旅立ちの朝
屋敷の居間には、まだ夕方の光が残っていた。
マキはソファに深く腰を下ろし、天井を見上げながらゆっくりと口を開いた。
「この国にはな、名前を出すだけで体が固まるって言われてる存在がいるらしい」
ルーシーは彼女の横で静かに聞いていた。
「一番守られてる村にしか伝わってない話だ。名前を口にしただけで空気が変わる。天気まで狂うこともあるって。本当かどうかは知らないけど、年寄りは今でも怖がってる」
マキはそこで肩をすくめた。それ以上は語らない。ルーシーも深く追及しなかった。ただ、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。マリンが居間に入ってきて、きょろきょろと辺りを見回す。
「バレンタインとフロスティは? もう着いてるはずなんだけど」
マキは特に驚いた様子もなく答えた。
「知らない。そのうち来るだろ」
マリンは不満そうに唇を尖らせたが、反対側の席に座った。
マキは改めてルーシーの方を向き直す。
「で、話の続きなんだが。意志エネルギーと魂についてだ」
彼女は指先で小さく火を灯してみせた。赤い炎がゆらりと揺れる。
「魂は酸素みたいなもんだ。生きてる限り、誰でも持ってる。なくなったら終わりだ」
炎を消すと、今度は掌に薄い光を集めた。
「意志エネルギーは力だ。強さや、色のついたオーラみたいなもの。火のオーラなら、好きな場所に集中させて使える。腕に込めたり、足元に流したり。慣れれば細かく操れるようになる」
ルーシーは自分の手を見つめた。何も起きない。光も、熱も、何一つ感じられない。
「それから罪の王たちだ。奴らはとんでもなく強い術を持ってる。何年も前から存在してるって話だ。特に有名なのがリキューだ。人を殺して回ってる。それに、オーデモベアっていう獣を作り出してる。だからこの辺にもたまに出る」
マキの声は平坦だった。特別恐れる様子もない。ただ事実を述べているだけだ。
そのとき、玄関の方から複数の足音が聞こえてきた。
ドアが開くと、二人の少女が入ってくる。
一人は緑の髪をまっすぐに伸ばした、落ち着いた目元の少女。もう一人は小柄で、白い髪を短く揃えた少女だった。
「ただいま」
先に声をかけたのは緑髪の方だった。
マキが手を上げる。
「遅いぞ、バレンタイン。フロスティも」
バレンタインは軽く頷き、フロスティは無言で部屋を見回した。視線がルーシーに止まる。
「新しい人?」
「ああ。ルーシーだ。今日からここにいる」
ルーシーは立ち上がり、ぎこちなく手を差し出した。バレンタインが静かに握り返す。フロスティも短い握手をした。掌は意外なほど冷たかった。
(この人たちと、これからどうなるんだろう)
ルーシーはぼんやりと考える。その視線の先で、マキが腰の剣を帯に収めていた。金属が収まる小さな音がした。
(……関係あるのかもしれない)
夕食の席では、三人の会話が自然と続いていた。
「六年待ったんだ。今度こそチャンスだ」
マキが肉を切りながら言う。
「指導者の座に必要な宝石を取ってこなきゃいけない。今度の期日に間に合えば、立候補できる」
バレンタインが静かに頷く。
「リンを使う。あれなら早い」
フロスティが短い言葉を挟んだ。
「食糧を積むスペースを確保しておけばいい」
リンというのは、背中に大きな運搬用の籠を乗せた高速の獣らしい。本来なら二十人は乗れる広さがあるが、今回は食料を優先するとのことだった。
「明日、出発だ。今夜のうちに荷造りしておく」
食事が終わると、三人は手分けして準備を始めた。ルーシーは手伝えることが少なく、ただ荷物の横に立っていた。
夜が深くなる前に、マキがルーシーを呼んだ。
「お前の服を揃えに行くぞ。このままだと目立ちすぎる」
二人で市場へ出る。明かりの灯った店が連なり、人通りはまだ多かった。マキは慣れた様子で店を選び、 quant と品物を見ていく。
そのときだった。
マキの腰から、小さな革袋がすっと引き抜かれた。コインの入った袋だ。盗賊はすぐに人混みへ紛れ込もうとする。
次の瞬間、風が変わった。
誰かが猛烈な速さで駆け抜けていく。残像が幾重にも重なり、さらにその先には、本来まだ到達していないはずの像が先行して見えた。男は盗賊の背中に追いつくと、容赦なく拳を叩き込み、膝を正確に蹴り折った。倒れた男から袋をひったくり、来た道をそのまま引き返す。
かかった時間は、わずか四・五秒だった。
男はマキの前に袋を突き出し、短く言った。
「ピーターだ。礼はいい」
そう言い残すと、また残像を残して消えた。
マキは袋を受け取り、呆れたように息を吐く。
「相変わらずだな、あいつ」
ルーシーはまだ、今の光景を処理しきれていなかった。
その後、二人は服を選び始めた。ゆったりしたズボン、ジーンズ、無地のシャツ、簡易的なスーツ、ネクタイ、さらに数枚のバギーパンツとシャツ。剣を吊るすためのベルトも追加する。合計は五百レンだった。
屋敷に戻る頃には、空がかなり暗くなっていた。
門の近くまで来たとき、影が動いた。
一人の男が突然マキの背後に回り、短刀を振り上げる。狙いは背中だった。
ルーシーは考えるより先に動いた。男の腕に飛びかかり、刃を逸らす。そのはずみで、短刀がルーシーの手のひらを浅く抉った。鋭い痛みが走る。
男が距離を取ろうとした瞬間、ルーシーは近くに立っていた細い鉄の棒を掴んだ。振り下ろすが、男は身をひねって避ける。刃が lucy の肩をかすめようとしたとき、彼は低く沈み込み、棒を真上に放り投げた。
男が踏み込みを入れた瞬間、棒が落下してくる。ルーシーは男の頭を腕で固定し、落下してきた棒を受け止め直すと、そのまま横から叩きつける。鈍い音がして、男の右側の頭部が大きく陥没した。体が力なく崩れ落ちる。
動かない。
マキはすぐに近づき、lucy の手を掴んだ。
「止血する。中に入れ」
屋敷に戻り、傷を洗って簡単な治療を施す。深手ではなかったが、血は意外と出ていた。マリンが黙って薬を運び、バレンタインが無言で包帯を巻く。
すべてが終わったあと、マキはルーシーの部屋の前で足を止めた。
「…… tonight 、一緒に寝るか」
ルーシーは思わず目を見開いた。
「え」
「助かった礼だ。嫌なら別だが」
彼の胸の奥で、何かが小さく弾けた。喜びというにはあまりに未熟で、戸惑いに近い感情だった。それでも、口は正直に動く。
「……いいよ」
部屋に入ると、マキは特に何も言わずにベッドの左側に横になった。ルーシーは右側に慎重に体を預ける。距離は近い。彼女の呼吸が、夜の空気の中ではっきりと聞こえた。
ルーシーは天井を見つめたまま、しばらく眠らなかった。それでも、いつかまどろみの中に沈んでいく。
朝が来た。
ルーシーは先に起き、歯を磨き、短いシャワーを浴びた。傷はまだ疼いていたが、指は動く。服を着替え、居間に出ると、すでに全員が準備を終えていた。
外には、大きな獣が待っていた。リンと呼ばれるその生き物は、筋肉質の四肢を持ち、背中に大きな運搬用の枠を固定されている。食料の袋がいくつも積まれていた。
マキが枠に足をかける。
「乗るぞ」
ルーシーは一度だけ屋敷を振り返った。それから、リンの背に体を引き上げる。
獣が低く嘶くと、ゆっくりと走り始めた。
朝の風が顔を叩く。新しい道が、前方に伸びていた。




