チェックメイト
細い道を、ユダスは一人で歩いていた。
夜の風が、質感のある暗い髪をゆっくりと後方へ流す。足音はほとんどせず、ただ静かに前進するだけだった。その背中に、別の足音が重なった。
「ほう。いい顔してるじゃねえか。名前は?」
ユダスは足を止め、ゆっくりと振り返った。
目の前に立っていた男は、長い黒い絹のような髪を持ち、澄んだ緑色の瞳をしていた。顔立ちは整っており、手には長い槍を携えている。
「どちら様です?」
男は槍の柄を軽く揺らし、ニヤリと笑った。
「俺はトル。トルレンのトルだ」
槍が短く震えると、刃の形が変わり、一本の剣へと変わる。金属音が夜気に溶ける。
「で、あんたは?」
「ユダスだ」
トルはゆっくりと距離を詰めた。ユダスもまた、静かに一歩踏み出す。二人の間の空気が張り詰める。
トルが突然、剣を振り下ろした。
刃がユダスの腕を捉える。切れる音がしたはずだった。しかし血は出ない。皮膚は割れず、刃はまるで硬い壁に当たったかのように弾かれた。
ユダスは首を傾げ、トルと目を合わせた。
次の瞬間、彼の足が動く。
鋭い蹴りがトルの胴を捉え、男の体が大きく後方へ飛ぶ。建物の並ぶ市街地の方へと、トルの体が投げ出された。
遠くで、リンに乗った一行がその光景を見ていた。
ルーシーは思わず身を乗り出す。マキも目を細め、バレンタインは無言で視線を固定していた。マジンだけが、静かに腕を組んだまま状況を測っている。
「……行くぞ」
誰かが呟き、リンは市街地の入口へと進み始めた。
一方、トルは地面に転がったまま、右臂を見下ろした。肩から先がなかった。血が勢いよく流れ出す。しかし次の瞬間、断面から肉と骨が急速に再生していく。新しい腕が、あっという間に形を成した。
ユダスがゆっくりと近づいてくる。
「再生か。悪くない」
トルは剣を構え直した。連続して斬りかかる。横、縦、斜め。刃が風を切る音が連続する。ユダスは最小限の動作でそれをかわしていく。髪が動きに合わせて大きく後方へ流れ、コートの裾が翻る。時折、刃が肩や腕をかすめるが、深い傷にはならない。
トルが剣を深く突き刺した。刃がユダスの左腕を貫く。
ユダスは痛みを顔に出さず、そのままトルの腹を強く蹴った。男の体が再び大きく下がる。同時に、周囲の空気が大きく揺れた。目に見えない衝撃波が広がり、トルの体がさらに後方の建物へと叩き込まれる。
壁が崩れる音。
ユダスは軽く膝を屈め、跳躍した。高さが急速に増していく。四百五十フィートはあろうかという建物の上層階へ、トルの体を追い込むように蹴り上げる。天井近くで体勢を整え、刺さっていた剣を抜いた。自分の腕の傷が、見る間に塞がっていく。
抜いた剣を、そのまま窓の外へ放り投げた。金属が夜の闇に落ちていく。
ユダスの両拳が、薄いながらも明るい紫の光を帯び始める。対するトルの体表には、淡い灰色のオーラがまとわりついていた。
拳が振られる。
一度目。トルの顔面を捉え、血が飛び散る。
二度目。みぞおちに沈み、トルが大きく咳き込んだ。
その直後、ユダスの指先がトルの腹部に触れた。
トルの視界が急変する。
無数の悪魔のような影が、四方から押し寄せてきた。歯をむき出し、爪を伸ばし、咆哮しながら襲い掛かる。トルは本能的に剣を振り、影を切り裂いた。一体、また一体。血しぶきのようなものが舞い、彼は必死に戦い続けた。
しかし——。
まばたきをした瞬間、景色が戻る。
自分は一歩も動いていない。腕は上がっておらず、呼吸だけが荒い。下を見ると、腹部にガラスの刃が深く埋まっていた。
(いつ……?)
ユダスが腹部に触れた瞬間、近くに落ちていた破片を瞬時に刃へ変え、そのまま刺し込んでいたのだ。
トルは膝をついた。血が床を染める。死の淵から、力ない声で言った。
「……ブームだ」
次の瞬間、建物全体が軋んだ。
支えを失った構造が崩れ始める。天井が落ち、壁が内側へ傾く。ユダスとトルの体が、崩落する建物と共に自由落下を始めた。
風が激しく髪を撫で上げる。ユダスは落下しながらも、眠るように意識を失いかけているトルを見下ろした。地面が近づく。彼は着地の寸前で力をコントロールし、まるで階段を降りるような滑らかさで地表に立った。
トルの体は無造作に転がる。
ユダスはガラスの刃を引き抜き、静かに位置を調整した。
「チェックメイトだ」
刃が、トルの心臓を貫く。
薄い赤い光が刃を伝ってユダスの掌へ流れ込む。光は徐々に色を変え、明るい紫のオーラとなって彼の全身を包み込んだ。そのオーラは最終的に胸の位置で凝縮され、心臓へと沈み込んでいく。
ユダスは自分の手を開き、閉じた。
新しい力が、確かに内側で脈打っていた。
他人のオーラを奪い、自分のものとして再構成する。それを魂エネルギーへ変換することも、単純な出力や速度へ振り分けることもできる。手から光の束を放つことも、一日だけ体を鋼のように硬質化させることも可能だ。相手の認識を歪め、存在しない感覚を植え付けることもできる。複数の顔を完璧に演じ分ける技術。空間そのものに干渉し、本来呼吸できない場所でも活動を可能にする力。相手の魂に五度以上の干渉を成功させれば、その身体を強制的に操ることさえできる。これまで回避不能だった軌道の攻撃すら、予測してかわすことができるようになる。そして、熟練した魂の使い手でなければ破れない障壁を張ることも——。
ユダスは崩れた瓦礫の中で、ゆっくりと息を吐いた。
その頃。
ルーシーたちの一行が、半壊した建物の近くに到着していた。リンを降り、慎重に中へ踏み込む。
埃と血の匂いが混じった空気の中に、二人の人影があった。
一人は女性だ。前髪を揃え、黒い靴を履き、髪の先端近くに赤い色が入っている。瞳は明るいピンク色で、赤いシャツにゆったりした赤いズボンを合わせていた。顔立ちは清楚だった。
もう一人は、彼女から十フィートほど離れた位置に立つ男。暗い青の髪に、薄い青い瞳。手には銃を構え、女性を照準していた。
しかし、一行が姿を現した瞬間、男は動きを止めた。銃口をゆっくりと下げ、警戒するような目でこちらを見る。
女性は静かに彼らを見返し、短く名乗った。
「リラよ」
男もまた、低い声で続いた。
「モーグだ」
空気が、再び張り詰める。
ユダスの姿は、もうどこにも見えなかった。




