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呪いを分かつは、ただひとり君のみ  作者: 廻野 久彩


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第11話 戻る場所

車が白瀬家の門をくぐったとき、珠緒は膝の上でそっと指を重ねた。


見慣れているはずの門だった。黒塗りの格子、左右に控える石灯籠、無駄に広く取られた車寄せ。そのどれもが、幼い頃から変わらずそこにある。


それなのに、門をくぐった瞬間に胸の奥へ流れ込んできたものは、懐かしさではなかった。何人もの気配が重なり、疲れや気詰まりや言葉にされない苛立ちが、薄い布を何枚も押し当てられるみたいに一度に珠緒の内側へ触れてくる。


息を吸うと、胸の奥が少しだけ遅れて重くなる。


車輪が石を踏む音が止まり、扉の外で使用人の声がした。


珠緒は顔を上げる。


深く頭を下げる使用人たちの姿は昔と変わらない。整った礼、乱れのない衣、丁寧すぎるほど丁寧な動き。その一つ一つが、この家の空気をよく表していた。見栄えだけは美しく、そこにいる人間の温度だけが綺麗に削がれている。


「珠緒様、お帰りなさいませ」


差し出された手を見て、珠緒は一瞬だけ目を伏せた。白瀬家の使用人は、必要なときには触れる。触れれば自分たちが楽になると知っているからだ。けれど今は、珠緒のほうからその手を取る気になれなかった。


「ありがとうございます」


そう言って、自分で車を降りる。地面に足をつけた瞬間、屋敷の内側からまた別の重さが流れ込んできた。人が多い。客人がいるのかもしれないし、家中の者がどこか落ち着かないのかもしれない。珠緒は何も聞かないまま、ただ静かに息を整えた。


玄関には母が立っていた。


相変わらず隙のない装いで、簪の揺れ一つにも乱れがない。珠緒を見る目も、柔らかい笑みも、外から見れば慈しみに見えるのだろう。けれど珠緒は知っている。その笑みの裏で、母が何を確かめているのかを。


「お疲れだったでしょう、珠緒。顔色は良いわね」


出迎えの言葉としては優しいものだった。けれど珠緒の耳には、そこだけ妙に輪郭を持って届く。顔色。そこを最初に見るのだと、やはりそうなのだと、胸のどこかが静かに冷えた。


「ありがとうございます」


珠緒が頭を下げると、母は満足したようにわずかに頷いた。


「まずは休みなさい。長旅のあとですもの。けれど今夜はお客様があるから、あとで顔を見せてもらうかもしれないわ」


あとで。顔を見せる。どちらも曖昧な言い方だったが、それで十分だった。珠緒が何を求められているのか、改めて説明されるまでもない。


女中に案内され、珠緒は自分の部屋へ向かった。


廊下の飾り棚も、磨き上げられた床も、壁にかかった絵も何も変わっていない。変わっていないはずなのに、歩くほど足取りがわずかに鈍くなる。白瀬家にいた頃は、この重さを当たり前のものとして受け入れていた。人とすれ違えば流れ込んでくる疲れ、屋敷全体に沈んでいる息苦しさ、誰も口にしない焦りや苛立ち。そうしたものの中で呼吸をするしかなかったから、苦しいと名づけることさえしなかった。


けれど今は違う。何も流れ込んでこない時間を、珠緒は知ってしまっている。


部屋へ入ると、そこも昔のままだった。置かれた文机、揃えられた衣装箪笥、季節に合わせて掛け替えられた軸。珠緒が嫁ぐ前と変わらない。まるでこの数日の不在など最初から存在しなかったかのように、何もかもが整っている。


珠緒は部屋の中央で立ち止まった。


以前なら、ここは戻る場所だった。少なくともそう思い込んでいた。与えられた部屋であり、与えられた役目を待つ場所であり、自分が収まるべき箱だった。


今は違う。座ってしまえば、また同じ形へ戻されてしまう気がした。


女中が茶を置いて去ったあと、珠緒はようやく小さく息を吐いた。


そのとき、襖の向こうで足音が止まる。軽く叩かれて、番頭の声がした。


「珠緒様、少しよろしいでしょうか」


断る理由はない。珠緒が返事をすると、番頭は室内へ入ってきて端正に一礼した。昨日、蛟家へ迎えに来たあの男だった。目元には相変わらず愛想のよい穏やかさが浮かんでいるが、その視線が珠緒の顔色や姿勢を見ていることに変わりはない。


「急なお迎えとなり、驚かれたことでしょう」


番頭はそう言ってから、声の調子を少しだけ柔らかくした。


「ご存じの通り、近く大切なお席がございます。珠緒様には、しばらくこちらで静養していただいた上で、そちらへお出ましいただきたいのです」


静養。


その言葉に、珠緒は心の中でわずかに目を細めた。人を休ませるための言葉ではない。この家でその言葉が使われるときは、整えるためだ。客の前へ出しても見劣りしないように、使う前に磨きをかける。そのための静養だった。


「分かりました」


珠緒がそう答えると、番頭は満足したように頷いた。


「旦那様も、お気にかけておいでです。珠緒様がお元気であれば、なによりの喜びだと」


その旦那様が、珠緒の何を喜ぶのかも分かっている。元気であれば座らせられる。顔色が良ければ客の前へ出せる。それだけのことだ。


番頭が去ってしばらくしたあと、珠緒は呼ばれて別室へ向かった。


案内された先には、取引先らしい年配の男が座っていた。顔色が悪く、目の下には濃い疲れが沈んでいる。父は愛想よく笑いながら珠緒を紹介し、そのまま自然な顔で隣へ座らせた。


「珠緒、お茶を」


命じられた通りに茶を点てて差し出す。その動きだけで、相手の内側に沈んでいた重さがじわりと流れ込んでくる。肩の強張り、胃の鈍い不快感、言葉にできない焦り。珠緒は息を乱さないようにしながら、それらを胸の奥へ受け入れた。


男の顔色が、少しだけ和らぐ。


父はそれを見て、何事もなかったかのように話を続けた。商いの話、社交の話、今後の付き合い。珠緒はその脇で静かに座ったまま、少しずつ体が重くなっていくのを感じていた。


以前なら、これが自分の役目だった。


役に立てているのなら、それでいいと思っていた。楽になった相手の顔を見るたびに、自分がここにいてよい理由を与えられた気がした。だから苦しくても、重くても、慣れれば済むことだと受け流していた。


けれど今は、その重さが前よりずっと鮮明だった。


以前より呪いが強くなったわけではない。珠緒にはそれが分かる。ただ、比べるものができてしまったのだ。何も流れ込んでこない時間。胸の奥が静かで、呼吸が深くなる場所。自分が誰の痛みも受け取らなくていい、たったひとつの時間。


それを知ってしまったあとでは、ここで感じるすべてが鋭い。


部屋へ戻る頃には、肩の奥まで鈍く重かった。女中が気を利かせて湯を運んでくれたが、珠緒はそれに礼を言うだけで、しばらく手をつけることができなかった。


夜が深まり、屋敷の喧噪がようやく遠のく。


珠緒は一人になって、そっと手を見た。


何も握っていない。細く白い指先が、灯りの下で静かに影を落としている。そこに触れていた別の手の温もりを思い出そうとして、珠緒は少しだけ目を伏せた。


縁側の静けさを思い出す。


風に揺れる松の枝。橋の向こうの藤棚。隣に人がいるのに、何も流れ込んでこなかった時間。胸の奥が空になるのではなく、初めて自然な形へ戻っていくような、あの穏やかさ。


戻りたい、と思った。


その考えが浮かんだ瞬間、珠緒はわずかに息を止めた。


いけない、とすぐに思う。自分は役に立つためにここにいる。そうして生きてきた。楽な場所を選んでよい立場ではない。そう思い込んできたはずなのに、胸の奥ではもう別のものが形を持ち始めていた。


珠緒はそっと指を握る。


温もりはない。それでも、あのとき確かに触れていた記憶だけは残っている。


待つだけでは足りないのかもしれない。


その考えはまだ言葉になりきらず、ただ小さな灯のように胸の奥へ沈んでいった。

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