々子様の顔があった。

 それも、吐息が鼻先に掛るほどの至近距離に。

「ばあっ!」

「みょんっ!?」

 驚いた私は自分でも意味不明な声を発して、弾かれるようにそこから飛び退いた。

 部屋の中から四つん這いの姿勢でこちらに顔を突き出していた幽々子様は、私の反応を見ると満足そうにころころと笑った。

「うふふ~。ビックリした?」

「あ……あの……」

 私が言葉に窮していると、幽々子様は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、

「驚かせてごめんなさい。だけど、人を脅かすのは亡霊の嗜みなのよ?」

 そして徐に前に出した両手首を、まるで幽霊のそれのようにだらりと下げる幽々子様。

 しかしその時の私の頭には、幽々子様ってお茶目な方なのだな、などという感想は微塵も湧いてこなかった。

 半人半霊という種族でありながら、私はお化けの類が大の苦手なのだ。

「まぁ、妖夢ったら、金魚みたいに口をぱくぱくさせて可愛いわね。食べちゃいたいくらいだわ」

「…………それも脅かしなのですか?」

 これが、私と幽々子様の最初のやり取りだった。

 お世辞にも、有意義と呼べるものではない。

 その後、どうにか落ち着きを取り戻した私は改めてお部屋に入室し、再び幽々子様の前に座り直して頭を下げた。

「本日より、幽々子様の護衛兼剣術指南役及び庭師として任に着くこととなった魂魄妖夢です。祖父の件では、幽々子様に大変なご迷惑をお掛けしましたことを、一族を代表して深くお詫び申し上げます。そして今後は一日でも早い一族の名誉回復と、『白玉楼』の更なる発展の為に、粉骨砕身の覚悟で職務を全うする所存です」

 昨晩、何度も練習した口上を述べる。

 その間、幽々子様は黙って私の言葉に耳を傾けていたが、私が言い終えるのを確認すると、少し困ったような顔をして言った。

「確かにあの人のお孫さんね。堅苦しいところなんかがそっくり」

 その声色に、こちらを責めるような響きは一切なかった。

 しかし私はその一言で、自分でも驚くほど狼狽し、そのまま押し黙ってしまった。

 何と返して良いのか分からなかった。

 私が身を硬くしていると、幽々子様はその場に立ち上がった。

「それに、その物言いだときっと、貴女はあの人と同じ勘違いをしているわ」

 言いながら、幽々子様は私の方に歩み寄った。

 私は更に深く頭を垂れる。

 すると幽々子様は私のすぐ目の前に座り直したようで、私の視界には床の畳と、前に正座する幽々子様の膝だけが映っていた。

「妖夢。貴女は私を守る為ならば、命を捨てる覚悟があるかしら?」

 清らかな湖の水面のような、凛とした声が私の耳に響いた。

 私はすぐさま答えた。

「勿論です。幽々子様の為ならば、この命賭してでも務めを果たす心構えは出来ております」

 その時の私には、それが従者としての百点満点の回答なのだと思っていた。

 しかし幽々子様の返事は、私の予想外のものだった。

「そう……残念ね」

 この言葉に、私はますます混乱した。

 従者が主人の為に命をも擲って、何が残念なのだと言うのだろうか?

 主人の為に生き、主人の為に死ぬ。

 それこそが、従者の本文ではないのだろうか?

 幽々子様は続けた。

「どうやら貴女は私に、自分の従者一人の命も守れない、外道な主人になれと言っているようね」

「……!」

 私は、二の句が継げなかった。

 言葉を失う私の頭に、幽々子様が優しく手を置いた。

「どうして私が、まだまだ半人前の貴女を従者に抜擢したのだと思う?」

 頭の上の幽々子様の手の平の感触に戸惑いながらも、私は直感的に、この方には嘘も誤魔化しも通用しないなと感じていた。

 私は正直に、

「分かりません」

 とだけ答えた。

 幽々子様は、私の頭を撫でながら、

「それはね、妖夢。まだ若い貴女なら、〝主人の為に〟を理由に自分の命を危険に晒すような、愚かな真似をしないと思ったからよ」

 その時の幽々子様の声には、悲哀にも似た感情が籠っていた。

「とても昔の話なのだけれど、私は沢山の人や妖怪を殺めてしまったことがあるの。それも、何の罪の意識も無いままにね。『白玉楼』の主なんて名ばかり。こんな私を、危機から守る価値なんてあるのかしらと、今でも思うことがあるわ。だからこそ、私には貴女が必要だった」

 私はただ黙って、幽々子様の話を聞いていた。

「いいこと、妖夢。私に、貴女の屍の上を歩かせるような、そんな真似はさせないで頂戴。これからは貴女のことを、その主人である私が守るのよ」

 この言葉に、私がどれほど胸を打たれたかは筆舌に尽くし難い。

 しかし同時に、私には一点だけ胸に引っ掛かるものがあった。

「では、従者(わたし)の存在意義はどこにあるのでしょうか?」

 幽々子様のその背中に守られるばかりの従者に、従者としての価値があるのだろうか?

 主人の為に身を粉にして尽くせななくて、それを従者と呼べるのだろうか?

 私には分からなかった。

 幽々子様は私の頭から手を離し、言った。

「貴女は、貴女が思うままに私に奉仕してくれればいいのよ? ただ、私が言いたいのは、その主従の誓いは、決して命を奪ってはならないと私は思っているの。貴女は私の従者である前に、一人の人間なのだから」

 そして幽々子様は私の肩に手を添えて、私に頭を上げるように促した。

 私はその通りに面を上げ、改めて幽々子の顔を正面に捕えた。

 春の木漏れ日のように優しい幽々子様の相貌が、まるで母親のそれのように私を見つめていた。

「妖夢。これからは私の従者として、私に仕えなさい。そして私に仕えるからには、生きて、私の傍にいて。人恋しいのは、亡霊の性なんだから」

「……はい」

 私は改めて、私の主人となった幽々子様のお傍で尽力することを強く決意した。

 そして時は経ち、やがて私は、幽々子様に、主人以上の感情を抱くようになっていた。

 まるで姉か母親のようにすら、感じる時もあるほどに。

 しかし、後にこの時の幽々子様の言葉に完全に背いてしまう決断を、私は強いられることになる。



 『春雪異変』の終結から二日ほど経った夜のことだった。

 無事に〝春〟を取り戻した『幻想郷』だったが、春の訪れの遅い『冥界』では、まだ深々と雪が降っていた。

 私はあの時と同じように、幽々子様の私室へと続く廊下を歩いていた。

 手にはお盆。その上に温かい緑茶を乗せて、私はそのお茶が冷めないように足早に幽々子様のお部屋に向かった。

 今夜は一段と冷え込んでいる。

 砂糖菓子のように白くなった息が、空気に溶け込んでいくのを私は目で追った。

 別に頼まれた訳でもないが、今夜のような寒い晩には、何か温かいものをお出しすれば幽々子様も喜んでくださるだろうと私は考えていた。

 そして私は幽々子様の部屋の前まで来ると、お盆を置いて、いつものようにそこに正座した。

 凍て付くような冷たい風に晒された床の冷たさが、膝下から爪先にまで伝わる。

 まるで冷水に足を浸けるような感覚に囚われながら、私は戸を叩こうと手を伸ばし、そして止まった。

 部屋の奥から、幽々子様の声が漏れ聞こえていた。

 それは紛れもない、幽々子様のすすり泣く声だった。

 私は衝撃を覚えた。

 どうして幽々子様が泣いているのか、私には一瞬分からなかった。

 しかし、答えはすぐに出た。

 『西行妖』に満開の桜を咲かせることは、幽々子様の悲願であったのだから。

 霊夢さんと魔理沙さん、そして咲夜さんの三人に敗れたあの日、幽々子様はあまり多くは語らずに、いつも通りの態度で私に接してくださっていた。

 しかしその普段通りの態度の下に、どれほどの無念さを滲ませていたのかを、私はそこで気が付かされた。

 そして思い知らされる。

(……何なのよ……この状況は……)

 望みが潰え、悲しみに暮れる主人。

 その主人の胸の内を知らず、のん気にお茶など淹れている自分。

 たった一枚の戸を隔てて、あまりにも対極的なこの状況に、私は愕然とした。

(どうして私は……こんなことが出来ているの(、、、、、、)……?)

 もしも私があの時、霊夢さん達と対峙したあの時、もっと己の死力を尽くせていたのなら。

 この状況を、もっと違うものに変えることが出来たはずなのに。

 それなのに、のうのうと茶など淹れられる自分の不謹慎さが、どうしても許せなかった。

 私は呆然と、戸を見つめて座り込んでいた。

 幽々子様が泣いている。

 人知れず、誰にも悟られず。

 一人で全てを抱え込んで。

(それなのに、私は……)

 戸の向こうから聞こえる、幽々子様の涙する声の、その嗚咽の一つ一つが私の胸に突き刺さった。

 それはどんなに研ぎ澄まさせた刃よりも鋭く、私の心に突き立っていく。

 気が付くと、私の両の目からも、涙が溢れ出してきた。

「……妖夢? ……そこにいるの?」

 と、私の存在に気が付いたのか、部屋の中から幽々子様の擦れた声が聞こえた。

 私は必死に泣いているのを隠そうとしたが、口を開くと、自分でも情けないほどに上ずった声しか出すことが出来なかった。

「……はい」

 私が答えると、部屋の中からは何か衣擦れの音が聞こえた。

 それが、幽々子様の立ち上がった音なのだと私は察知した。

 慌てて私は涙を拭こうとするが、目の前の戸が開かれることはなかった。

 私が当惑していると、先ほどよりも近い所から幽々子様の声がした。

「ごめんなさい妖夢。今夜はここは開けないで頂戴。私も、今はとても見せられた姿ではないから……」

 この期に及んで、どうして幽々子様が私に謝らなければならないのか。

 私は胸が張り裂けそうな思いがした。

「だけどもし……貴女さえ良かったら……」

 再び込み上がってきた涙を、歯を喰いしばって堪えていた私に、幽々子様は続けた。

「今は一緒に泣いて……」

 たちまち、私の涙腺は決壊した。

 幽々子様のその優しさが、嬉しくて、辛かった。



 あぁ、幽々子様。

 貴女はなんてお優しいお方。

 慈愛に溢れたお方。

 それなのに私は――。

 私が流しているこの涙は――。

 貴方のそれとは違うのです。



 私は声を上げて泣き出した。



 悔しくて仕方が無かった。

 情けなくて、壊れてしまいそうだった。

 こんなにもお優しい方の笑顔一つ、守ることが出来なかったなんて。



 きっと幽々子様は、これから先も。

 この件に関して私を責めることは無いだろう。

 しかし、私にはまだ余力があった。

 体は動き、言葉を話し、考えるだけの余裕があった。

 その全てを、大切な誰かの為に使い切れなくて。



 ――何の為の従者なのか。



 この時、私は誓った。

 もう二度と、幽々子様にこんな思いはさせまいと。

 だからこそ、アリスさんから【月下美人】発動の計画を聞かされた時、私はその話に乗った。

 勿論、そのことであの日の過ちを帳消しに出来るとは思っていない。

 霊夢さん達を裏切ることにもなる。

 しかし、もしチャンスがあるのなら、どんな恥を忍んでもそれを掴みたいと思った。



 私が首を縦に振った時、アリスさんは確認するように言った。

「本当に、いいのね?」

 私は答えて言った。

()辱は、果たさなければ」

 あの雪の夜から凍り付いた時計の針を、私は動かしたかった。

皆様お待たせしました。

『東方逢月譚』、第十一話になります。

しかし例によって、〝過去回〟です。

今回は妖夢の過去にクローズアップしてみたのですが、私は所謂シリアスな展開を考えるのが大好きだったりします。

そういう場面をしっとりと、その場の空気すらも読み手に伝えられるように努力はしているのですが、上手く書けていたでしょうか。


さて、これからもまだまだ続く『東方逢月譚』。

今後とも宜しくお願い致します。

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