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呪いを分かつは、ただひとり君のみ  作者: 廻野 久彩


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第9話 迎えの車

朝の空気は、いつもより少しだけ落ち着かなかった。


珠緒は縁側に座り、庭を眺めていた。松の枝が風に揺れ、葉の影が石の上をゆっくり動いている。屋敷は普段と変わらないはずなのに、胸の奥に沈む重さだけが、どこか居場所を探すように揺れていた。


その理由を、珠緒ははっきりとは掴めなかった。


朝の支度をしていた女中が、控えめに声をかける。


「奥様。旦那様は町へ出られました」


珠緒は振り向いた。


「そうですか」


女中は一礼する。


「夕方にはお戻りになるそうです」


珠緒は小さく頷いた。


燈真が外出すること自体は珍しくない。屋敷のことも、町のことも、当主として目を通すべきものは多いのだろう。けれど今日は、その背を見送ったあとも、胸の奥の重さがなかなか消えなかった。


珠緒は手元を見た。


指先が、ほんのわずかに動く。


昨日、庭で触れた手の温もりを、まだ体が覚えている気がした。


昼前になった頃、屋敷の門の方が騒がしくなった。


遠くから車の音が聞こえる。砂利を踏む重い音が門前で止まり、しばらくして使用人たちの声が重なった。普段の来客とは少し違う、戸惑いの混じった声だった。


珠緒は立ち上がると、廊下を進み、玄関へ向かった。


外には黒塗りの車が停まっていた。見慣れた紋が、車体の扉に刻まれている。


白瀬家の紋だった。


珠緒は足を止めた。


車の横に立っている男の顔を見て、すぐに思い出す。昨日、応接間で顔を合わせた白瀬家の番頭だった。男は珠緒に気づくと、丁寧に頭を下げた。


「珠緒様」


低く落ち着いた声だった。


珠緒はわずかに目を伏せた。昨日、蛟家の応接間ではこの人も「奥様」と呼んでいた。その一文字の違いが、今どちらの家の人間として扱われているかを、静かに告げていた。


珠緒も静かに礼を返す。


「本日はどうされましたか」


男は背筋を伸ばしたまま、言う。


「珠緒様をお迎えに参りました」


珠緒は一瞬だけ言葉を失った。

その意味を、頭の中でゆっくり確かめる。


「……迎え、ですか」


男は穏やかな表情を崩さない。


「はい。白瀬家より正式なご用命です」


その声は丁寧だったが、言葉の奥に迷いはなかった。珠緒は少しのあいだ黙り、男の後ろに停まる車を見た。


昨日の使者だけではない。後ろにはもう一台、同じ紋の車が並んでいる。


珠緒は小さく息を吐いた。


「どういうことでしょう」


男は淡々と説明する。


白瀬家の事情。社交の予定。体調の確認。必要であればしばらく実家へ戻ること。言葉は柔らかく整えられているが、その内容に選択の余地はなかった。


珠緒は静かに聞いていた。


理由はすぐに分かった。


顔色。


体調。


珠緒の呪いは、燈真のそばで静まる。胸の奥に溜まる重さは消え、消耗することもない。だから今、珠緒は以前よりずっと穏やかな顔をしているのだろう。


それを見て、白瀬家は判断した。


まだ使える、と。


家令が一歩前へ出た。


「旦那様がお戻りになるまで、お待ちいただけませんか」


男は首を横に振る。


「本家の命です」


それ以上の言葉は必要なかった。


玄関の空気が張り詰める。


使用人たちは互いに顔を見合わせるが、誰も動かない。蛟家は名家だが、白瀬家は今の社会で力を持つ家でもある。この婚姻が政略であることは、ここにいる誰もが知っていた。


珠緒はその様子を静かに見ていた。


もし燈真がここにいれば、どうするだろう。

止めてくれるだろうか。それとも、家同士の関係を考えて言葉を飲み込むだろうか。


珠緒には分からない。


ただ一つ分かるのは、この場で争いが起きれば、困るのは燈真だということだった。


珠緒はゆっくりと口を開く。


「分かりました」


その言葉に、玄関の空気が揺れた。


家令が振り向く。


「奥様」


珠緒は小さく首を振った。


「支度をしてきます」


それだけ言うと、珠緒は廊下へ戻った。


部屋は来たときと同じように静かだった。


障子から差し込む光が畳の上に広がり、庭の松の影がゆっくり揺れている。珠緒は部屋の中央に立ち、しばらく何もせずその景色を見ていた。


持ってきた荷物は多くない。衣を数枚と、身の回りの小物だけだった。


珠緒はそれを静かにまとめる。


指先が布を整えるたび、胸の奥がわずかに軋むようだった。痛みというほどではない。けれど、ここへ来てから感じていた静けさが、少しずつ遠ざかっていく。


珠緒は縁側に出た。庭は変わらず穏やかだった。


昨日、燈真と歩いた道が見える。橋の向こう、藤棚の影。風が枝を揺らし、葉が光を細かく散らしていた。


珠緒は手を見た。


何も握っていない。昨日は、そこに別の手があったのに。


それでも指先には、温もりの記憶が残っている気がした。


やがて呼びに来た女中に促され、珠緒は玄関へ戻った。


使用人たちが並んでいる。誰も言葉をかけない。ただ深く頭を下げていた。


珠緒も一礼し、車へ乗り込んだ。


音もなく扉が閉まると、車がゆっくりと動き出す。


窓の外で、蛟家の門が遠ざかっていく。石畳の道も、庭の木々も、少しずつ小さくなっていった。


珠緒はその景色を見ていた。


燈真に、何も言えなかった。


そう思ったとき、胸の奥に静かな空白が広がる。それでも、その奥には確かに残っているものがあった。


庭の静けさ。

隣に立つ気配。

指先に触れた温もり。


珠緒は目を閉じる。


もし。

もし、あの人が、迎えに来てくれるなら。


そう思った瞬間、車はゆっくりと門を離れていった。

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