第12話 迎えに
朝の空気は、昨日よりも重かった。
珠緒は廊下を歩きながら、その違いをはっきりと感じていた。屋敷の中を行き交う人の数が増えている。使用人たちの足取りは忙しく、声を潜めながらもどこか張り詰めている。その気配が重なり合い、言葉にならない焦りや緊張が、じわじわと珠緒の内側へ流れ込んできた。
胸の奥に沈む重さが、昨日よりも深い。
呼吸を整えても、すぐに同じ重さが満ちてきて、慣れているはずの感覚なのに、どこか遠くなっていたそれが今はやけに鮮明だった。
女中に呼び止められ、珠緒は足を止める。
「珠緒様。お客様がお見えです」
珠緒はわずかに目を伏せた。
「応接間にてお待ちです」
名前も告げられない。そのことに、珠緒は特に疑問を抱かなかった。この家では、必要な情報だけが与えられる。
「分かりました」
歩き出す。
廊下を進むごとに空気が濃くなり、人の気配が集まる場所へ向かっているのだと体が先に理解していた。肩の奥に重さが溜まり、足取りがわずかに鈍る。それでも歩みは止めない。
障子の前で足を止める。内側に、人の気配があった。
珠緒は一度だけ呼吸を整え、それから襖に手をかけた。
開けると、室内の空気が流れ込んでくる。その瞬間、胸の奥にあった重さが、わずかにほどけた。
視線を上げると、そこには、燈真がいた。
言葉より先に、体が反応する。先ほどまで胸の奥に沈んでいた重さが、ほんの少しだけ薄れていく。完全に消えるわけではない。それでも確かに、先ほどまでとは違っていた。
触れているわけではないのに、その距離のままで、内側に溜まっていたものがわずかにほどけていく。珠緒はその変化をはっきりと感じながら、言葉を失っていた。
「お久しぶりです、蛟様」
珠緒のすぐ後から部屋に入った、父の声が場を整える。外から見れば、何の問題もない応対に見えるだろう。燈真はそれに短く頷いた。
「急な訪問、失礼いたします」
落ち着いた声だった。感情はほとんど表に出ていない。ただ事実としてここにいる、それだけの静けさがあった。
珠緒はその声を聞きながら、ゆっくりと部屋へ入る。
父から少し離れた位置に座る。燈真とは正面に近い位置になり、視線を上げればすぐに目が合う距離だった。それでも珠緒はすぐには顔を上げず、胸の奥で揺れる感覚を確かめる。
重さはある。
けれどその奥に、別のものが確かに存在していた。
軽い。
その二つが同時にあることに、珠緒はわずかに戸惑っていた。
「珠緒は、しばらくこちらで静養させようかと思っております」
父が言う。
穏やかな声だった。断定を避けた柔らかい言い回しでありながら、そこに選択の余地がないことは明らかだった。
燈真はそれを聞いても、表情を変えなかった。
「承知しております」
短く答え、言葉を重ねない。
沈黙が落ちる。
その沈黙は重いはずなのに、珠緒にはその中に一つだけ異質なものがあるのが分かった。燈真の気配だけが、重さを持たない。それどころか、周囲の重さを静かに押し返している。
珠緒はゆっくりと顔を上げる。
視線が合う。
燈真はただ珠緒を見ていた。責めるでもなく、問いかけるでもなく、感情を押しつけるでもなく、ただそこにいる。
その視線を受けた瞬間、胸の奥の重さがもう一度揺れる。
「本日は、その件で参りました」
燈真が言う。
父の視線がわずかに動く。
「迎えに」
その言葉は静かだった。声を強めるわけでもなく、感情を乗せるわけでもない。ただ事実を述べるように、まっすぐに置かれる。
父は少しだけ間を置き、それから、柔らかく笑う。
「ありがたいお話ですが、先ほど申し上げた通り――」
「連れて帰るつもりはありません」
燈真が言葉を重ねる。
父の言葉を遮る形になったが、その声音は変わらない。
「本人の意思に任せます」
その一言で、部屋の空気が変わった。
珠緒は息を止める。
父の表情がわずかに動き、番頭も視線を落としたまま空気を測るように静止する。けれど燈真は珠緒を見たまま、その視線を一切揺らさなかった。
押しつけるものはない。選べとも言わない。ただ、委ねている。
珠緒の胸の奥で、何かが揺れた。
重さは消えていない。屋敷の中の人々の疲れも、苛立ちも、今も流れ込んでいる。
それでも、その奥にもう一つある。
何も流れ込んでこなかった時間。隣に立っても何も受け取らずにいられた場所。呼吸が自然に深くなる、あの静けさ。
珠緒は膝の上の手を見ると、指先がわずかに震えている。
燈真が静かに口を開いた。
「来るか」
言葉は短いのに、逃げ場のないほどまっすぐに珠緒へ向けられている。
珠緒は顔を上げて燈真の目を見ると、その目は変わらず静かで、けれど確かに待っていた。
珠緒は、すぐには答えられなかった。
胸の奥で、重さと軽さがぶつかっている。どちらも本物で、どちらも自分の中にある。だからこそ、簡単には動けない。
珠緒はゆっくりと息を吸う。
まだ、言葉にはならない。
それでも確かに、自分で選ぶための何かが、胸の奥で形を取り始めていた。




