第10話 空の部屋
屋敷へ戻ったとき、燈真はすぐに違和感に気づいた。
夕暮れの光が門の向こうから差し込み、石畳の道を淡く照らしている。見慣れた庭も、整えられた松の枝も、何も変わっていない。それでも玄関へ向かう足取りの中で、屋敷の空気だけがわずかに硬いことを感じ取った。
人の気配はある。
廊下の奥で足音が動き、誰かが戸を開ける音も聞こえる。だが、すれ違う使用人たちは皆、普段より早く道を空けた。頭を下げる動きもどこかぎこちなく、視線を上げる者がいない。
燈真は足を止める。
その沈黙に気づいたのか、近くにいた女中が慌てて視線を伏せた。何かを言いかけて、結局口を閉ざす。
燈真は何も言わず、玄関へ上がる。
すると家令がすぐに姿を現した。背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げる。その所作はいつも通りだったが、顔を上げたときの視線がわずかに揺れていた。
燈真はそれを見て、短く問う。
「……どうした」
家令は一瞬だけ言葉を探すように黙った。それから静かに口を開く。
「旦那様。昼前に、白瀬家より使いが参りまして」
燈真は家令を見て、目線で続きを促す。
「奥様を、お迎えにと」
廊下の奥で、誰かが小さく息を呑む音がした。
燈真はしばらく何も言わなかった。
怒ったわけでも、驚いたわけでもない。ただ家令の言葉をそのまま受け止めるように立っている。けれどその沈黙の中で、玄関の空気は少しずつ重くなっていった。
家令は続ける。
「旦那様のお帰りをお待ちいただくよう申し上げましたが……奥様が、ご自身で応じられました」
燈真の視線が、わずかに下がる。
石畳の向こうに見える庭は、いつもと同じように静かだった。
「……そうか」
それだけ言うと、燈真は歩き出した。
廊下を進む。
足音が板張りの床に小さく響く。すれ違う使用人たちは皆、深く頭を下げて道を開けた。その動きは普段と変わらないのに、誰も顔を上げようとしない。
そのまま屋敷の奥へ向かい、珠緒の部屋の前で足を止める。
襖の前に立つと、わずかに空気が違って感じられた。人がいた場所の気配だけが、そこに残っているようだった。
燈真は一度だけ視線を落とし、それから静かに襖を開ける。
部屋の中は整っていた。
畳はきれいに整えられ、障子から差し込む夕方の光が部屋の半分を淡く照らしている。置かれている調度も、最初に通された日のままだった。余計なものはなく、持ち込まれた荷物もほとんどない。
珠緒がこの屋敷へ来たときと、ほとんど同じだった。
それでも、同じではない。
燈真は部屋の中央で立ち止まる。
静かだった。遠くで風が庭木を揺らす音だけが聞こえる。
視線が、縁側へ向いた。そこだけ、わずかに気配が残っている気がした。
珠緒がよく座っていた場所。背筋を伸ばし、膝の上に手を重ねて、庭を見ていた。松の枝が揺れ、葉の影が縁側を横切っていくのを、ほとんど言葉を交わさずに並んで眺めた。
燈真はゆっくり縁側へ歩いた。
板の上に立つと、足裏にわずかな温もりが残っている気がした。気のせいだと分かっていても、そのまま一歩も動かずに庭を見る。
庭は夕暮れの色に沈んでいる。橋の向こうの藤棚が暗い影を落とし、風が枝を揺らすたびに葉がかすかな音を立てた。
燈真は手を見る。
長い指。骨ばった節。
これまで誰にも触れてこなかった手だった。
触れれば命を奪う。その事実は、幼い頃から変わらない。
幼いころ、乳母が手を引こうとしたことがある。庭へ連れて行こうとして、何気なく差し出された手だった。燈真も何も考えず、それを握った。翌日から、乳母は寝込んだ。
それが偶然ではないと知るのに、時間はかからなかった。
庭で拾った子犬。遊び半分で撫でた草花。触れたものは、少しずつ弱っていった。何も知らずに触れたその手で、確かに命を削っていた。
それ以来、燈真は誰にも触れないように生きてきた。
それが正しい形だと思っていた。
けれど——
燈真は目を伏せる。
珠緒に触れたとき、何も起きなかった。
命は奪われない。苦しみも増えない。
ただ、静かだった。
それだけではない。
珠緒の手に触れているとき、珠緒の胸の奥に沈んでいた重さが、ゆっくりとほどけていった。受け取ることしかできなかった人が、初めて何も受け取らずに息をしていた。
燈真の呪いは奪い、珠緒の呪いは受け取る。
向きが逆だから、ぶつかれば消える。
理屈としては理解できる。
それでも——
珠緒は、静かに笑っていた。
何かを差し出すでもなく、何かを求めるでもなく、ただそこにいるだけで、屋敷の空気が変わっていた。
燈真は縁側に立ったまま、庭を見渡す。
珠緒がこの屋敷へ来てから、庭の空気がどこか柔らかくなっていたことに、今になって気づく。使用人たちの動きも、屋敷の静けさも、少しずつ変わっていた。
理由は分かっている。
珠緒がいたからだ。
燈真はゆっくり息を吐く。
この屋敷は、昔から静かだった。誰も近づかず、誰も触れず、距離を保ったまま暮らしてきた。燈真自身も、それが当たり前だと思っていた。
孤独であることは、危険を避けるための当然の形だった。
けれど、珠緒が来てから、その形は少しずつ変わっていた。
燈真は縁側の柱に手を置く。
指先に触れる木の感触は、いつもと変わらない。それでも、その手はもう、何も触れられない手ではなかった。
燈真は目を上げる。
庭の奥、橋の向こうに藤棚が見える。あの日、珠緒と歩いた場所。しばらくその景色を見てから、家令を呼び、振り向かないまま言う。
「車を」
家令は一瞬だけ言葉を失う。
「旦那様」
燈真は続ける。
「白瀬家へ行く」
それ以上の説明はなかった。家令は深く頭を下げる。
「承知いたしました」
燈真は縁側に立ったまま、もう一度庭を見た。松の枝が風に揺れている。橋の先、藤棚の影がゆっくりと長く伸びていた。
珠緒。
今度は、自分が迎えに行く。




