第十六話〜風冠の門 ヴェロニカ〜
ガーウィン・フォン・アルデンの訃報が王都に届いてから、十九日目の朝。
王都ファルゼンドゥルクの朝は、鐘の音から始まる。最初に鳴るのは、大広場に面した大聖堂の鐘楼だ。低く、腹の底に沈むような一打。その余韻が石畳に染み込むより先に、五つの城門の鐘楼がそれに応える。
北の裏門 鉄詠の門
鉄の家系 アイゼンベルグ公爵家
北西の裏門 氷晶の門
氷の家系 ヴァルヴィラ侯爵家
南西の裏門 風冠の門
風の家系 グリューネ伯爵家
南東の裏門 鷹淵の門
鷹の家系 ローゼンハイン子爵
北東の裏門 極光の門
光の家系 ドレッセル男爵
少しずつ高さの違う五つの音が、少しずつ遅れて重なり、凍てついた冬の空の上で、一つの和音になる。
王都は巨大な円の形をしている。
外郭の城壁は、大人を十人肩に乗せても届かない高さで街を囲み、さらにドーム型の見えない壁で囲まれている。雨風、空気等は通し、生命だけを外にも内にも通さない。南に一つだけ開いた正門から人々は出入りしており、そこから迷い込んだ鳥は、その後の外の世界を知らずに一生を終える。
王宮へ向かって白い石の大通りがまっすぐに伸びている。名をファルゼン大通りという。その途中、街のちょうど真ん中に、ファルディア大広場がある。
広場の北には、王宮へ続く二つの門。
そして広場から、五本の通りが放射状に延びている。その先にそれぞれ城門があり、門を守るように、五つの屋敷が建っている。
五爵家。
公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵。爵位の数だけ門があり、門の数だけ家がある。ファルゼンドゥルクに貴族は数えきれないほどいるが、門を預かるのは、各爵位の筆頭であるこの五家だけだ。
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グリューネ伯爵家の屋敷は、緑の屋根をしている。
銅葺きの屋根が長い年月で青緑に錆び、冬の朝日を受けて鈍く光っている。棟の上には、鷺を象った風見が立っていた。風の家の印である。
その屋敷の三階の露台に、一人の女が立っていた。
背が高く、朝日に照らされ輝く黄金の髪を細かく編み込み、冠のように頭に巻いている。肌は白く、薄い唇には珊瑚色の紅。瞳は、真紅の色をしていた。
淡い若草色の絹を身に纏い、この家のシンボルカラーである、が。彼女は緑が好きではない。だが、自分の色白の肌に最もよく映える色が緑であることも知っていた。
絹の裾が、ゆるやかにはためいている。髪に挿した銀の簪の飾りが、ちり、ちり、と小さく鳴る。手にした杯の湯気がまっすぐに上らず、女から逃げるように斜めに流れていく。
《風刃》
十一年前、ヴェルシア王国の王都大聖堂で、彼女の名と共に読み上げられた力だ。彼女の周りは常に微かな風が渦巻いている。
ヴェロニカ・ヴィア・グリューネ。
齢:二六 旧姓:ダグラス 好きな色:赤
ヴェロニカは、露台の石の手すりに指を置いた。夜のあいだに降りた霜が、まだ溶けきっていない。指先の熱で、白い結晶がじわりと透明に変わっていく。
眼下に、王都が広がっていた。
灰色の石の屋根が広がり、煙突から立ち上る、何千本もの細い煙。石炭の煤の匂いが凪いだ空気に溜まって、街全体を薄く霞ませている。
大聖堂。公爵門。侯爵門。そして__伯爵門の鐘が、半拍遅れて鳴る。
ヴェロニカは、その遅れが嫌いだった。
三番目。この家は、三番目なのだ。
「奥様。」
背後で、侍女が膝を折った。
「北の毛皮商から、お荷物が届いております。奥様に直接お渡しするようにと。」
ヴェロニカは振り返らずに、片手を差し出した。侍女が油紙に包まれた包みを、その掌に載せる。
重さで分かった。
紙の束ではない、革だ。厚い革で綴じられた一冊の帳面。包みからは、焦げた匂いがする。
「下がりなさい。」
侍女の足音が遠ざかるのを待って、ヴェロニカは露台の小卓の上で油紙を解いた。
黒い革表紙の帳面だった。角は擦り切れ、背は手垢で黒ずんでいる。
表紙の右下が、焼けていた。
焦げて縮れた革の縁を、ヴェロニカは指でなぞった。ざらりとした感触が、指の腹に残る。
北には、戦死した遺体が戻らないときの弔い方がある。遺品を焼くのだ。これは、その時焼くべき物であり、不当に持ち去った物だ。
__北に置いておいた目は、よく働いたわね。
ヴェロニカは、口の端だけで笑った。
帳面を開く。一頁目から、角ばった重い字が並んでいた。ペンを紙に押しつけるように書く男だったのだろう。裏側まで、文字の凹凸が浮き出ている。指で撫でれば、裏からでも読めそうなほどだった。
書いてある内容は、名前の列だった。
兵の名。
その父の力。
母の力。
生まれた子の数と、それぞれの子の力。
兆しが出た年齢。
何人かの子の欄には、名前の横に、小さな横棒が一本だけ引かれていた。
この横棒は鑑定の儀で書記官が、とある場合に付ける印だ。そう、この印は《零》の意味を持つ。
その横棒の下に、もう一本、細い線が引かれている子もいた。
おそらく、死んだという意味だろう。
頁をめくった。名前は延々と続いていた。百、二百、三百。北の辺境伯は、自分の兵の家系を一つ一つ、自分の手で書き写していたのだ。
そして、十数頁目でヴェロニカの指が止まった。他とは違う、短い記述だった。
__長子、三つの春を数う。兆しなし。
__同じ年の夏、病にて逝く。
「病」の一字だけが、他の字より小さかった。
名門の子が、三つの春に兆しを見せず、同じ年に病で死ぬ。
王都では、珍しい話ではない。戦が始まると同時に、神賢格差社会が始まった。殺傷能力が高い、もしくは、味方に恩恵のある回復や身体強化の効果がある神賢が高額で買い取られる。
私は、一歳で身体に風を纏い、二歳で着ている服を切り刻んだそうだ。私を抱いていた乳母は皮膚を切り刻まれ、血塗れになったという。
それから、私は父と母から惜しみなく愛情を注がれた。欲しいものはなんでも手に入り、私が気に食わない使用人は全て辞めさせた。
私はダグラス家で、誰よりも価値のある人間だった。
ミレーナが《癒し手》と判明した時は、心底安心した。《癒し手》は、需要こそあるものの《風刃》程の値はつかない。
私が、変わらず一番だ。
しかし、安心したのも束の間、三女が生まれた。エレインと名付けられたコイツが、私より優れた神賢なら......そう考えると夜も眠れなくなった。
私の心配を他所に、エレインは幾つになっても兆しは現れなかった。
あぁ、コイツは《零》だ。そうに違いない。そうであって欲しい。そうじゃないと駄目だ。そうであるべきだ。
だって、そうだろう。世界は私のためにあり、私が一番なのだから。
十歳になったエレインは見限られ、使用人と同じ仕事をする様に命じられた。
私は、無理難題を押し付け、精神的に追い詰めた。ありもしない物を買い物に行かせたり、掃除した窓枠をわざと汚し指摘したり、バケツをひっくり返したり、足を引っ掛け転ばせたり。
それでも、エレインは折れなかった。
次に、父に「なぜ使用人風情が私たち貴族と同じ食事をとっているのか」と伝え、食事を質素なものにさせるように抗議した。食事は、水とパン一つに変更されたが、まだ生ぬるい。水は、掃除に使用した汚れた水、その水に漬けたヒタヒタのパン。虫の死骸をパンの中に仕込んだりもした。もちろん、料理長は最初は嫌がった。解雇をチラつかせると、渋々従った。
私の努力の甲斐あって、エレインは日に日に痩せていった。エレインが十一歳になる頃には、頬は痩け、顔色は最悪だった。
そして、私は十五歳になり嫁いだ。ダグラス家を出る日の夜中、猫の死骸をエレインの布団に忍ばせた。朝、起きたエレインの悲鳴を聴いた時には、歓喜に震え、最高の舞台を鑑賞した後の様な余韻に浸った。
ダグラス家に居る忠実な人間を用意し、手紙でやり取りを行い、近況報告、他の使用人にバレないよう嫌がらせを続けさせた。
私が猫の死骸を入れ、悲鳴を聴いて出立したその直後、エレインはまるで別人になったかの様な立ち振る舞いになったらしい。命じた嫌がらせを受けても全く動じず、仕事の効率が目を見張るほどに変わり、喋り方、仕草が急に大人びたそうだ。
ダグラス家は、私の《風刃》の値を手にしてもなお、なぜか没落の危機に陥り、私が居なくなった後から次々に使用人を解雇し続け、今は刺客を入れ八名しか居ないそうだ。刺客が残ったのは幸いだった。
その、七名はエレインと親しくし、料理もまともなのを食べているそうだ。翌年には、新しく双子の兄妹が雇われ、その兄妹もまた、エレインと仲が良いらしい。非常に最悪な状況だが、嫁いだ私には、これ以上遠隔でエレインを陥れる事は難しい。
エレインが嫁ぐ事になり、没落の危機を脱したと聞いた時は、怒りに震えたものだ。神に名を与えられず、世界から祝福されなかった塵に対して、【私より値がついた】という事実。
私の真紅の瞳は、嫉妬と憎悪と憤怒に燃えていた。




