十話 〜生きろ死神〜
目が覚めると、見慣れない天井だった。
アルデン城の天井は石で、灰色だった。
ダグラスの屋敷は梁が剥き出しだった。
この、純白の天井を私は知らない。
しばらく見ていた。
しばらく見ていて、王都で会った騎士を思い出す。
(あの方も、同じくらい白い軍服を着ていたわね。)
それから、自分が寝台の上にいることに気づく。その次に、自分が生きていることに気づいた。
(そっか...私、死ねなかったのね......。)
身体が鉛のように重い。
指を動かしてみたが、指はかろうじて動いた。
腕を上げてみる。少しだけ上げることが出来たが、途中で疲れてすぐに落ちた。
布団がかかっている。
羽毛が使用されているのだろうか。
かなり軽いが、しっかり暖かかった。
その、軽いはずの布団すら、身体から剥ぐ時は少し重く感じた。
布団を持ち上げて、自分の身体を見てみる。
私のものではない、白の寝間着を着ていた。
ふと、腕を見た。傷がない。
___おかしい。
レオンに身体中を引っ掻かれたはずだ。
かなりの強さで引っ掻かれた。
爪の痕が残っていたはずだ。
顔に触れた。痛みも、傷の凹凸も何もなく、肌がつるりとしていた。
ノックの音がして、扉が開いた。
五十代だろうか、年配の女性が入ってくる。
髪をきつく結って、黒のロングスカートに白のエプロンを着用している。メイド服だ。
私を見て、足を止めた。
「……どうかされましたか?」
私は、何も言わなかった。
言おうとしたが、喉が動かなかった。
第一声が、「お目覚めですか?」や、「初めまして」では無かったのは、私がそれほどひどい顔をしていたからだろう。
メイドは、寝台の横まで来て、水差しから杯に水を注いだ。
「お飲みになれますか?」
「......ヒュー......ヒュー......」
「大丈夫ですか?」
レオンが付けた、傷が無い。レオンと、触れ合った証である、傷が、レオンから、貰った傷が、レオンが、そこに居た証の、傷が、私が、レオンを、感じることが出来る、傷が、レオンと、私を、繋ぐ傷が......無い。
心臓が警報のように激しく脈打ち始める。冷たい汗が背中を伝う。空気が足りないような錯覚に襲われ、私は小さく息を吸い込んだ。それが引き金だった。
「は……、あ、っ……は、っ」
一度吸うと、今度は吐き出し方が分からなくなる。胸が激しく上下し、呼吸のペースが異常な速度で跳ね上がっていく。
「……!? 大丈夫ですよ。息を、落ち着かせてください。大丈夫です。」
ただ事ではない気配を察したメイドが、杯を置いて、胸と背中に手を添える。
「ゆっくり息を吐いてください。大丈夫です。私が居ます。」
しかし、彼女の耳にはもう届かない。
「はっ、ひ、ぁ……っ、は、あ、っ!」
浅く、速い呼吸が部屋に響く。吸っても吸っても酸素が足りない恐怖から、さらに激しく空気を貪ってしまう。指先が急速に冷たくなり、まるで氷水を流し込まれたようにジンと痺れ始めた。
「あ、う……っ」
指が硬直して内側に曲がり、自分の意志では動かせなくなる。唇や顔の周りまで不気味に強張り、このまま死んでしまうのではないかという圧倒的な恐怖が冷静さを奪う。
あれ?おかしい。死が怖い?私は死にたいんじゃなかったの?
ベッドの端に崩れ落ちようとする私の身体を、メイドが強く抱きとめた。
「私を見てください。大丈夫です、死にません。私に合わせて、ゆっくり息を吐きましょう。」
優しく、落ち着く声だった。
メイドは私の背中に手を当て、ゆっくりと、しかし確実に、安心させるようなリズムでトントンと叩く。そして、自らの胸の動きを見せるように、大きな呼吸をしてみせた。
「吸わなくていいです。まずは吐いて。……ふぅー、っと、長く吐き出してください。そうです、上手ですよ。」
「は、っ……、ふ、ぅーー……っ」
メイドの誘導に合わせ、私は必死に息を吐き出すことに集中した。
何度か激しくむせるように息が乱れたが、数分が経つ頃には、荒れ狂っていた呼吸の波が少しずつ引いていった。
「……は、ぁ……、ぅ……」
まだ手足には不快な痺れが残っているものの、硬直は解け、視界の霞も晴れていく。
私はメイド服を掴んだまま、疲れ果てたようにその肩に額を預けた。
「よく頑張られましたね。もう大丈夫ですよ。」
耳元で囁かれるメイドの静かな声を聞きながら、彼女は張り詰めていた緊張から解放され、深い安堵の息を漏らした。
杯の水を口元に運んでくれる。
喉に通すが、痛みが走り顔を顰める。
三口飲んで咳き込む私を、メイドが背中を摩ってくれる。
「ゆっくりで、結構でございます。」
その手つきに覚えがあった。
シノの手つきだ。グレイスの手つきだ。
____グレイス。
その名前が頭に浮かんだ瞬間、私はメイドの手を振り払った。水が布団に広がる。
メイドは何も言わずに、振り払った手を握った。
____________
メイドは、「何かあれば、そちらのベルを鳴らして下さい。」と言い仕事に戻った。
私は天井を見ていた。
何も考えなかった。
考えないようにしているのに、昨日の出来事がフラッシュバックする。
呼吸が乱れ、落ち着き、また乱れを繰り返した。
日が傾いて、暗くなった。
窓の外を眺めていると、ノックの音が聞こえた。返事をしようとするが、声が出ない。
「大丈夫かい?入るよ。」
男性の声だ。
扉が開き、声の主が姿を現す。
その男性は、白銀の髪に青い瞳だった。
___ああ。
私は思い出した。
検問を抜けた大通りで、ぶつかった人だ。
支えてくれて、笑って、屋敷の場所が書いてある紙をくれた。
だいぶ、昔のことのように感じる。
男性は、寝台から三歩離れたところで止まった。
「起きたかい?」
私は答えなかった。
「もう、三日も目を覚まさなかったから心配したよ。」
私は天井を見ていた。
三日も、寝続けていた事に少し驚いた。
「ベルタから水は飲んだと聞いたよ。食事はまだ難しい?」
答えられなかった。
「旦那様。三日間寝続けて居たのですよ。固形物はまだ食べさせてはいけません。」
「あ、そうなんだ......。ごめん、世話は任せるよ。」
男性は、私に向き直り話を続けた。
「治癒をかけたんだ。女性の肌に、数え切れないほどの傷があったからね。傷は深くはなかったけど、足に凍傷がみられたよ。」
「なんて......。」
なんて事を。その言葉が口から出る前に塞いだ。この人は、善意でやってくれた。この人には関係の無いことだ。傷を大切にしている人間が居るなんて、思いもしないだろう。
「差し支えなければ」と彼は言った。
「お名前を、お伺いしてもよろしいですか。」
「旦那様、女性にお名前を伺う際は、まず自分からですよ。」
「あれ!?名乗ってなかった!?」
男性は、咳払いをして私に向き直った。
「俺はカイル。そして、こちらがベルタだ。」
「家政婦長のベルタと申します。お見知りおきを。」
「さぁ、次は君の番だよ。」
私は、少し考えた。
何と名乗るべきなんだろう。
アルデンは追放された。
ダグラスは名乗らない方がいい気がする。
同時に、私は貴族ではなくなった。
ヴィアを名乗る資格がない。
この時、ボドガスの言葉が脳裏をよぎる。
『ただの、エレイン嬢。』
あれは、私が何者でもなくなった事を言っていたんだ。
寝ている身体を起こそうとするが、身体がいう事を聞いてくれない。
「このままで......ご挨拶させていただく......無礼をお許しください。……私は、エレインと申します。」
ひどく掠れた声だった。
自分の声とは思えないほどに。
カイルは、私の名前を聞いて安心したように、目を潤ませて頷いた。
「エレインだね。よろしく。」
カイルは、それだけ言った。
聞き返さなかった。
家名は?とも、どちらの?とも言わなかった。
「じゃあ、エレイン。ゆっくり休んで。」
カイルは、それだけ言って出ていこうとしたが、扉のところで止まった。
「ああ、そうだ。」
彼は懐から紙を出した。
濡れて、乾いて、皺だらけになった紙だった。
インクが滲んで、ほとんど読めない。
懐に入れて、すっかり忘れていた。
あの後、私はレオンを取り返しに行って、失敗して、二人を殺されて雨の中を歩いた。
その間ずっと、この紙は懐にあった。
私は手を伸ばして、その紙を握る。
握った手を、胸の上に置いた。
もっと、作戦を練ればよかった。
もっと、時間を掛ければよかった。
レオンに一刻も早く会いたい。
レオンを一刻も早く取り返したい。
この私の自己都合が、二人を殺した。
心の中で、見つかっても殺されはしないだろうと思っていた。
私の前世では、殺しは身近ではなかった。
明日が、当たり前のようにやってくる国だった。
この世界は違うのに。
死は身近にあったのに。
戦争、戦死した夫。
凶器を持たずとも、すぐに人を殺せる力を持つ人々がごまんといるこの世界で、
私は、平和ボケしていた。
私の目から涙が流れた。
「エレイン?」
カイルが顔を覗き込む。
私は今、どんな顔をしているのだろう。
カイルは、しばらく私の顔を見たあと、私の手を取った。
カイルが膝をつき、目線を低くする。
それでも、ベッドに寝ている私より高い。
「おいで。」
どういう意味だろう。ここに居てもいいよという意味だろうか。それとも、こちらへおいでという意味だろうか。
今の私が求めているものは___
重い身体を無理やり動かし、私はカイルの胸に倒れるように飛び込み、大声で泣いた。
大の大人がみっともないだろう。
しかし、今の私にこれを止める事は不可能だ。
カイルは、「おいで。」と言ってくれた。
「なにかあったの?」では無い。
私なら、レオンが辛そうにしていたら「なにかあったの?」と聞くだろう。
しかし、カイルはおいでと告げた。
なにかあったのと聞けば、その人は説明の為、あった出来事を思い出し反芻しなければならない。
あれが辛かった。これが苦しかった。
これを他の人に聞いてもらい共感してほしい。
こう思うのは、ある程度自分の中で整理した後なのだ。
カイルは優しく抱きしめる。
私の心は、優しく解きほぐされ、温かくなっていくのを感じた。
そして、私は気づいた。
ガーウィンが亡くなってから、泣いてないのだ。悲しかった。息子も、ヴァルヴィラ侯爵家に連れて行かれた。でも、泣かなかった。
私は無意識のうちに、自分の気持ちを抑え込んでいたのかもしれない。
泣いている場合じゃない、泣いてしまったら、どこか遠くで死んだガーウィンも、レオンを奪われた事も、信じていた人に裏切られ、親友が二人、目の前で死んでしまった事も、認めた事になる気がする。
そんな事を思っていたのかもしれない。
ガーウィンの死が悲しくなかった訳じゃない。
ガーウィンの事は、嫌いではなかった。
しかし、好きかと言われればそうでもなかったかもしれない。
言われるがまま、ガーウィンと結ばれてただけであり、義務みたいなものだった。
怖いという印象もあったが、性格は真面目で寡黙な人だったが故の感想で、優しい一面もあった。ほとんど戦場に行き、側に居なかったというのもある。
ふと、前世の父を思い出す。
ガーウィンのように、仕事が忙しくあまり家に居なかった。家に帰ってきても、特に喋った記憶はない。母も、父と喋ってた様子は見られなかった。「おかえり」くらいは交わしていた覚えはあるが......。
家族の為に......と一生懸命働いて、お金を稼いでも、肝心の家族と関わらなかったら、父に関心は持てないんだと、私はその時思った。
____________
泣いたのは、たぶん三十分以上だった。
出会ってすぐの男性の胸で、声を出して泣いた。
ベルタは、何も言わずに出て行き、もう一度入ってきて、新しい水を置いて出ていった。
私は泣き続けた。
アレルの横顔を思い出した。エレアの横顔を思い出した。
二人は、笑っていた。
生きろ、と言った。
___生きろ、じゃないわよ。
あなた達が生きていないと意味ないじゃない。
馬鹿。
あんたたち、二人とも馬鹿よ。
アルデンには、私一人で行けばよかった。
ダグラスに残っていれば、エレアもアレルも所帯を持って、誰かの家で働いて、あのまま何十年も生きたはずだった。
私が、二人を殺した。
レオンを助けに屋敷に乗り込む話をしたのも、グレイスを信じたのも、全部私だ。
私に関わった三人が死んでいる。
私は死神だ。
____________
それから、何日経ったのだろう。
私はよく覚えていない。
食事も自分からは食べなかった。
食べる気もなかった。
生きようと思わないからだ。
でも、自害しようとも思わない。
するなら、ここじゃない。
誰にも迷惑をかけない所で、静かに。
ベルタが匙を運んできて、口元に当てて、私が飲まないと下げて、そしてまた持ってきた。
三度に一度くらい飲んだ。
その程度だった。
ある日、ベルタが言った。
「エレインさん。旦那様が、召し上がらないなら無理強いするなと仰せです。」
「……そうですか。」
「ただ、水は飲んでいただきます。それはわたくしの一存です。」
私は、彼女を見た。
「本当は、一口でも多く召し上がって欲しいです。日に日に痩せ細っていくエレインさんを見るのは心を痛めます。」
「......すみません。」
「謝らないでください。」
「......。」
カイルは、毎日は来なかった。
二日か三日に一度、顔を出したくらいだろうか。
来ても長くいなかった。
寝台から三歩のところに立って、二言三言話して帰る。
聞かなかった。
何があったのか。どこから来たのか。
なぜ雨の中にいたのか。
一度も聞かなかった。
___聞いてくれた方が楽だったかもしれない。
聞かれれば、答えるか答えないかを選べる。
聞かれないと、私は自分で言い出すしかない。
そして、言い出せない。
私は、わがままなのだ。
もうすぐ、プロローグが終わります。




