第1話:冷たい雨の降る日に、私はすべてを奪われた
大聖堂の高天井に刻まれた聖画は、冷徹なまでの厳かさで頭上の愚行を見下ろしていた。
無数に並ぶステンドグラスからは、鈍色の冬空を切り取ったかのような冷たい光が差し込み、大理石の床を淡く照らしている。その荘厳な空間を満たしているのは、神への祈りでも讃美歌でもない。一人の少女に向けられた、目も当てられないほどの悪意と歪んだ優越感だった。
「どこまで浅しい女なのだ、シェリール! 自分の能力の無さを自覚するどころか、天啓を受けし真の聖女であるセシリアを嫉み、その命を毒によって奪おうとするとは……! 恥を知れ!」
静寂を切り裂いて大聖堂に響き渡ったのは、ルナリア王国第一王子、ジュリアス・ルナリアの怒声だった。
黄金の髪をなびかせ、絢爛豪華な騎士礼装に身を包んだ彼の表情には、かつて向けられたことのないような冷酷な軽蔑が張り付いている。
そのジュリアスの胸元にしがみつき、可憐な身体を小刻みに震わせているのは、シェリールの義妹であるセシリアだった。
「お兄様、もうお止めください……。お姉様だって、きっと魔がさしただけなのですわ。私の聖力が急速に高まり、国中の浄化を任されるようになったことで……ご自身の居場所が無くなるのではないかと、お不安になられたのでしょう……っ」
儚げな桃色の髪を濡れたような瞳で揺らし、痛々しく言葉を詰まらせるセシリア。その目元には一筋の涙が伝っている。
だが——その涙の隙間から、ジュリアスの背越しにシェリールへと向けられた一瞬の視線。そこに宿っていたのは、隠しきれない邪悪な勝ち誇りだった。
(……ああ、やっぱり。最初から、こうするつもりだったのね)
シェリール・ルナリアは、冷たい大理石の床に膝をついたまま、呆然とその光景を見つめていた。
着古された質素な礼拝服。度重なる儀式と浄化の祈りによって魔力を擦り減らし、痩せこけた身体。手入れをする暇もなく束ねられただけの銀糸の髪。
それが、今のシェリールの姿だった。
「セシリア、お前はどこまで心優しいのだ……! この悪女は、お前のその優しさに付け込み、毒を盛ったのだぞ! 弁明の余地など欠片もない!」
ジュリアスはセシリアの肩を抱き寄せ、心底愛おしそうにその頭を撫でる。そして、吐き捨てるようにシェリールを見下ろした。
「シェリール・ルナリア。いや、もはやルナリアの名を口にするのも汚らわしい。お前との婚約は、本日この瞬間をもって破棄する! 王国の真の聖女はセシリアであり、私の正妃となるべきもまた、セシリアただ一人だ!」
大聖堂を埋め尽くす貴族たちから、一斉に賛同のどよめきと蔑みの声が上がった。
「当然だ、偽りの聖女など連れ去るがいい!」
「今までセシリア様の功績を自分のものだと偽っていたのだろう?」
「恐ろしい女だ。義妹に毒を盛るなど、人間の生血を吸う悪魔と変わらん!」
飛び交う罵詈雑言の暴風の中で、シェリールはゆっくりと掠れた声を絞り出した。
「……違います。私は……毒など盛り込んでおりません。セシリア義妹様が倒れられたあの夜、私は国境の汚染地帯を浄化するため、一日中、祈りを捧げておりました。私が毒を盛るなど……物理的にも不可能なのです……っ」
「黙れ!」
ジュリアスが一歩を踏み出し、シェリールの胸元を容赦なく足蹴にした。
「ぐっ……!?」
鈍い音とともに衝撃が走り、シェリールは床へ倒れ込む。胸を強く打たれ、呼吸が詰まる。視界が点滅するほどの激痛に苛まれながらも、彼女は必死にジュリアスを見上げた。
「まだ見苦しい嘘を重ねるか! 証拠ならセシリアの部屋から出てきた毒薬の瓶と、お前の部屋から見つかった残滓で十分だ! お前がどれほどセシリアを嫉み、虐げてきたか、公爵閣下からも全て伺っている!」
「父……様が……?」
シェリールは目を見開いた。
列席する貴族の最前列。そこに立つのは、シェリールの実の父親である公爵だった。
だが、かつて母を亡くしたシェリールを「役に立たない出来損ない」と冷遇し続けた男は、シェリールと目を合わせようともせず、心底不快そうに顔を背けた。
「ジュリアス殿下の仰る通りだ。シェリール、お前のような醜い心を持った娘を生んだ覚えはない。セシリアこそが、我が公爵家の、そしてこの王国の誇りだ。お前のような無能で陰険な悪女、二度と我が家の敷居を跨ぐな」
「……あ……」
喉の奥で、小さな音が跳ねた。
言葉が出ない。感情が、感覚が、急速に凍りついていく。
知っていたはずだった。
実母が亡くなり、継母とセシリアがこの家にやってきてから、自分の居場所などどこにもなかったことくらい。
それでも、幼い頃から命を削って「聖女」の義務を果たしてきたのは、いつか父に認められたかったから。国の人々が笑顔になってくれれば、それで報われると信じていたからだ。
国中の疫病を鎮めるために、丸三日不眠不休で祈りを捧げたこともあった。
凶作に苦しむ農村の土地を再生させるため、己の血を聖水に混ぜて大地に注いだこともあった。
その度に体力を使い果たし、倒れ込んでも、戻ってきたシェリールを迎えたのは継母とセシリアの冷ややかな視線と、過酷な雑用だけだった。
「お姉様ったら、また聖女の真似事をして民を騙してきたのですか? 気持ち悪い……」
セシリアはそう言って笑い、シェリールが命がけで持ち帰った感謝の品々を目の前で踏みにじった。
そしていつしか、シェリールが命を削って成し遂げた浄化の功績は、すべて「セシリアが影で祈りを捧げていたおかげ」として処理されるようになったのだ。
シェリールがいくら否定しても、誰も信じなかった。
美しく着飾り、可憐に微笑むセシリアの言葉だけが正義であり、黒い隈を作り、泥に汚れて祈り続けるシェリールの言葉は「狂人の戯言」として切り捨てられた。
そして、ついにこの日が来たのだ。
シェリールという「本物の聖女」を完全に抹殺し、セシリアがその栄光を完璧に独占するための、仕上げの審問。
「……私の祈りは……私がしてきたことは……すべて、無意味だったのですね……」
ぽつりと漏れたシェリールの言葉に、ジュリアスは鼻で笑った。
「無意味どころか不快だったのだよ、シェリール。偽物のくせに聖女を気取り、周囲の気を引こうとする姿がな!……おい、それを渡せ」
ジュリアスが手を差し出すと、近衛兵が恭しく一つの箱を差し出した。
その中に入っていたのは、シェリールが亡き実母から唯一受け継いだ、純銀のロザリオだった。シェリールが聖女として祈りを捧げる際、常に胸に抱いていた魂の拠り所。
「あ……返してください……! それは、お母様の……!」
シェリールは這いずるように手を伸ばした。
しかし、ジュリアスはそのロザリオを掴み上げると、シェリールの目の前で、大理石の床へ叩きつけた。
ガシャンッ!
硬い音が響き、繊細な銀細工の十字架が歪み、埋め込まれていた小さな聖石が粉々に砕け散る。
「私の命を偽物の祈りで汚されては溜まらんからな。このような禍々しいもの、叩き潰してくれる」
「嫌……嫌あぁぁぁっ!」
絶叫しながら砕けたロザリオへ手を伸ばすシェリール。だが、ジュリアスの冷酷な靴底が、彼女の細い指先を踏みにじった。
「グっ……! 痛……っ!」
「不吉な悪女め。お前に与える慈悲など一滴もない。……これより、シェリール・ルナリアを国外追放処分とする! 行き先は……そうだな、あの森がお似合いだ」
ジュリアスが歪んだ笑みを浮かべて告げた名前に、聖堂内の貴族たちが息をのんだ。
「死の領域……『絶対不可侵の白銀の森』……!」
「あそこへ追放するとは、事実上の死刑判決ではないか」
「当然だ。聖女様を殺そうとした悪女なのだからな」
『絶対不可侵の白銀の森』。
ルナリア王国の北端に位置するその森は、太古の昔から人界を拒絶し続けている禁忌の地だった。
猛烈な吹雪と極寒の冷気が満ち、人知を超えた獰猛な古代魔獣たちが蠢く場所。一度足を踏み入れれば、二度と生きて戻ることはできないと言われている死の森。
「連れて行け! 二度とこの国の土を踏ませるな!」
「離して! 返して、お母様の……! 返してぇぇっ!」
指を踏みつけられ、血を流しながらも抗うシェリールを、二人の兵士が粗暴に立ち上がらせる。
引きずられていくシェリールの視界の端で、セシリアがジュリアスの腕にすがりつきながら、可憐な口元を妖しく歪めて囁くのが見えた。
(さようなら、お姉様。私の引き立て役として、最高の最期を迎えなさい?)
声には出さないその唇の動きが、はっきりと理解できた。
(……ああ、世界は……こんなにも理不尽で、冷たいのね……)
絶望の闇が、シェリールの視界を塗りつぶしていった。
◇◇◇
ドンッ、と重い音が響き、宮殿の勝手口にあたる巨大な鉄門が閉ざされた。
外は、土降りの雨だった。
初冬の凍てつくような冷雨が、容赦なくシェリールの全身を叩きつける。
「けっ、さっさと失せろ、悪女め!」
吐き捨てるような兵士の声とともに、シェリールは泥水の中へと倒れ込んだ。
バシャリ、と冷たい泥が顔や髪に飛び散る。
薄手でボロボロの礼拝服は一瞬で雨を吸い込み、氷のように冷たく重く身体にへばりついた。
靴すらはかされていない裸足の足先は、すでに冷たさで感覚を失っている。破れた爪から流れる血が、泥水に混ざって赤く滲んで消えていった。
「う……っ……あ……」
シェリールは震える身体を抱きしめ、泥の中から這い上がろうとした。だが、指先を踏みにじられた激痛と、命を削り続けて枯渇した魔力の衰弱により、立ち上がることすら叶わない。
見上げると、重厚な城壁の向こうに、温かな光を放つ王宮の窓が見えた。
あの中では今頃、自分の追放を祝う酒宴が開かれているのだろう。セシリアはジュリアスの隣で、愛らしく微笑みながら高価なワインを口にしているのだろう。
自分が今まで命をかけて守ってきた国。
自分が笑顔を見たくて、血を吐きながら祈り続けてきた人々。
その全てが、シェリールを「不吉な悪女」と蔑み、石を投げ、泥雨の中へと追い出したのだ。
「私……何のために……頑張ってきたんだろう……」
雨の音に消えていく掠れた声。
目から溢れ出る涙は、冷たい雨水と混ざり合って、拭う術もなく頬を伝っていく。
誰も自分を信じてくれなかった。
誰一人として、シェリールの差し伸ばした手に温もりを返してはくれなかった。
「寒……い……」
歯の根が噛み合わないほどに震える。
息を吸うたびに、凍りつくような冷気が気管を焼き、喉の奥が痛む。
シェリールは血の滲む手で泥を掻きながら、力なく前へ進んだ。
向かう先は、誰も近づこうとしない北の果て。絶望の先にある、黒々とした樹海。
『絶対不可侵の白銀の森』。
人間界から隔絶されたその森の入口には、無数の「入るな」という警告の札や、かつて挑んで死んで行った者たちの残骸が転がっていた。
だが、今のシェリールには、引き返す場所などどこにもない。
後ろを振り返れば、自分を殺そうとする追手や、嘲笑う人々の顔しか存在しないのだから。
ザッ、ザッ……。
泥を踏みしめる音が、雨音に混ざって響く。
一歩進むごとに、体温が奪われていく。視界がかすみ、世界が灰色に染まっていく。
(お母様……私、もう疲れてしまいました……。誰も……私を必要としてくれない……)
森の境界線を踏み越えた瞬間、周囲の空気が劇的に変化した。
雨は次第に氷の粒……激しい吹雪へと姿を変え、刺すような極寒がシェリールの皮膚を切り裂く。
樹齢数百年を越える巨大な白銀の樹々が鬱蒼と立ち並び、日光を完全に遮っている。
足元には深く積もった雪。裸足で雪を踏みしめるたびに、激痛の後に完全な麻痺が襲ってきた。
膝が折れ、シェリールは雪原へと倒れ込んだ。
「あ……」
もう、立ち上がることができない。
指一本すら、動かすことができない。
白い息が、弱々しく口元から漏れ出る。
視界の端で、積もった雪が自分の血で仄暗く染まっていくのが見えた。
(ここで……私は死ぬのね。誰にも知られず、誰にも惜しまれず……一人で……)
悔しさと、悲しさと、虚しさ。
すべての感情が、極寒の冷気によって凍りついていく。
その時だった。
ザ……リ。
雪を踏みしめる重い音が、吹雪の音を突いて聞こえた。
一つではない。二つ、三つ……。
不穏な足音が、倒れ伏すシェリールを囲むように近づいてくる。
薄れゆく意識の中で、シェリールは必死に瞼を持ち上げた。
そこにいたのは——夜の闇よりも深い漆黒の毛並みと、血のように赤く光る眼を持った、巨大な魔獣の群れだった。
肩高だけでも大人の人間を遥かに越える大ききな狼の形をした怪物。《グラド・ウルフ》。
この白銀の森に棲息する、人間を一噛みで噛み砕くと言われる凶暴な古代魔獣だった。
グルルルル……と、地響きのような威嚇の唸り声が届く。
鋭い牙からは、ポタリと涎が垂れ落ち、雪を溶かしている。
魔獣たちは、死に体のシェリールを「絶好のエサ」と判断したように、ゆっくりと距離を詰めてきた。
(ああ……最後は、魔獣に食べられて終わるのね……)
恐ろしいはずだった。
激痛に怯え、叫び出すはずだった。
けれど、今のシェリールの中に湧き上がってきたのは、どこか投げやりな、諦めと安らぎだった。
人間に裏切られ、罵倒され、偽物と蔑まれて生き続けるくらいなら。
この冷たい森の中で、魔獣の餌となって消え去る方が……ずっと、マシかもしれない。
「……いいよ……」
シェリールは、掠れた声で囁いた。
小さく、震える腕を、魔獣の方へと力なく差し出す。
「食べて……いいよ。私には……もう、何もないから……」
死を覚悟し、静かに瞼を閉じる。
冷たい雪の上に頬を寄せ、シェリールは最後の息を吐き出そうとした。
魔獣が荒い息を吐き、喉を鳴らして跳びかかる気配がした。
——その時。
カキンッ……!
澄み渡る、美しい氷の砕けるような音が、吹雪の吹き荒れる森全体に響き渡った。
次の瞬間、襲いかかってくるはずだった魔獣の凶暴な気配が、嘘のようにピタリと消失する。
「……え……?」
シェリールは驚き、重い瞼をうっすらと開けた。
視界に飛び込んできたのは、驚くべき光景だった。
さっきまで自分を取り囲み、牙を剥いていた巨大な魔獣たちが——ただの一瞬にして、頭から足先まで完璧な「紫銀の結晶」へと変わり果てていたのだ。
一切の声をあげる隙すら与えられず、氷漬けにされた魔獣の彫像。
吹雪の中で、その結晶だけが怪しく、神々しく輝いている。
(氷……? 一瞬で……魔獣を……?)
混乱するシェリールの頭上に、さらなる奇跡が降り注ぐ。
ゴオォォォ……!
猛烈に吹き荒れていた吹雪が、まるで意思を持っているかのように、一瞬でピタリと止んだのだ。
雲の切れ間から一筋の月光が差し込み、白銀の雪原を静かに照らし出す。
そして、その光の道を踏みしめて——「それ」は現れた。
ザッ、ザッ、と静かな足音。
雪を割って歩み寄ってきたのは、言葉を失うほどに美しく、恐ろしい存在だった。
透き通るような白銀の髪を夜風になびかせ、見上げるほどに長身な男。
纏っているのは、人間界のどんな貴族の衣装よりも豪華で、不吉なまでの威厳を放つ黒と銀の外套。
そして何より——その瞳。
夜の闇を溶かし込んだような深い紫の瞳が、絶対的な冷徹さと、人知を超えた神威を宿してシェリールを見下ろしている。
男の背後には、うっすらと、巨大な「氷の龍」の幻影が揺らめいていた。
(美しい……龍……の……神様……?)
シェリールの霞む視界の中で、その男はゆっくりと膝をついた。
極寒の冷気を纏っているはずの男の手が、そっとシェリールの冷え切った頬に触れる。
「……人間か。このような死の森に、何故一人の娘が倒れている」
その声は、低い響きを持ってシェリールの凍えた胸に直接届いた。
氷のように冷たいはずの指先。なのに、どうしてだろう。シェリールには、その手がどんな暖炉よりも温かく感じられたのだった。
「……私は……いらない……子……」
掠れた声でそれだけを呟くと、シェリールの緊張の糸がぷつりと切れた。
限界を迎えた体はそのまま虚無へと沈み込み、彼女の意識は深い、深い闇の中へと落ちていったのだった。




