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呪いを分かつは、ただひとり君のみ  作者: 廻野 久彩


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第13話 選ぶ

部屋の中は、しんと静まり返っていた。


燈真の言葉が落ちてから、誰もすぐには口を開かなかった。たった一言だったはずなのに、その余韻だけが場に残り、どこへも逃げずに居座っているようだった。


珠緒は息をすることさえ、少しだけ意識しなければならなかった。


胸の奥が重い。


白瀬家に戻ってからずっと感じている重さが、今も確かにそこにある。人の気配が多いほど、それは濃くなる。今この部屋には、父と番頭、控えている使用人たちの気配が満ちていて、それぞれの思惑や疲れが、言葉にならないまま空気に混ざっていた。


そのすべてが、ゆっくりと珠緒の内側へ沈んでくる。


けれど、その奥に、もう一つ別の感覚がある。


燈真の存在が、そこにあるだけで、すべてを押し返すわけではない。それでも確かに、重さの中にわずかな隙間が生まれている。息が詰まるほどではなく、呼吸を整えれば、ちゃんと奥まで届く。


珠緒は膝の上で、指先をそっと重ねた。震えているのが分かる。


「珠緒」


父の声がした。


穏やかで、落ち着いた響きだった。いつもと変わらない声音で、ただ名前を呼ばれる。


「こちらでの支度も整っている。無理をする必要はない」


続く言葉も柔らかい。気遣うようでいて、選択を与えてはいない。珠緒がどうあるべきかは、すでに決まっているのだと、当たり前のように示している。


珠緒は顔を上げなかった。


その代わりに、胸の奥の感覚を確かめる。


重さは確かにある。


それでも、その奥に、もう一つ別のものが息をしている。燈真がいることで生まれている、わずかな軽さ。


どちらも嘘ではなかった。


珠緒はゆっくりと息を吸う。


肺の奥に空気が入る。その感覚を確かめながら、視線を少しだけ上げた。視界の先に、燈真の姿がある。


何も言わない。


ただ、そこにいる。


それだけだった。


珠緒はその姿を見て、ふと気づく。


この人は、自分に何も求めていない。


役に立てとも、従えとも、楽になれとも言わない。ただ自分で選べと、それだけを委ねている。


それがどれほど異質なことか、珠緒は今になってようやく理解した。


指先の震えが、少しだけ収まる。


珠緒は、ゆっくりと顔を上げた。


父の方を見る。


その表情は変わらない。穏やかで、整っていて、何も問題がないように見える顔だ。けれどその奥にあるものも、珠緒は知っている。


期待。


利用価値。


そして、当然のように与えられる役目。


珠緒は一度だけ瞬きをした。


それから、立ち上がる。


畳がわずかに軋んだ。


その音だけで、部屋の空気が変わる。控えていた使用人たちの気配が揺れ、番頭がわずかに顔を上げる。父の視線が、静かに珠緒へ向けられた。


珠緒は何も言わず、ただ一歩、足を踏み出す。


胸の奥の重さは消えていない。それでも足は止まらず、畳の上を進む感触を確かめながら、さらに一歩と前へ出る。


気づけば、燈真の前に立っていた。


燈真は、静かに珠緒を見つめている。変わらない目だった。静かで、何も押しつけてこない。ただ、そこにある。


その視線を受け止めたとき、胸の奥で、何かがほどけた。


完全に消えるわけではない。それでも、その奥にあったもう一つの感覚が、はっきりと形を持ち始めている。


呼吸が、深くなる。


「珠緒」


もう一度、父の声がする。


今度は、ほんのわずかに強さが混じっていた。


珠緒は振り返らず、代わりに、ほんの少しだけ首を横に振る。


「……大丈夫です」


小さな声だったが、はっきりと届いた。


そのまま一歩、燈真に近づく。距離が縮まり、手を伸ばせば触れられる位置で、珠緒はわずかに指先を止めた。これまで何度も感じてきた感覚が、まだ皮膚の奥に残っている。


触れれば、何かが変わる。


そのことを知っているからこそ、ほんのわずかにためらいが生まれる。


それでも、その手は止まらなかった。


珠緒はそっと手を伸ばし、燈真の袖を掴む。布越しの感触が指先に伝わると同時に、胸の奥に沈んでいた重さがゆるやかにほどけていった。


一度に消えるわけではない。けれど長く抱えていたものが形を失っていくように、少しずつ軽くなっていく。


珠緒は目を伏せ、その感覚を確かめる。


袖を掴んだ手は、そのままだった。


燈真は何も言わない。ただ珠緒の動きを受け止めるようにわずかに体の向きを変え、外へ視線を向ける。その動きに促されるように、珠緒も自然と隣へ並んだ。


肩が並ぶ。


触れてはいない。それでも、もう遠くはなかった。


珠緒は一度だけ、ゆっくりと息を吸う。胸の奥に残っていた重さが静かにほどけていくのを感じながら、そのまま言葉を落とした。


「……行きます」


その声は小さかったが、迷いはなかった。


背後で気配がわずかに動く。


呼び止める声が聞こえた気がしたが、珠緒は振り返らない。


燈真もまた何も言わず、そのまま歩き出す。珠緒はその隣に並び、同じ歩調で足を進めた。


障子の外へ出ると、空気が変わる。屋敷の中に満ちていた重さがゆっくりと遠ざかり、冷えた外気が頬に触れた。完全に消えたわけではない。それでも呼吸は先ほどより深く、胸の奥まで静かに届く。


足音が並ぶ。隣に、燈真の気配がある。それだけで、胸の奥は不思議なほど穏やかだった。


珠緒は前を向いたまま、もう一度ゆっくりと息を吸った。

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