第2話:白銀の森の怪異と、美しき氷の王
大聖堂の静寂を破るように激しく吹き荒れていた吹雪が、嘘のように止んだ。
雲の切れ間から差し込む一筋の月光が、一面の白銀世界を静かに照らし出している。
先ほどまで息を荒らげ、鋭い牙を剥いて襲いかかろうとしていた凶暴な古代魔獣の群れは、いまや一頭残らず美しい紫銀の氷結晶と化していた。一切の声をあげる隙すら与えられず、ただの静謐な芸術品へと変えられてしまったのだ。
「……あ……」
積もった雪の上に横たわったまま、シェリールはかすれる声漏らした。
指先一つ動かせず、凍えつく体温がじわじわと生命を削っていく感覚。意識が混濁し、いまにも闇の底へ引きずり込まれそうな視界の中で、その人物は現れた。
ザッ、ザッ……。
静かな足音が雪を踏みしめる。
光の道を辿るようにして歩み寄ってきたのは、言葉を失うほどに美しく、そして途方もない圧迫感を放つ男だった。
透き通るような白銀の髪が、極寒の夜風にゆらりと揺れている。
その背丈は人間を遥かに超えて高く、纏っているのは闇をそのまま織り上げたかのような漆黒と白金の重厚な外套。何より、見下ろしてくるその瞳——夜空の深淵を溶かし込んだかのような濃密な紫の瞳には、一切の情赦を交えない絶対的な神威が宿っていた。
男の背後には、天を衝くほどに巨大な「白銀の龍」の影が揺らめいている。
(あ……綺麗な……龍の……様……)
シェリールの頭の中に、古い伝承の記憶が途切れ途切れに浮かんだ。
ルナリア王国の北端、誰も近づくことの許されない『絶対不可侵の白銀の森』。そこに立ち入った者は、森を統べる古の神によって一瞬で命を奪われるという。
太古の昔よりこの森に鎮座し、自然の理を司る伝説の存在。
氷龍神アルファス——その人であった。
「……何故、人間がこのような死の地に倒れている」
低く、けれど大気を直接震わせるような透き通った声が降ってくる。
アルファスは無表情のまま、ゆっくりと片膝をついた。死に瀕したシェリールを見下ろす紫の瞳には、感情の機微など欠片もうかがえない。
「……私……は……いらない……子……」
掠れた声で、シェリールはそれだけを呟いた。
もう、何もかもがどうでもよかった。信じていた婚約者にも、血を分けた父親にも裏切られ、ただ惨めに捨てられた身だ。ここでこの神の手によって害され、氷の塵となって消えるのなら、それもまた相応しい末路なのだろう。
シェリールが静かに瞼を閉じようとした、その時だった。
「ふむ……」
大きな手が、そっとシェリールの冷え切った頬に触れた。
男の肌は冷たいはずだった。だが、氷のように凍りついていたシェリールの身体には、その指先から伝わるものが、どんな暖炉の火よりも温かく、心地よく感じられた。
「脆いな。今にも消えてしまいそうな、小さな温もりだ」
アルファスは小さく鼻を鳴らすと、手加減など知らんと言わんばかりの動作で、シェリールの細い身体を軽々と抱き上げた。
すっぽりとその腕の中に収まってしまうほどの小さな存在。アルファスは自身の纏う厚手の漆黒外套を脱ぐと、泥と雪に汚れ切ったシェリールの身体を、頭からすっぽりと包み込んだ。
「あ……」
「喋るな。息を吸うだけで喉が凍りつくぞ」
突き放すような冷酷な口調。けれど、シェリールを抱きかかえる腕の力加減は、まるで壊れやすい硝子細工でも扱うかのように、どこまでも慎重で優しかった。
外套から漂うのは、清廉な冬の風と、微かに甘い新雪のような不思議な香り。
アルファスの胸から伝わってくる力強い鼓動と、じんわりとした温もりに包まれながら、シェリールの意識はゆっくりと深い闇の中へと沈んでいった。
◇◇◇
(……あたたかい……)
それが、シェリールが最初に抱いた感覚だった。
皮膚を刺すようなあの激しい凍える冷気も、指先を苛んでいた裂けるような痛みに苦しむこともない。身体全体が、上質な羽毛の毛布と、柔らかく香ばしい香りに包まれている。
(私……死んだのかな……? ここは……天国……?)
うっすらと瞼を開ける。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた公爵家の狭い自室でも、冷酷な審問が行われた大聖堂でもなかった。
高い天井には、透き通るような紫銀の氷結晶で象られた優美なシャンデリアが吊り下げられている。そこから溢れ出る光は柔らかな黄金色で、部屋全体を温かく照らしていた。
壁は重厚な石造りだが、壁面には煌々と炎を上げる巨大な暖炉が備え付けられており、パチパチと薪のはじける心地よい音が響いている。
驚いて身体を起こそうとしたシェリールは、ふと自分の装いに気づいて息をのんだ。
泥と雨でボロボロになっていたあの質素な礼拝服は脱がされ、代わりに纏っていたのは、肌触りの滑らかな極上のシルクで作られた純白の部屋着だった。腕や脚の擦り傷には、丁寧に薬が塗られ、清潔な布が巻かれている。
「気がつかれましたか、お嬢様」
温かな声が聞こえ、シェリールは弾かれたように視線を向けた。
ベッドの脇に立っていたのは、立派な執事服を身に纏った、初老の男だった。
上品で物腰の柔らかい雰囲気を漂わせているが、その頭部からは立派な白銀の角が生えており、背後には太い尻尾がのぞいている。人間ではなく、龍族の者であることが一目で分かった。
「あ……あの、ここは……? 私は……」
「ここは『氷龍神の離宮』。我が主、アルファス様がお住まいになられる城でございます。私は執事長を務めております、ヴォルクと申します」
ヴォルクと名乗った龍族の老人は、恭しく深々と一礼した。
「龍神様の……お城……? 私、確か……森で……」
「左様でございます。アルファス様が森の巡回からお戻りになられた際、貴方様を抱えてお戻りになりました。……いやはや、数千年間この城におりますが、主が人間のお方を、それもこのようなお世話まで焼かれて連れ帰られるなど、初めてのことにございますよ」
ヴォルクは眼の奥を和ませながら、サイドテーブルに置かれた湯気の立つ器を手に取った。
「さあ、お体はまだ冷え切っております。まずはこれを召し上がってください。龍族に伝わる、精導の薬草と霊鳥の滋養スープでございます。お体の芯から温まりますよ」
「あ……ありがとう、ございます……」
差し出されたスープを受け取り、一口口に含む。
とろりとしたスープはほんのり甘く、喉を通り過ぎた瞬間から、腹の底からじんわりと温かな活力が広がっていくのが分かった。疲れ果て、擦り減っていた体力が、奇跡のように満ちていく。
(すごい……こんな美味しいスープ、食べたことない……)
ルナリア王国にいた頃は、継母やセシリアからまともな食事すら与えられず、残飯のようなものばかり口にしていた。それなのに、見知らぬ異種族の城で、これほどの厚遇を受けるなんて。
困惑と申し訳なさで胸がいっぱいになっていると、部屋の外から静かで重厚な足音が近づいてくるのが聞こえた。
コツン、コツン、と規則正しく響く足音。
それだけで、部屋の中の空気が一瞬でピンと張り詰める。ヴォルクが姿勢を正し、恭しく入り口に向かって頭を下げた。
重厚な意匠が施された氷晶の扉が、静かに開く。
そこに立っていたのは、シェリールを吹雪の中から救い出した男——氷龍神アルファスだった。
外にいた時の重厚な黒外套は脱いでおり、身につけているのは体にフィットした漆黒の上衣と細身のパンツ。白銀の長髪が肩に流れ、その圧倒的な美貌と神威は、明るい部屋の中で見るとさらに息をのむほどだった。
「……目覚めたか」
アルファスの紫の瞳が、ベッドの上のシェリールを捕らえる。
その射抜くような視線に射すくめられ、シェリールは思わず背筋を伸ばした。
「あ、あの……! 助けていただき、本当にありがとうございました! 私、シェリールと申します。ご迷惑をおかけしてしまって……すぐに、出て行きますので……っ」
恩人に不快な思いをさせてはならないと、慌ててベッドから立ち上がろうとした。裸足を床につけようとした、その瞬間——
「待て!」
ドガァン!
突如として低い一声が響き、部屋全体の温度が一瞬で氷点下まで跳ね上がった。
「ひっ……!?」
あまりの威圧感にシェリールが縮こまると、アルファスは大股で一瞬のうちにベッドの脇まで距離を詰めていた。
「何をしている。まだ熱が下がっていないだろうが」
「え……? あ、あの……」
「動くなと言っている」
アルファスは強引にシェリールの肩を掴むと、そのままフカフカの敷布団の上へと押し戻した。その動作は素早く、力強い。けれど、傷ついたシェリールの肌を痛めつけないよう、絶妙に加減されているのが手に取るように分かった。
押し倒される形になったシェリールは、すぐ至近距離にあるアルファスの顔を見上げて固まった。
(近……い……!?)
目の前に、整いすぎたアルファスの顔がある。
滑らかな白い肌、彫刻のように整った鼻筋、そして吸い込まれそうなほどに深く輝く紫の瞳。長くて美しい銀のまつ毛まで、はっきりと見える距離だ。
アルファスは不満そうに細められた瞳でシェリールを睨みつけると、大きな手をそっと伸ばしてきた。
ひやりとした、けれど心地よい指先が、シェリールの額に触れる。
さらには、熱を確かめるようにして、そのまま自分の額をシェリールの額へと軽く押し当ててきた。
「ん……っ!?」
あまりの距離の近さに、シェリールは心臓が口から飛び出しそうになった。
カッと顔が熱くなり、耳の先まで赤くなっていくのが自分でも分かる。
「ふむ……熱は幾分下がったようだな。だが、魔力の枯渇が酷い。体内の回路がスカスカだ」
アルファスは至近距離で真顔のまま、淡々と告げた。吐き出される息すら、新雪のように清らかで冷たい。だが、触れ合っている額からは、痺れるような甘い体温が伝わってきた。
「あ、あの……アルファス様……顔が、近いです……っ」
恥ずかしさのあまり消え入りそうな声で訴えると、アルファスは不思議そうに首を傾げた。
「何故だ? 熱を測っているだけだ。それとも、私の接触が不快か?」
「ふ、不快なんてそんな! そうじゃなくて……その、私のような泥だらけで捨てられた人間が、こんな風に触れていただくなんて、恐れ多くて……」
シェリールが俯きながら言葉を漏らすと、アルファスの紫の瞳が、一瞬だけ険しく細められた。
「……泥だらけで捨てられた、だと?」
「……はい。私は、国の聖女だったのですが……妹に濡れ衣を着せられ、無能の悪女として国を追放されたのです。私にはもう、価値なんて何もありません……」
自嘲気味に笑おうとした。
だが、その前に、アルファスの大きな手がシェリールの顎を優しくすくい上げ、強制的に視線を合わせさせた。
「戯言を」
アルファスの声には、絶対の確信が宿っていた。
「価値がないだと? 冗談ではない。私に見えないとでも思ったか? お前がどれほど清らかで、強大な聖力をその身に秘めているかを」
「え……?」
「お前の魔力は枯渇しているが、その根本にある魂の光は、私がこれまで見てきたどんな人間よりも美しく、清らかだ。それを無能と呼び捨て去った者どもは、ただの目眩く愚者にすぎん」
まっすぐに自分を見つめる紫の瞳に、迷いなど微塵もなかった。
「あ……」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
ルナリア王国では、誰もシェリールの言葉を信じてくれなかった。誰もシェリールの努力や祈りを見てはくれなかった。
全員がシェリールを「偽物」「無能」「悪女」と蔑み、ゴミのように捨て去ったのだ。
それなのに。
今日出会ったばかりの、伝説の氷龍神であるこのお方が。
自分の「光」を認めてくれた。自分を「清らかだ」と言ってくれた。
「それに……」
アルファスは低く囁くと、すくい上げたシェリールの顎から指先を滑らせ、彼女の頬を愛おしそうになぞった。
「私は、私以外の者がお前を傷つけることも、お前が自分を卑下することも許さん。……お前は私が拾ったのだ。私のものであるならば、相応しく誇り高くあれ」
「アルファス……様……」
「ヴォルク」
「ははっ、ここに」
控えていた執事長が恭しく一礼する。
「この者のために、最高の部屋と食事を用意せよ。それから、服もだ。人間界の流行など知らんが、最高級のシルクと宝石で仕立てたものを揃えさせろ」
「かしこまりました。主のお言いつけのままに」
「あ、あの! そんな、滅相もありません! 私はただの追放された身で……!」
慌てるシェリールを無視して、アルファスはシェリールの身体をふんわりと抱き寄せるようにして、ベッドに寝かせ直した。
そして、彼女の耳元に顔を近づけると、甘く、けれど拒絶を許さない低い声で囁いた。
「お前に拒否権はない。……良いか、シェリール。お前を不快にさせる全てのものから、私が守ってやる。だからお前は、ただここで……私に甘えていればいい」
「……っ!」
耳元をくすぐる吐息と、あまりにも甘く、過保護すぎる言葉。
シェリールの胸は、まるで早鐘のように激しく鳴り響いた。
冷たいはずの氷の王。
世界で最も冷酷無慈悲だと恐れられているはずの存在。
そのお方が見せる、不器用で、圧倒的で、あまりにも過剰な情熱。
絶望の淵にいたはずのシェリールの心に、小さな、けれど決して消えることのない温かな灯火が、ぽっと点された瞬間だった。




