最初の夜
屋敷の大きな扉が静かに閉まった。
石造りの廊下は思ったよりも涼しく、空気には古い木材と何か甘い香りの混ざった匂いが漂っていた。ルーシーは思わず足を止めて、天井の高さを見上げた。マキは先に進みながら、特に説明することもなく彼を促すように軽く手を振った。
「……ここには、他にも誰か住んでるのか?」
ルーシーが聞くと、マキは少し不思議そうな顔をして振り返った。
「ん? ああ、住んでるよ」
その言葉とほぼ同時に、廊下の奥から軽い足音が聞こえてきた。やがて一人の少女が姿を現す。明るい髪を肩のあたりで揃え、清楚な印象の服を着た彼女は、ルーシーを見て小さく目を見開いた。
「あ、こんにちは」
「……あ、どうも」
ルーシーが短い挨拶を返すと、少女は彼の顔をじっと見つめた。特に目のあたりに視線を固定している。
「目の色……綺麗だね」
そう言って、彼女は自然な仕草で一歩近づいた。ルーシーは思わず体を硬くする。
「あ……うん」
気まずい笑顔を作って曖昧に頷くしかなかった。マキが間に入るようにして、少女の肩に軽く手を置く。
「マリン。彼は今日からここにいるルーシー。あんまりじろじろ見ない」
「え、だめ? 綺麗なのに」
マリンは少し不満そうに唇を尖らせたが、 complement と後ろに下がった。ルーシーは内心で安堵の息を吐く。
マキは特に気にした様子もなく、彼を案内し始めた。
最初に見せられたのは、屋内にある大きな池のような場所だった。透明な水面が静かに光を反射している。
「ここは室内のプール。本当は決まった時しか使わないんだけど、別にいつ使ってもいいよ。誰も文句言わないし」
次に案内されたのは厨房だった。ルーシーが扉を開けると、冷気と一緒に甘い匂いが顔に押し寄せる。棚には焼き菓子が並び、冷蔵の設備の中には林檎やパイ、ケーキがきちんと保管されていた。
「腹減ったら適当に食べていい。ただし残したら怒るから」
マキはそう言って肩をすくめた。
そして最後に、彼女は一室の前で足を止めた。
「ここがお前の部屋。私の部屋の一番近くにしておいた。広めの方がいいと思って」
ルーシーは扉を開け、中を見回した。決して豪華というわけではないが、清潔で、十分な広さがある。窓から差し込む光が床を柔らかく照らしていた。
「……十分なスペースだ」
そう呟きながら、彼はゆっくりと部屋の中央に立った。
その瞬間、ふと過去の記憶が蘇る。
以前の世界では、ほとんど毎日のように歩いていた。学校からの帰り道。雨の日も、晴れの日も。ほとんど毎日のように殴られた。蹴られた。口の中が切れ、血の味がしたことも一度や二度ではなかった。雨の中で集団に取り囲まれ、腹を強く蹴られた夜のことを思い出す。口から血が滴り、足が痙攣してまともに歩けなかった。それでも家に帰り、「どうしたの」と聞く両親に「ただ遊んでただけ」と答えた。両親は嘘だと分かっていたはずだ。それなのに、何も言わなかった。彼が彼らの思う通りに動かないと怒鳴られ、ある時は本気で殴られた。その夜は何日も泣き続けた。眠っている間にさえ、声が出ていたらしい。
誰も、本当の意味では彼を気にかけていなかった。
なのに今、見知らぬ世界で、見知らぬ少女に「お前の部屋だ」と guested され、普通に扱われている。その事実が、ひどく現実感を欠いていた。
ルーシーはゆっくりとマキの方を見た。
彼女の緑の瞳は、生き生きとしていて、明るい。闇の中で灯るような、そんな光を宿していた。思わず、その顔に手を伸ばしたくなる。頰に触れて、温度を確かめたくなる。
だが、彼はそうしなかった。手を下ろし、視線だけを落とす。
マキが話を続けた。
「ねえ、後で手伝ってくれない? 五時に友達を出迎えるんだ」
「……友達?」
ルーシーが聞き返すと、マキは小さく笑った。
「私の友達。そのうちお前とも仲良くなるかもよ」
その笑顔には、拒絶の色はなかった。どちらかと言えば、彼と話していること自体を悪く思っていないような、そんな余裕が感じられた。ルーシーは短く頷く。
「わかった」
するとマキは、少しだけ真剣な目になって彼を見た。
「そういえば、会ってからずっと気になってたんだけど。お前、意志エネルギーが全然感じられない。隠してるのか?」
ルーシーは首を傾げた。
「意志エネルギーって何だ?」
マキの動きが、そこでぴたりと止まる。
「……はあ? この世界にいる人間なら、誰でも持ってるものだけど」
ルーシーの目が一瞬大きく見開かれた。頭の中で、いくつかの点が繋がる。
(……教えてもらうしかないか)
マキの瞳に、再び小さな光が灯った。相手を受け入れてしまった人間が、無意識に浮かべるような、穏やかな光だった。
「……やっぱり、ここ出身じゃないんだな」
「ああ。そういうことになる」
マキはそれ以上深く追及しなかった。代わりに、彼女は突然ルーシーの手を掴んだ。
「行くぞ」
「どこに?」
「ちょっとした買い出し。付き合え」
ルーシーは一瞬だけ彼女の手を見たが、結局、自分からも軽く握り返した。マキは特に何も言わず、そのまま彼を引っ張るようにして屋敷を出た。
街の商店は、思っていたよりも活気があった。獣の頭を持つ人々が行き交い、売り声が飛び交う。マキは慣れた様子で店の中に入り、必要なものを次々と手に取っていく。パン、チョーク、豆、トマト、ソーセージ、ピーナッツバター、バター。露西ーは袋を受け取りながら、黙って後ろをついて歩いた。
会計は四百レンだった。
マキが小銭を渡し、二人は屋敷へ戻る。買った品物を厨房に整理し、テーブルに向かって座ると、ようやく一息つける空気が流れた。
マキは窓の外を眺めながら、ぼそりと話し始めた。
「この国はヴェミンっていうんだよ。意志エネルギーをどれだけ扱えるかで、生きやすさが結構変わる。お前みたいに何も感じられない人間は……正直、珍しい」
ルーシーは指でテーブルの木目をなぞりながら、静かに耳を傾けた。
「龍に乗って遠くへ行く奴もいれば、街から出ない奴もいる。強い奴は強く、弱い奴はそれに従う。まあ、どこも同じようなもんだろ」
マキの声は、説明というよりは、ただ会話を続けているような響きだった。ルーシーは時々短い返事を返しながら、彼女の横顔を見ていた。
この世界に来てから、まだ一日も経っていない。それなのに、すでに「普通に話を聞いてくれる誰か」が隣にいる。
その事実だけが、彼の胸の奥に、小さく、しかし確かに残っていた。




