第3話:手のひらの温もりと、小さな幼龍
『絶対不可侵の白銀の森』の奥深くに聳え立つ、氷龍神の離宮。
その広大な一角に与えられた客室で、シェリール・ルナリアは静かな朝を迎えていた。
高窓から差し込む冬の柔らかな光が、透き通る氷晶の装飾に乱反射し、部屋全体を七色の美しい光で満たしている。
温かな暖炉には煌々と薪がくべられ、ふかふかの羊毛毛布に包まれた身体は、以前の凍りつくような冷たさを嘘のように忘れてしまっていた。
(……不思議。あんなに衰弱していた体なのに、もうこんなに軽くなっているなんて……)
シェリールはゆっくりと体を起こし、自分の指先を見つめた。
ルナリア王国を追放されたあの日、激しい乱暴によって踏みつけられ、血に染まっていた爪や指先は、跡形もなく綺麗な桃色を取り戻している。
命を削り続けて枯渇しきっていた体内の魔力回路すらも、瑞々しい水が得られたかのように穏やかな温もりで満たされていた。
これほどの回復力は、ただ美味しい食事を摂り、暖かい部屋で休んでいるだけでは説明がつかない。
シェリールは、ふと昨夜の出来事を思い出して胸をキュッと痛ませた。
夜中、ふと意識が浮上した時に感じた、あの途方もなく甘く、温かな感覚。
暗闇の中、ベッドの傍らに佇んでいた影。
大きな、けれど奇跡のように優しい手が、シェリールの冷え切った手をそっと包み込んでいた。
『……案ずるな。もうお前を害するものは何一つ存在しない』
深海のように低く、雪のように清らかな声が耳元に届き、そこからじんわりと体内に注ぎ込まれた圧倒的で清澄な魔力。
(アルファス様が……夜毎、私に魔力を分けてくださっていた……?)
そう思わずにはいられないほど、毎朝目覚めるたびに体力が劇的に戻っていたのだ。
だが、考えれば考えるほど、シェリールにはその理由が分からなかった。
アルファスは、太古の昔よりこの白銀の森を統べる伝説の氷龍神だ。
本来であれば、人間に媚びることも、人間に興味を示すこともない、孤高で冷酷無比な絶対者のはずである。
それなのに、なぜ自分のような追放された人間を救い、こんなにも破格の歓待をしてくれるのだろう。
(私は、妹に追放された『無能の悪女』のはずなのに……。ただの行き倒れだった私に、どうしてこんなにも良くしてくださるのかしら……)
ふと、胸の奥を重苦しい罪悪感が支配する。
ルナリア王国で叩き込まれた「自分は価値のない存在だ」「周りに迷惑をかける出来損ないだ」という呪縛は、そう簡単に解けるものではなかった。
美しい衣装に、温かな部屋、贅を尽くした食事。
こんな夢のような恩恵を、自分が享受していいはずがないのではないか。
いつかアルファス様に「やはり勘違いだった」「お前など不要だ」と捨てられてしまうのではないか——。
「私……こんなところで、甘えていていいのかな……」
誰もいない部屋でポツリと漏れた呟きは、虚しく部屋の空気に溶けていった。
その時だった。
(……ん?)
首元に、微かな重みを感じた。
重みというか、ぽかぽかと温かい「何か」が、胸の上に乗っている感覚だ。
さらには、フワフワ、モフモフとした極上の柔らかい感触が、シェリールの胸元を優しく圧迫している。
(え……何かしら……? 誰かが部屋に入ってきたの……?)
固まるシェリール。そっと視線を落とし、羽毛布団を少しだけ手前に引いて胸元を覗き込んだ。
「……っ!?」
あまりの光景に、シェリールは息を飲んだ。
そこにいたのは——息をのむほど愛らしく、小さな生き物だった。
大きさは、大人の手のひらにすっぽりと収まってしまうほど。
全身を被っているのは、新雪のように純白で、光の加減でほんのりと紫銀に輝く、極上のフワフワな毛並み。
そして、その小さな頭部からは、透明感のある美しい白銀の二本の小さな角が生えている。
(龍……の、赤ちゃん……!?)
シェリールが呆然としていると、その小さな生き物が「うの……」と可愛らしい小さな欠伸をした。
そして、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
現れたのは、夜空の深淵を溶かし込んだかのような、どこまでも深く輝く美しい紫の瞳だった。
シェリールは、ハッと息を詰めた。
(この……紫色のお目目……! アルファス様と、まったく同じ……!?)
息を飲むシェリールに気づいたのか、小さな幼龍はパチクリと大きな紫の瞳を瞬かせた。
そして、シェリールと目が合った瞬間——。
「きゅ~……♪」
甘く、愛らしい、鈴を転がすような鳴き声をあげたのだ。
「っ……!」
次の瞬間、幼龍は小さな前脚を一生懸命に動かし、シェリールの服の生地をギュッと掴むと、そのまま胸元をのぼってきた。
そして、シェリールのあごの下にその小さな頭を思い切りすりすりと擦り寄せてきたのだ。
「きゅい~ん、きゅ……♪」
(か、可愛すぎる……!!)
シェリールの心臓が、激しく跳ね跳ねた。
先ほどまでのウジウジとした葛藤や不安が一瞬で吹き飛んでしまうほどの圧倒的な破壊力。
擦り寄せてくる頭からは、ぽかぽかと優しい体温が伝わってくる。
フワフワの毛並みが首元をくすぐり、思わず笑みがこぼれそうになる。
「あ、あの……貴方は……もしかして、アルファス様……なのですか……?」
恐る恐る尋ねてみると、幼龍は擦り寄せるのを一度やめ、シェリールの顔をじっと見つめた。
そして、「きゅんっ!」と満足そうに鼻を鳴らすと、小さな尻尾をパタパタと振り始めたのだ。
否定しないということは、やはりそうなのだろう。
あの人間離れした圧倒的な神威を放ち、一瞬で巨獣を氷漬けにしてしまう冷酷な氷の王。
そのアルファスが、今、シェリールの胸の上で手のひらサイズの「もふもふ幼龍」になっているのだ。
あまりの落差とギャップに、シェリールは頭がクラクラした。
「そんな……アルファス様が、こんなに小さく……可愛らしくなられるなんて……」
「きゅ~う」
幼龍姿のアルファスは、シェリールが自分を受け入れてくれたと理解したのか、さらに無防備な態勢になった。
シェリールの胸の上でぐるりと一周すると、ぽんぽこな丸いお腹を上に向けて、ゴロンと仰向けに寝転がったのだ。
小さな前脚と後脚をぽてっと丸め、「撫でてほしい」と言わんばかりに紫の瞳でじっとシェリールを見つめてくる。
「っ……あ、あお腹を撫でてほしいのですか……?」
「きゅい」
コクンと小さく首を傾げる仕草。
もはや、シェリールの理性が耐えられる限界を超えていた。
シェリールは震える指先をそっと伸ばし、幼龍のフワフワなお腹に触れた。
「んぁ……っ、すごく……柔らかい……」
シルクよりも滑らかで、極上の羽毛よりもフワフワな毛並み。指先が吸い込まれるような最高の感触だ。
壊してしまわないよう、力を込めずに優しく、優しく撫でまわす。あごの下や首筋をこちょこちょと優しく撫でてあげると、幼龍は「ぷるゆる……♪」と幸せそうに喉を鳴らした。
「ふふっ……気持ちいいのですか? アルファス様」
「きゅ~う……♪」
幼龍は瞳を細め、シェリールの指先にすり寄ってくる。
無防備に甘えてくるその姿は、冷酷無比な氷龍神の面影など微塵もなかった。
(あんなに冷たくて、恐ろしいほどに美しいお方なのに……こんな風に甘えてくださるなんて……)
シェリールの胸の奥に、温かな愛おしさが溢れ出してくる。
自分を救ってくれた人。
誰も信じてくれなかった自分を「清らかだ」と認めてくれた人。
そんなお方が、いま自分の手のひらの中で、こんなにも全幅の信頼を寄せて甘えてくれているのだ。
「私……アルファス様に助けていただけて、本当に良かったです。本当なら、追放されてあの森で死んでいたはずなのに……こんなに優しくしていただいて……」
撫でながら、ポツリと本音が漏れた。
「アルファス様。私、もう自分を無能なんて責めたりしません。貴方が私を拾ってくださったのだから……貴方にご迷惑がかからないよう、ちゃんとお役に立てるようになりたいです」
シェリールが微笑みながら語りかけると、幼龍のお腹を撫でていた指先を、幼龍の小さな前脚がキュッと掴んだ。
「きゅ……」
紫の瞳が、どこまでも深く、真っ直ぐにシェリールを見つめている。
まるで「お前はそのままでいいのだ」と伝えてくれているかのように。
「ふふ、ありがとうございます、アルファス様……」
あまりの愛おしさに、シェリールは幼龍をそっと両手で救い上げると、自分の頬へすりすりと寄せた。
温かな体温と、新雪のような清らかな香りが鼻腔をくすぐる。
幼龍も「きゅ~う♪」と声をあげ、シェリールの頬に自分の小さな頬をすり寄せてきた。
その時だった。
ぽっ、と温かな紫の光が、二人の間ではじけた。
「……え!?」
光の粒子が部屋全体に舞い散り、シェリールの視界が一瞬で眩い紫銀に染まる。
次の瞬間——ドサリ、という重い音とともに、ベッドが大きく沈み込んだ。
「ひゃっ……!?」
幼龍のフワフワとした軽い重みは一瞬で消え去り、代わりにシェリールの全身を襲ったのは、ズシリとした男のずっしりとした体重と、圧倒的な密着感だった。
シェリールは目を見開いた。
目の前にあったのは——至近距離で自分を見下ろす、息をのむほどに美しく、整った男の顔だった。
さっきまでの小さな幼龍の姿はどこへやら。
白銀の長髪を散らし、黒と銀の上衣を纏った、本来の美しい人間姿のアルファスが、シェリールの上に完全に覆いかぶさる格好になっていたのだ。
「あ……あ……っ!?」
あまりの事態に、シェリールの頭は真っ白になった。
両手はアルファスのたくましい胸板に触れており、彼の体温と力強い鼓動がダイレクトに伝わってくる。
シェリールの両脇にはアルファスの長い腕が突かれており、完全に逃げ場を塞がれた「押し倒された」状態だ。
「ア、アルファス様……!? な、なぜ元の姿に……っ!?」
顔を真っ赤にしてパニックになるシェリールに対し、アルファスは至近距離で真顔のまま、整った眉を僅かにひそめた。
「何故も何も……お前がそこまであの姿を気に入るとは思わなかったのだ」
「え……?」
アルファスはゆっくりと顔を近づけてきた。
吐き出される清らかな息がシェリールの唇を掠め、耳元へと滑り落ちる。
「あの幼龍の姿は、膨大すぎる我が神威を一時的に抑え込むためのものだ。滅多に他者に見せることはない」
「そう……だったのですか……。私、そんな大切な姿とは知らずに、勝手に撫で回してしまって……すみません……っ!」
申し訳なさで縮こまるシェリール。
だが、アルファスは低く掠れた声で、耳元に甘い吐息を吹きかけた。
「謝る必要はない。むしろ……お前があの姿の私を拒絶せず、あれほど愛おしそうに撫でてくれたことは、悪くない気分だった」
「っ……!」
「……我が神威は冷たく、他者を拒むものだと思っていたが。お前の手は、驚くほど温かかったな」
アルファスはそっと手を伸ばすと、シェリールの頬を大きな手で包み込んだ。
先ほどまで幼龍の小さな頭を包んでいた手だ。だが今度は、アルファスの大きな手が、シェリールの小さな顔をすっぽりと包み込んでいる。
「アルファス……様……」
「どちらの私も……お前のものだ、シェリール」
紫の瞳が、蕩けるような情熱と、隠しきれない独占欲を宿してシェリールを射抜く。
「あの幼龍の私を気に入ったのなら、いつでもあの姿になってやろう。だが……人間の姿の私からも、逃げられると思うなよ?」
「ひぅ……っ!?」
「お前は私が拾い、私が活かした私の女だ。……もっと撫でてくれてもいいのだぞ? 人間の姿の私を、な」
耳元で囁かれた甘く、どこまでも低い声。
その言葉の意味を理解した瞬間、シェリールの顔は爆発したかのように赤くなった。
(人間の姿のアルファス様を……撫でる……!? そんな、恐れ多すぎます……っ!!)
「な、何を仰っているのですかアルファス様! お戯れはやめてくださいっ!」
照れの限界を迎えたシェリールが、真っ赤になってアルファスの胸をぽかぽかと力なく叩く。
すると、冷酷無比と恐れられる氷龍神は、満足そうに口元を僅かに緩め、フッと美しく目を細めたのだった。
「戯れではないと言っているのだが……まあいい。まだ病み上がりだ、無理はさせるまい」
アルファスはシェリールの額にそっと唇を寄せて、優しいチュッという音を立ててキスを落とした。
「ひゃい……っ!?」
「朝食が運ばれてくる。しっかりと食べろ。身体を治すことが、今の私の命令だ」
アルファスはそう言い残すと、シェリールの頭を優しく撫で、名残惜しそうに身体を離した。
そして、優雅な動作でベッドから立ち上がると、振り返ってシェリールへ美しい笑みを向けた。
「ではまた後でな、私の可愛いシェリール」
氷晶の扉が静かに閉まり、部屋に一人取り残されたシェリールは、顔を真っ赤にしたまま布団を頭まで被った。
(心臓が……破裂しちゃう……っ!!)
バクバクと暴れる胸の鼓動を押さえる。
あんなに冷たくて、恐ろしい存在だと思っていた氷龍神。
だが、その素顔は——あまりにも不器用で、過保護で、愛らしく、そして甘すぎるほどにシェリールを溺愛してくれる「最高の庇護者」だった。
ルナリア王国で負った心の傷は、まだ完全には癒えていない。
けれど、この温かな氷の城で、このお方の側でなら。
自分はもう一度、前を向いて歩いていけるかもしれない。
被った布団の中で、シェリールは小さく、けれど確かに幸せな微笑みを浮かべたのだった。




