最初の回帰
ホテルの前にリンが止まった。
建物は三階建ての古びたもので、壁のあちこちが黒ずみ、ひびが走っている。入口付近のネオンは半分だけ点灯し、赤い光が夜の湿った空気に滲んでいた。周囲には明らかに武装した人間たちがたむろしている。目だけが鋭く光り、こちらを値踏みするように見ている者もいれば、すでに刃物を握りしめている者もいた。空気自体が、殺意で重く沈んでいる。
マジンが先に降りた。足元の砂利を踏みしめ、振り返って短く言った。
「ついてこい」
一行は彼の後ろに続く。ルーシーはマキの少し後ろを歩き、ピーターは肩を押さえながらも黙って従った。フロスティは無言で、ユダスは表情を変えずに最後尾についている。
受付の男は、マジンの顔を見ただけで話を早く切り上げた。
「上の階だ。一番奥の部屋を使え」
階段を上がりながら、マジンは低く名前を呼び始めた。確認するように、一つずつ。
「ルーシー。マキ。ピーター。フロスティ。ユダス」
全員が返事をするわけではなかったが、足音は確かに揃っていた。
部屋に入ると、薄暗い空間が広がっていた。ベッドが二つ、古いソファ、割れた窓ガラスの向こうに街の夜景が霞んでいる。ルーシーは何も言わずに一番手前のベッドに体を投げ出した。マットレスが軋む。マキが自然とその隣に腰を下ろし、ユダスは窓側のソファに沈んだ。フロスティはもう一つのベッドの端に座り、膝の上で指を組んだ。
沈黙が落ちた。
valentineの死が、まだ全員の肩に重くのしかかっている。誰もそれを口に出さなかった。
そのとき、ドアが開いた。
黒いポロシャツを着た男が、人を抱きかかえて入ってくる。濃い茶色の肌、前に落ちたボリュームのある暗い髪が目を半分隠している。腕の中にはリラがいた。意識はあるようだが、力なく目を閉じている。
男は部屋の中央で足を止め、軽く微笑んだ。
「俺の名はソーレ ん」
声は低く、どこか遊戯的だった。
「この子を探してたんだろ」
ルーシーが上体を起こした。警戒が、すぐに声に出る。
「どこから来た」
ソーレ んは肩をすくめた。
「そんなのどうでもいい。とりあえず味方だと思ってくれ。俺たちも宝石を狙ってるだけだ」
フロスティが動いた。
彼女の掌から氷が凝縮され、一瞬で細長い剣の形になる。音もなく放たれた氷剣は、ソーレ んの顔面を狙って一直線に飛んだ。刃は彼の鼻先からわずか二フィートの位置で突然停止した。空気が凍りつき、白い霧が散る。次の瞬間、氷剣は力を失って床に落ち、砕ける。
ソーレ んは微笑んだまま言った。
「落ち着きな。敵じゃない」
リラが目を開けた。彼女はソーレ んの腕から飛び下りると、フロスティを一瞥し、すぐにソーレ んへ向き直った。腕を振り、短い刃を生み出して振り下ろす。刃は寸前で止まり、空間が歪むように力が散った。
「だから、仲間に入れてくれないか」
マジンが短く答えた。
「いいだろう。人手は多い方がいい」
その言葉が終わらないうちに、遠くで大きな爆発音がした。
窓の外、街の内側の方から黒煙が立ち上がっている。建物の一部が崩れる音が、夜の空気を震わせた。赤い光が間欠的に空を照らす。
ソーレ んが窓に近づき、目を細めた。
「あれは……あんまり良くないな」
ルーシーが低く呟く。
「あんたには分かるのか」
マジンが立ち上がった。
「見に行くぞ」
その瞬間だった。
見えざる力がソーレ んの体を真下から押し上げた。床が沈み、次の瞬間には彼の姿が窓を突き破って上空へ弾き飛ばされる。ガラスが割れ、風が部屋に流れ込んだ。ソーレ んの体は加速し、大気を切り裂くように上昇していく。
視界が白く弾け、すぐに深い黒に変わった。
星々が、近くに見えた。
目の前に、緑の光を纏った男が無重力の中に立っていた。常に光る拳。 ren い目。罪の王の一人。
「……リキューか」
ソーレ んは静かに息を吐いた。宇宙の真空の中で、肺がまだ動いていることに軽い驚きを覚える。
「わざわざ俺を連れてくる必要はなかっただろ」
リキューは何も答えなかった。ただ、緑のオーラを爆発させて前進する。拳が放たれる。光速に近い軌道。ソーレ んは体をわずかにひねり、攻撃をかわした。拳が空を切り、近くの小惑星の破片を粉々に砕く。
「逃げんな」
リキューの声が、直接意識に響いた。次の瞬間、空間が歪む。ソーレ んの体が強制的に引き寄せられ、リキューの膝が腹にめり込んだ。衝撃が内臓を揺らし、口から血が溢れる。ソーレ んはそれでも笑顔を崩さず、リキューの足首を掴んだ。
「じゃあ、こっちも本気出すか」
スカイブルーのオーラが、彼の血管に沿って走り出す。光が皮膚の下を脈打ち、重力が歪む。ソーレ んはリキューを掴んだまま体を回転させ、そのまま宇宙の彼方へ放り投げた。
リキューの体が光の筋を描いて地球方向へ落下する。大気圏に再突入し、ホテル近くの地面に激突した。巨大なクレーターが生まれ、衝撃波が周囲の建物を揺らす。
ソーレ んもまた、同じ場所に降り立った。着地の瞬間、地面がさらに深く抉れ、砂とコンクリートが舞い上がる。スカイブルーのオーラが、彼の周囲に薄く広がっていた。
「大丈夫か?」
リキューがゆっくりと体を起こす。欠けた腕の断面から、すでに新しい肉が再生し始めていた。目には、はっきりとした殺意だけが残っている。
「こんなに早く誰かを殺したいと思ったのは、初めてだ」
ソーレ んの表情から、遊戯の色が消えた。
「俺は自分のスキルを、ある程度は全部極めてる」
彼は静かに言った。
「正直、お前は罪の王の中で一番弱い」
指を銃の形に組み、小さなビームを放つ。スカイブルーの光がリキューの肩を撃ち抜き、腕が再び落ちた。
リキューは構わずに距離を詰める。連続した拳が、ソーレ んの顔面と胴に吸い込まれるように放たれる。だがソーレ んの体はほとんど動いていない。あたかも当たっているように見え、衝撃音もしているのに、実際のダメージはほとんどない。重力の糸が、攻撃の軌道を微細にずらしていた。
リキューが後退し、低く呟いた。
「……お前は何だ」
答えの代わりに、リキューは黒い球体を凝縮してホテルへ投げつけた。破壊を前提とした、圧縮された意志の塊。
ソーレ んはそれを片手で受け止め、そのまま真上へ放り投げた。
球体は加速し、惑星の重力圏を抜け、太陽系を横切り、わずか数秒で遠くの星系に到達して爆発した。夜空の彼方で、小さな光が散る。
ソーレ んはリキューを見たまま、静かに息を整えた。
リキューの姿が、次の瞬間には霧のように揺らぎ、消えていた。
残されたのは、巨大なクレーターと、まだスカイブルーのオーラを薄く纏ったソーレ んだけだった。
彼はホテルの方を振り返り、低く呟いた。
「……面倒なのが、本当に来ちまったな」
そして窓の破れた部屋へ、静かに戻っていった。ソーレ んはクレーターの縁に立ち、まだ完全には消えていないスカイブルーのオーラを腕に纏ったまま空を見上げた。リキューの気配は消えたように見えたが、完全ではなかった。空間の奥で、何かが再び歪み始めている。
「まだ終わってないか」
呟きが終わらないうちに、緑の光が地表を焼いた。リキューが再出現した瞬間、彼の両腕はすでに再生を終えていた。拳を合わせただけで衝撃波が走り、周囲の瓦礫が弾き飛ばされる。
「お前みたいな端くれが、罪の王を愚弄したな」
リキューの声は低く、怒りで震えていた。緑のオーラが爆発的に膨張し、彼の体表を炎のように走る。次の瞬間、彼は音速を超えて突っ込んできた。
ソーレ んは動かなかった。
正確には、動いているように見えなかった。
リキューの拳が顔面を捉えたはずの位置で、ソーレ んの体はすでに半歩ずれていた。重力の糸が微細に張られ、攻撃の軌道を強制的に逸らし続けている。拳が空を切り、代わりに地面を殴りつけた衝撃で新たなクレーターが生まれる。
「当たってるつもりか?」
ソーレ んの声は冷たく、ほとんど感情がなかった。さっきまでの軽い口調は完全に消えている。
「残念だけど、お前の速度も軌道も、全部読めてる」
リキューが歯を食いしばり、連続で拳を放つ。上下左右、予測不能に見える軌道。だがソーレ んは最小限の動きで全てをかわし、時折指先で触れるだけで攻撃を無力化した。触れた瞬間、リキューの拳の勢いが消え、まるで止まったかのように落ちる。
「Zero Point」
ソーレ んが短く言った。
触れた対象の運動量を、一瞬だけゼロにする。リキューの連続攻撃は、そのたびにリズムを崩され、焦りが顔に出始めていた。
「ちっ……!」
リキューは距離を取り、両手を前方に突き出した。緑の光が収束し、巨大なエネルギー弾が凝縮される。放出された光の塊は、ホテル方面を含めた一帯を消し飛ばすほどの密度を持っていた。
ソーレ んは両手を広げた。
「Fall Domain」
彼の周囲の空間が歪む。見えざる重力場が展開され、エネルギー弾の軌道が強制的に下方へ曲げられた。光の塊は地面に吸い寄せられるように落ち、クレーターの底で爆発した。衝撃波が周囲を薙ぎ倒すが、ソーレ んの位置まで届くことはなかった。
「重力を操るだと……?」
リキューが目を見開く。
「操るというより、糸を張ってるだけだ」
ソーレ んは指を一本立て、ゆっくりと横に動かした。見えない糸が空間に張り巡らされ、リキューの両足に絡みつく。次の瞬間、リキューの体が強制的に地面に叩きつけられた。重力が何倍にも増したように、彼の膝が土に沈む。
「重い……!」
リキューが喉から声を絞り出す。緑のオーラを爆発させて重力を振り切ろうとするが、糸は簡単には切れなかった。ソーレ んはゆっくりと近づき、静かに言った。
「お前が本気を出せば、もう少しは面白いと思ったんだけど」
彼は指を銃の形に組み直す。スカイブルーの光が指先に収束する。
「まだ本気じゃないのか?」
リキューが顔面を上げ、歯を剥いて笑った。
「ふざけるな……!」
次の瞬間、リキューの体から緑の光が柱のように逆噴射した。重力の糸が断ち切られ、彼の体が爆発的に上昇する。大気圏を再び突き破り、宇宙空間へと舞い戻る。ソーレ んもまた、同じように空間を蹴って追った。
二人は再び星々の間に立っていた。
リキューは両腕を広げ、周囲の宇宙ゴミや小惑星の破片を緑のオーラで引き寄せ始める。無数の岩塊が彼の周りを高速で回転し、やがて一つの巨大な質量へと圧縮されていく。
「お前を、このまま潰す」
ソーレ んは息を吐いた。
「じゃあ、俺も一つ出すか」
彼の両掌から、細い重力の糸が無数に伸びる。糸はリキューが圧縮した質量の核心に絡みつき、内部から引っ張り始めた。岩塊が内側から崩壊を起こし、圧縮されていたエネルギーが不安定に膨張する。
「壊れるぞ」
ソーレ んの警告と同時に、巨大な質量が内部爆発を起こした。緑の光と岩石の破片が宇宙空間に四散する。リキューがその中心で体勢を崩した瞬間、ソーレ んはすでに背後に回っていた。
「Soft Step」
ほぼ無音の移動。ソーレ んの掌がリキューの背中に触れる。
「Zero Point」
触れた瞬間、リキューの体から全ての運動量が消えた。次の瞬間、ソーレ んは彼を真下へ、地球方向へ蹴り落とした。
リキューの体が再び大気圏に再突入する。今度は制御が利かず、ホテルからさらに離れた荒野に激突した。衝撃で地面が波打ち、砂煙が空を覆う。
ソーレ んはゆっくりと地上に降り立った。スカイブルーのオーラはすでに薄くなり始めている。彼はリキューの倒れた方向を一瞥すると、肩を回して呟いた。
「……まだ生きてるな。しぶとい」
遠くで、緑の光がまた点き始めているのが見えた。だがソーレ んはそれ以上追わなかった。代わりに、破れたホテルの窓の方へ向き直る。
部屋の中では、ルーシーたちが窓の外の光景を固唾をのんで見守っていた。巨大なクレーター、飛び散る光、そして再び地上に戻ってきたソーレ んの姿。
ソーレ んは窓枠に手をかけ、軽く身を翻して部屋に入ってきた。着地の音はほとんどしない。
ルーシーが口を開く。
「何があった」
ソーレ んはいつもの軽い笑みを顔に戻し、埃を払うように肩を叩いた。
「気にするな。ただ、面倒なのがこっちに向かってるってことだけは、覚えとけ」
彼はそう言って、部屋の隅にそっと身を預けた。スカイブルーのオーラはすでに完全に消え、またただの余裕のある男に戻っている。
だがその目は、一瞬だけ、窓の外の夜空を冷たく切り取っていた。
ソーレ んが部屋に戻ってから、しばらく誰も口を開かなかった。
破れた窓から冷たい夜風が流れ込み、カーテンが不規則に揺れている。外ではまだ砂煙が薄く漂い、遠くで崩れた建物の破片が時折落下する音がした。クレーターの縁は黒く焦げ、緑の光の残滓が地面に点々と残っている。
ルーシーはベッドの端に座り直したまま、ソーレ んを見ていた。マキは窓の外を一度だけ確認すると、静かにカーテンを引き寄せた。フロスティは氷の粒を指先で転がすようにして、何も言わない。ユダスはソファに深く座り、表情を変えずに状況を観察している。ピーターは肩の傷を押さえながら、低い息を吐いた。
「……今の、罪の王だったのか」
マジンがようやく口を開いた。声は低かったが、部屋の空気をわずかに動かした。
ソーレ んは壁に背を預けたまま、軽く肩をすくめる。
「ああ。リキューだ。罪の王の中じゃ、たぶん一番下の方だと思うけどな」
「一番下であの破壊力か」
マキが短く吐き捨てるように言った。彼女の声には、valentineを失った後の疲労と、抑えきれない警戒が混じっている。
「で、お前はなぜ無事なんだ」
ルーシーの問いには、純粋な疑問と、僅かな不信が混ざっていた。ソーレ んは彼を見て、いつもの軽い笑みを浮かべる。
「運が良かっただけだよ。それに、向こうも本気の本気じゃなかったみたいだし」
「嘘つけ」
フロスティが初めて言葉を挟んだ。氷の粒が指先で砕ける音がした。
「あの距離と速度で、普通は死んでる」
ソーレ んは答えなかった。ただ、天井を見上げて小さく息を吐く。スカイブルーのオーラはもう完全に消えていて、彼の体から溢れる気配は、一見すると普通の人間と大差なかった。だが部屋にいる誰もが、それが仮の姿であることを薄々感じ取っていた。
リラは部屋の隅で膝を抱えて座っていた。ソーレ んに抱きかかえられていたときとは違い、今は清醒している。彼女はフロスティの方を一瞬見たあと、視線を逸らした。口を開く気配はなかった。
「で」
ユダスが静かに言った。
「お前は本当に味方なのか」
ソーレ んは彼の方を見る。二人の視線が、短い間だけ交差した。
「少なくとも、今はな」
彼はそう答えると、窓の外を顎で示した。
「それに、さっきの感じだと、リキューは一時的に退いただけだ。次はもっと面倒なのが来ると思う。一人で抱えるより、人数いた方がまだマシだろ」
マジンが腕を組んだ。
「理由はそれでいい。だが、 unexplained な力を持つ人間を簡単には信用しない」
「当然だ」
ソーレ んは笑った。今度の笑みは、先ほどまでの軽さより少しだけ冷たい。
「信用しなくていい。ただ、同じ方向に行くなら、邪魔はしないでくれ」
沈黙が再び落ちた。
ルーシーは自分の掌を見下ろした。さっきまで感じた死の感触は、まだ完全には消えていない。ループの記憶が、脳の奥で鈍く疼いている。この男が宇宙空間で罪の王と渡り合った事実と、自分が死んで戻ってきた事実が、同じ夜の中で重なっていた。
マキが彼の隣に座り直す。肩が、わずかに触れた。
「……とりあえず、今夜は休む」
彼女の声は低く、決断を含んでいた。
「朝になったら動く。宝石の情報も、次の移動ルートも、全部見直す」
誰も反対しなかった。
ソーレ んは部屋の隅にそのまま居座り、目を閉じた。リラックスしているように見えるが、意識は完全には切れていない。窓の外の闇を、皮膚で感じ取っているような気配があった。
ユダスはソファの背に頭を預けたまま、天井を見つめていた。彼の思考の奥で、何かが静かに計算を続けている。この男の力。罪の王の反応。そしてルーシーが先ほど見せた、説明のつかない生存。
全てが、少しずつ噛み合い始めていた。
夜は深く、ホテルの外では時折、崩れた瓦礫が落ちる音だけが響いていた。
誰もが、次に何が来るかを明確には知らなかった。
ただ一つ、はっきりしていることがあった。
もう、ただの旅ではないということだ。
罪の王が動き始め、強い個人が集まり、死が現実味を帯びてこの集団を取り囲んでいる。
ルーシーはゆっくりと目を閉じた。
マキの体温が、肩を通して僅かに伝わってくる。
その感触だけを頼りに、彼は今夜を越えようとした。
窓の外で、遠い空のどこかが、薄く白く煌めいたように見えた。
誰の目にも止まらない、ごく僅かな光だった。




