赤いタイマー
屋上の夜風は、血の匂いを含んで冷たかった。
ピーターは立ち尽くしたまま、膝をついているモーグを見下ろしていた。ルビーレッドのオーラはすでに不安定で、ところどころ欠けている。タイマーは一・三〇を切っていた。
モーグが顔を上げ、血の混じった息で吐き捨てるように言った。
「お前は……何なんだ。絶対的な怪物だ。誰か一人だって、本気で救ったことなんざねえだろ」
ピーターは黙って歩を進めた。
「利己的なだけだ」
その言葉が終わらないうちに、ピーターの足がモーグの顔面を捉えた。体が宙に舞い、ピーターはさらに加速して追う。モーグは落ちる途中で木の枝を掴み、反転して接近してきたピーターの肩を浅く切り裂いた。血が噴き、ピーターの表情が初めて歪む。
「ちっ……」
タイマーは容赦なく減っていく。
ピーターは歯を食いしばり、拳を振り抜いた。モーグの腹に沈んだ衝撃で、大量の血が口から溢れる。だがモーグも同時に短刀を握り、ピーターの肋骨の隙間へ深く突き刺した。鋭い痛みが視界を白くする。ピーターの体が大きく傾いた。
それでも彼は、モーグのシャツを掴んで無理矢理体を起こした。短刀を相手の手から奪い取り、ためらいなく首筋へ突き立てる。
刃が抜けたとき、モーグの体から力が抜けた。
タイマーが〇・〇三で停止し、光の数字が砕け散る。
ピーターはその場に膝から崩れ落ち、仰向けに倒れた。赤いオーラが急速に消え、残るのは荒い呼吸と、自分の血だけだった。
その頃、別の場所。
ユダスは一人、壊れた壁に背を預けて座っていた。目を閉じた瞬間、記憶が堰を切ったように溢れ出す。
五歳の冬。
両親と兄と四人で歩いていた通り。突然の銃声。母親が前のめりに倒れ、父親が彼を庇おうとして胸を撃ち抜かれた。兄は後ろを一度だけ振り返ると、何も言わずに走って逃げた。
男が近づいてくる。ユダスは泣きもしなかった。ただ、足元に広がる血を見ていた。
男は彼を抱き上げ、暗い地下室へ連れて行った。鎖で両手を吊られ、何度も殴られた。痛みがどこか遠くになり、意識が白く濁る。鞭が背中を割った瞬間、視界が闇に落ちた。
目を覚ましたとき、そこは柔らかいベッドの上だった。
「怖がらなくていい。もう誰も、あなたを傷つけさせない」
女性の声だった。彼女はユダスを引き取り、六ヶ月のあいだ世話をした。しかしその六ヶ月の間にも、別の男たちが家に入り浸り、ユダスは再び暴力を受け、一度は魂が削れるような辱めを受けた。女性はそれを止められなかった。
十歳になるまで、彼は「弱くて何もできない子供」として扱われた。学校では集団で囲まれ、殴られ、笑われた。力がないことを理由に、存在ごと否定された。
十三歳の誕生日。
その一年前、唯一優しくしてくれた女性が通り魔に射殺されていた。ユダスは一人で生き延びる方法を選んだ。人の感情の動きを学ぶ授業に通い、人体の構造を覚え、感情を殺す訓練をした。執着しないこと。期待しないこと。誰にも、何にも、心を預けないこと。
十七歳になるまで、彼は誰とも深く関わらなかった。誕生日を祝う資格など、自分にはないと思っていた。ただ生きるために稼ぎ、強くなり、頭を使い、二度と「弱い側」に立たないことを誓った。
そして今。
マキの屋敷で「マリン」を演じ、この場所にいる。
ユダスは目を開けた。涙が一筋、頬を伝いかけたのを、すぐに袖で拭い去った。
「……探すぞ。ピーターを」
フロスティの声がした。マキもルーシーも、マジンも頷く。ユダスは何も言わずに立ち上がり、彼らに続いた。
森の奥。
黒いフードにオレンジのラインが入った服を着た男が、倒れているトルの胸に手を当てていた。
トルの目が開く。
「……誰だ」
「覚えのない声じゃないだろ」
男がフードを上げると、チャの顔が現れた。
「お前……生きてたのか」
「お前を拾っただけだ。再生が不完全なままだが、動けるだろ」
トルは体を起こしながら、低く唸った。
「ユダスを殺す。あいつだけは」
チャは短く笑った。
「すぐに動くな。まずは体を安定させる。奴らがどこへ向かうか、きちんと見てからでも遅くない」
トルは拳を握りしめ、何も答えなかった。ただ、その目にははっきりとした殺意が宿っていた。
一方、リンの近く。
マキとルーシーが獣の枠を整えていると、血にまみれたピーターがよろめきながら歩いてきた。言葉もなく枠の中に体を投げ出す。
ユダスが乗り、フロスティが続き、ルーシーは端に座った。マキが自然とその隣に位置を取る。マジンが最後に枠へ足をかけた。
リンは静かに走り出した。
夜が深くなる頃、一行は小さな廃村の跡に到達した。マキが手を上げ、今夜はここで休むと告げる。火を囲む者、傷を処置する者、黙って座り込む者。valentineの死が、まだ全員の肩に重くのしかかっていた。
ルーシーはマキと少し離れた場所に座った。彼女は膝に顎を乗せ、火の揺らめきを見つめていた。
「……なんであんな簡単に死ぬんだろうな」
マキの声は、いつもの切れ味を失っていた。
ルーシーは答えを探した。見つからなかった。ただ、彼女の横顔を見続けることしかできなかった。赤い髪が火の光を受けて、時折銅のように輝く。緑の瞳は、今は少し潤んで見えた。
(綺麗だ)
その思考が、自然に浮かんだ。
(この人を、失いたくない)
ルーシーは自分の感情の名前を、初めてはっきりと認識した。恋しかった。守りたかった。傍にいたかった。友人としてでは、もう足りない何かが胸の奥で膨らんでいた。
マキが突然、彼の手を握った。
指が絡まる。彼女の掌は意外なほど温かかった。
「全部終わらせたら、大丈夫になる」
マキは火を見たまま言った。
「きっと、そうなる」
ルーシーは握られた手を、振り払わなかった。ただ、その温度を確かめるように、静かに力を返した。
夜風が二人の間を通り過ぎていく。
遠くで、リンが低い息を吐く音がした。明日になれば、また街を出るための条件を確認しなければならない。だが今はこの瞬間だけ、ルーシーはマキの手の感触に意識を沈めていた。
ユダスは少し離れた闇の中で、その光景を見ていた。
彼は何も言わず、ただ自分の掌を見つめた。かつて鎖で縛られ、殴られ、捨てられた記憶が、再び鈍く疼く。
(……俺には、関係ない)
そう自分に言い聞かせるように、彼は視線を逸らした。
だが、完全には逸らせなかった。
朝は、まだ遠かった。




